第20章 落涙
ホルギンガンド家の屋敷は、村から少し離れた丘の上にあり、その堂々たる石造りの構えは歴史と伝統を感じさせるものだった。周囲の庭園は手入れが行き届き、薬草やハーブが整然と植えられている。春の日差しを受け、草木の緑が鮮やかに映えている。
エリオ・ヴァルカスは、重厚な木製の扉が開かれる音に振り返った。そこにはベノ・ホルギンガンドが立っていた。彼女の白髪は陽光を受けて銀色に輝き、鋭い目つきは相変わらずエリオを値踏みするかのようだ。
「まあ、座りな。」
ベノは手招きしながら、部屋の奥にある重い木製のテーブルを指差した。エリオは少し警戒しつつも、指示に従った。
部屋の中は驚くほど整然としていた。棚には瓶詰めの薬草や古びた道具が並び、その隣には燻製肉の匂いが微かに漂う。壁には古い布が掛けられ、家族の紋章が刺繍されている。ホルギンガンド家が代々この村の三役を支え続けた証のようだった。
ベノは、棚の一番上に手を伸ばし、古びた革表紙の冊子を取り出した。慎重に埃を払いながら、彼女はエリオの前にそれを置いた。
「これだよ。」
「……本?」
エリオの声には驚きが混じっていた。村では紙が使われないのが通例だ。それゆえ、本という存在自体が稀少であり、彼の目には異質に映った。
「そう、紙だ。」
ベノはまるで当然のように頷いた。
「まあ、長老たちは山の恵みから紙を作るのは山神さまの怒りに触れるなんて言ってるけどね、くだらない伝統だわさ。」
エリオは目を丸くした。
「それって、本当に大丈夫なんですか?山神さまの怒りとか……。」
「はっ、山神さまはそんなに度量が小さくないわさ。」
ベノは鼻で笑いながら、手記を開いた。
「紙くらいで怒るなら、そもそもこんな大地なんて与えちゃいないっての。」
エリオはベノの潔い口調に感心しつつ、手記に目を落とした。ページは薄茶色に変色し、ところどころに手書きの文字が躍っている。
「これは、私の祖父の祖父のまた祖父――ホルギンガンド家でも初めて『調べ手』と呼ばれた人物の手記だよ。」
「調べ手?」
エリオが聞き返すと、ベノは頷きながら続けた。
「そうさ。読み手と語り手の両方の祝福を受けた者だったんだ。」
その言葉にエリオは目を見開いた。
「読み手と語り手……両方を持つ者が?」
「そうだよ。」
ベノはページをめくり、古い文字を指差した。
「この人は、晩年にこう書き残している。『ワシは枯れた田畑を豊穣に変えられた』ってね。」
エリオは沈黙した。その簡素な一文に込められた力を感じ取りつつも、何か物足りなさを覚えた。しばらくして、彼は思わず漏らした。
「それだけ?」
ベノは一瞬の静寂の後、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「これだけだね。」
エリオは肩を落とした。あまりの簡潔さに、期待していた答えが得られなかった失望感が漂う。
「いいかい。」
ベノの声が急に低くなり、エリオは顔を上げた。
「三役なんてのは、予期せぬおまけに過ぎないんだよ。あんたがいなくても村はなんとかやってきた。厳冬の時代を過ごした私からすれば、力がなくても生き抜けるもんさ。」
その言葉は厳しいものだったが、不思議と温かさを含んでいた。
「だから、あんたは自分のできる範囲で頑張りなさい。焦らずにな。」
エリオは気がつかないうちに涙を流していた。自分の無力さや期待に応えられない焦燥感が、知らぬ間に胸の奥に積み重なっていたのだ。
「何泣いてんだい。」
ベノが意地悪そうに笑いながらも、優しい眼差しを向けた。
エリオは慌てて涙を拭った。
「いや、何でもありません。」
「まあ、どうしても答えを知りたいなら、山神さまの祠に行きな。」
「祠?」
「そうさ。ホルギンガンド家が代々守ってきた祠さ。」
ベノは指を窓の外に向けた。
「あんたなら、何か感じるかもしれない。」
エリオはベノの言葉を胸に刻みつけ、次の行動を決めた。その背後で、ベノは小さく笑みを浮かべながら、彼を見送った。




