第1章 春の訪れ
村はいつも通りに目を覚ました。夜の冷気がまだ空気の中に残っているが、朝日が山を照らし始め、雪解け水が音を立てて流れ出している。家々の煙突からは、暖をとるための白い煙がゆっくりと立ち上り、村の人々はそれぞれの仕事に取り掛かっている。その動きの中に、ひときわ静かな時間が流れているようだった。
エリオ・ヴァルカスは、既に早朝から「読み手」としての仕事を終えていた。山の天候や風の流れを読み取るその役目は、村の生活を支える大事な柱となっている。エリオは天候の兆しを感じ取るだけでなく、その情報を正確に村全体に伝え、災害や天候の変化に対応するための予告をすることが求められている。その予測は、農作物や日常生活に深く関わるため、どんな小さな変化も見逃せない。
彼は、天気予報を記録したメモを手に、村の広場から外れた道を歩きながら、次の作業に向けて準備をしていた。が、ふと気づくと、急に思い出したことがあった。それは、前日、鍛冶屋の娘を治療した際に使った薬草のいくつかが、足りなくなっていることだった。
「これじゃ、次に使う薬草が足りなくなってしまうな。」
エリオはそのことに頭を悩ませながら、薬草収集用の小さなナイフを腰に差し、肩に布袋を掛ける。村には、薬草を集めるための場所が数カ所ある。彼は、その中でも特に自分が良く知る岩場を目指して、歩を進めた。
「今日はどれだけ見つかるかな…。」
クレルヴァ村は標高が高く、山の中腹に位置している。そのため、村の生活は常に自然と密接に結びついている。厳しい山岳地帯に囲まれ、冬は長く、雪に覆われるこの村では、外界との交流は限られており、特に春の始まりは、村人たちにとって唯一の大切な交易の時期だ。村人たちは、外部から来る品物を待ち望み、また村の特産物を持ち寄る。
エリオはそのような状況の中で、自給自足の生活を送りながらも、村のために何ができるかを常に考えている。
村を出ると、入り口で待っていたのは、エリオの祖父、タリオだった。彼は村長として、またエリオの師として、常にエリオの行動を見守っている。その険しい顔を見ただけで、エリオは何か言われるのだろうと予想した。
「エリオ、お前一人で行くつもりか?」
タリオは腕を組みながら、厳しい表情でエリオを見つめている。いつもどおり、注意深く心配しているようだ。
「薬草採取は一人の方が効率がいいよ。ジジイ、心配しなくても大丈夫だって。」
エリオは、少し面倒くさそうに肩をすくめる。だが、その声には不満もあり、同時に祖父への信頼も感じられた。エリオにとって、タリオの存在は大きな支えであり、時には重圧でもある。
「心配しないわけにはいかん。お前が村の希望を背負っていることを忘れるな。」
タリオの言葉には、村長としての責任感がにじみ出ている。エリオはその言葉に、やや反発を覚えながらも、心の中で深く理解している自分がいることを感じる。
「分かってるよ。でも、そんなにがんじがらめにされると息が詰まるってもんだ。」
エリオはそう言い残して、タリオに軽く手を振りながら村の外へと向かう。祖父の心配を無視するように歩き出すその姿には、少しの反抗心と共に、村に対する使命感が見え隠れしていた。
村の外れを抜けると、小高い丘の上に広がる広場が見えてきた。その中央では、年配の村人たちが集まっており、子供たちに伝承を語り聞かせていた。村では、口伝の伝統が大切にされており、毎年、春の始まりには若い世代に向けて山神や村の歴史を伝える儀式が行われる。
エリオは、ふと足を止め、広場に近づく。伝承を語る年配の村人の声が、風に乗って耳に届いてくる。彼の心は、幼い頃に聴いたその話を思い出し、ふと懐かしさに包まれる。
「さて、皆よく聞け。山神さまの祝福は50年に一度、実りの時代か厳冬の時代に現れる。祝福を受けた者たちは『三役』と呼ばれる。それぞれ、村を守り導くための特別な能力を授けられるのじゃ。」
語り手の年配の村人は、ゆっくりと話を進める。エリオはその言葉に、自然と耳を傾ける。その語りの中で、自分の役割を改めて思い出す。
「三役とは癒し手・読み手・語り手という山神の祝福を受けたものを指す。」
その言葉に、エリオは微かに震える。彼はその三つの能力、すべてを授けられた者として、村のためにその力を使っている。が、どうして自分がそのすべてを受け継いだのか、時折その理由がわからなくなることもあった。
「癒し手とは『恵みの息吹』という力を持つ者。病や傷を癒し、生命力を与える力だ。」
「読み手とは『風見の導』という力を持ち、天候や自然の兆しを読み取る力だ。」
「語り手とは『山智』という山の知識や記憶に触れる力を持つ者。」
これらの力が、村を支え、守るために使われてきた。エリオもその一員として、これから何を成すべきかを常に考え、行動している。
「通常、この三役は三人の異なる者に授けられる。しかし、エリオは稀な存在だ。」
その言葉がエリオの胸に響く。彼は、5年前に前世の記憶を思い出し、それと共に三つの力を授けられた。村人たちはそれを祝福として受け取る者もいれば、不吉な兆しと捉える者もいた。
「俺がすべての祝福を受けたってことは、きっとただの偶然じゃないんだろうな。」
エリオは小さく呟くと、伝承を聞き終えた村人たちに礼を言い、広場を後にした。彼は自分の運命を、受け入れた者として、前に進むしかなかった。
広場を後にし、村の外れに広がる森林地帯を抜けると、目の前には険しい岩場が広がっていた。これまで何度も足を運んでいる場所だ。
エリオは、険しい岩場の中央にある平らな石の前に立ち、両手を広げて静かに目を閉じた。その心を落ち着け、深く呼吸をしながら、山智の力を感じ取ろうとした。
「山智よ、今日も力を貸してくれ。必要な薬草が見つかりますように。」
エリオの心の中で、山の存在が微かに反応するのを感じた。風がざわめき、木々が揺れる音が耳に届くと同時に、土の中から、岩の隙間から、何かが語りかけてくるような感覚が広がる。それは言葉ではなく、心に直接流れ込むような、ただ確かな導きだった。
「そこか……」
エリオは目を開け、導かれるように足を進める。岩を越え、木々を抜け、さらに奥へと歩みを進めると、足元に小さな青い花が咲いているのを見つけた。それは、発熱を抑える効能がある薬草、エリオが何度も見たことがある植物だ。
「これで補充完了だ。」
エリオは満足げにその薬草を摘み取り、慎重に袋に収めた。山智の力がまた一つ、彼を正しい場所に導いてくれたのだと実感する。彼はしばらくその場所で深呼吸をし、山の静けさと力強さを感じていた。山智の力を借りることで、彼はただ自然の中で生きるのではなく、自然と一体になり、導かれるような感覚を得ていた。
その後、薬草を袋に収め、再び村へ向けて歩き始めた。今度は、村の広場に向かう途中で何か予感がしていた。少し立ち寄りたくなる場所があったのだ。
村に戻ると、広場にはすでに多くの村人たちが集まり、荷馬の周りに群がっているのが見えた。行商人ロナード・グリセヴァが、荷馬から品物を下ろしているところだった。彼は笑顔で村人たちに話しかけており、その陽気な声が広場に響いている。
「さて、クレルヴァの皆さん!今年の春も素晴らしい品物を持ってきましたよ!特に、こちらの布地は丈夫で長持ち。衣服に最適です!」
エリオはその声に引き寄せられるように足を進める。荷馬には、外部との交易で手に入れたさまざまな品物が積まれており、村人たちの興奮した声が聞こえる。塩や乾物、繊細な織物、磨き抜かれた金属製品などが所狭しと並び、どれも村にとって貴重な品々だ。
ロナードの隣には、村の山岳馬であるヴァルステッドが静かに立っていた。厳しい山岳地帯において、この馬はただの運搬用の動物ではない。村人たちの重要な相棒であり、山の中を生き抜くための象徴のような存在だ。
エリオはその山岳馬を見つめ、思わず微笑んだ。この馬が、いかに村の生活に欠かせない存在であるかをよく知っている。エリオ自身も、いずれは自分の山岳馬を持つべきだろうと考えているが、今はまだその時期ではない。
「ロナードさん、今年も山岳馬たちの調子は良さそうですね。」
エリオが声をかけると、ロナードはにっこりと笑って応じた。
「ああ、もちろんさ。この子たちがいなければ、こんな険しい山道を越えるなんて無理だ。エリオ、お前もいつか自分の山岳馬を持つべきだな。」
「うーん、まだその時期じゃないと思いますけど。」
エリオは照れくさそうに頭を掻きながら答えた。今はまだ、村のために必要な薬草を集め、予測を伝え、そして村の命を守る役目を果たすことが最も重要だと思っていた。
広場では、村人たちが次々と品物を手に取り、ロナードとの交渉を始めていた。干物や塩、珍しい布地など、外の世界から来た品々が、村に新たな風をもたらしている。村の子供たちは、積まれた荷物の間を興味深そうに覗き込んでおり、その目はキラキラと輝いていた。
その中で、エリオはロナードに歩み寄り、小声で話しかけた。
「実は、少し薬草が足りなくて困っているんです。外から何か有用なものを持ってきていませんか?」
ロナードは顎に手を当て、考え込むように少し静かになった。
「そうだな、確かに幾つか珍しい薬草を持ってきたはずだ。ただ、高価なものだぞ。」
「そこはなんとか……村の治療に使うものですから。」
エリオは真剣な表情で頼み込むと、ロナードは微笑みながら荷車の奥から乾燥された葉や根をいくつか取り出した。
「これが使えると思う。値段は村の特産品で交渉しよう。」
エリオは感謝の気持ちを込めて頭を下げた。
「ありがとうございます!村長と相談してすぐに用意します。」
その後、エリオは薬草を受け取り、村の人々と共に交易品を仕分ける手伝いを始めた。ロナードが持ち込んだ品物はどれも村にとって必要なものであり、村人たちの表情からはその喜びが伝わってくる。
山岳馬たちが再び荷を積まれると、ロナードは村の皆に手を振りながら出発の準備を始めた。村人たちは彼に感謝の声をかけ、その姿を見送る。エリオもその光景を静かに見守りながら、村と外の世界が繋がるその瞬間を大切に感じていた。
「これが、村と外の世界を繋ぐ大切な瞬間なんだな…。」
エリオはその言葉を心の中で呟き、広場に残った村人たちと共に日常へと戻っていった。彼にとって、村の生活はただの過ごし方ではなく、すべてが山神からの祝福を受けて繋がっていると感じていた。どんな困難が待ち受けていようとも、彼は前に進むべき道をしっかりと見据えながら歩き続けるのだ。