序章 初夏の兆し
高山地帯で一番過ごしやすく短い季節、初夏がやってきた。
緑に覆われた山々には柔らかな陽光が降り注ぎ、涼やかな風が谷を駆け抜けていく。村人たちはこの季節を「忙しいけれど幸せな季節」と呼んでいた。なぜなら、この短い夏の間に秋の収穫へ向けての準備を全て整えなければならないからだ。
「エリオ、そこの土をもっと細かく崩せよ!」
村の真ん中にある畑で、ゴルギ・ガンチャカの声が響き渡った。彼の手には大きな鍬が握られ、腰には農作業用の布が巻かれている。真っ黒に日焼けした腕は、長年の農作業で鍛え上げられていた。
「は、はい!」
エリオは手元の鍬を振り上げ、まだ少し固い土を掘り返した。祠での修行から帰ってきて数ヶ月、彼は「恵みの息吹」が強化され、新たな力を得た。村人たちに「豊穣の力」と呼ばれるその能力は、畑に命を吹き込み、枯れかけた作物を蘇らせるものだった。村の誰もがその力を称賛し、頼りにしていた。
しかし――。
「はぁ、これじゃ便利屋だよ……。」
エリオは鍬を握ったまま、ため息をついた。祠での修行中は、もっと壮大な何かを成し遂げるつもりだった。それがどうだろう、村人たちの「緊急のお願い」に応じて、ひたすら畑を耕す毎日だ。
村の風景はいつも賑やかだ。
「おい、誰か川から水を汲んでこい! これじゃ畑が乾く!」
「おお、任せろ!」
どこからともなく村長が登場し、肩に担いだ大きな水桶を村の川へ向かって引きずる。しかし数歩進んだところで彼の腰が「ギクッ」と音を立てた。
「あいたたた……やっぱりお前ら若い者がやれ!」
いつもの展開に、近くの村人たちは笑いをこらえきれずに腹を抱える。
「エリオ、恵みの息吹をくれぇ!!!」
村長はエリオに助けを求めた。
「…………」
エリオは無言で「恵みの息吹」を使い、すぐに踵を返した。
忙しい日々ではあったが、エリオはどこか満足感も覚えていた。村人たちが笑い、畑が豊かに実る様子を見るたびに、自分の力が役立っていることを実感するのだ。
「これが、俺の使命なんだろうか……。」
村の夕暮れ、畑の脇に腰を下ろしながら、エリオは呟いた。涼しい風が彼の頬を撫で、遠くで蛙の鳴き声が響く。
祠の修行で手に入れた力。これが本当に自分の望んだ未来なのか。何かがまだ足りない――エリオはそんな思いを抱えつつも、日々を過ごしていた。
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この日をエリオは忘れない。
時は過ぎ、初夏の穏やかさは過ぎ去り、季節はやがて夏の終わりを迎える。
ある夜、村の空に異変が起きた。
月が赤く染まり、冷たい風が吹き抜ける。山の方からは、聞き慣れない低い音が響いてきた。それは、獣がうなり声を上げるような、不気味な音だった。
「エリオ!」
タリオが家に駆け込んできた。
「ジジイ、どうしたんだ!?」
エリオは慌てて駆け寄る。
「山の動物たちが、村の方に下りてきてるんだ……! これはただ事じゃない。」
「動物たちが……?」
エリオの脳裏に、かつて祠で見た幻がよぎる。
『調和が乱れる時、自然は叫ぶ……。』
胸がざわつく。これは、何かが起きる前触れだ。
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しかし、それはまだ先のこと。エリオは穏やかに初夏の日々を過ごすのだった。




