第17章 春の嵐④
エリオは星勇の背にまたがり、嵐の中で必死に進んでいた。岩肌に雨が流れ、道なき道を切り裂くように濁流が迫る。雨音はますます激しくなり、星勇の蹄が泥に沈むたびに、その重さに耐えるよう全力で足を踏みしめていた。
視界はほとんど効かない。それでもエリオは山神からの啓示ともいえる感覚を頼りに進み続けた。
「あっちだ……あの崖の向こう!」
胸の奥から湧き上がる確信。それは理屈では説明できないが、信じずにはいられなかった。
崖の縁に差し掛かると、強風が吹きつけ、エリオは星勇の背から降りた。岩場はぬかるみ、ひとたび足を滑らせれば命取りになりかねない状況だ。星勇は重たい息を吐きながらも、主人に従いその場で待機した。
「ゴルギさん!返事をしてくれ!」
エリオは声を張り上げた。崖の下には濁流が轟き、落ちた岩が水に呑まれていくのが見える。
エリオの心は焦りに満ちていた。
「ゴルギさんがここにいるわけがない……でも、確かにこの先だという気がするんだ!」
彼は自身の感覚を信じ、崖の縁をさらに進んだ。
その瞬間、突風が吹き抜け、エリオの足元の石が崩れた。彼は反射的に岩にしがみつき、体勢を立て直す。星勇は不安げに鼻を鳴らし、彼を見守っていた。
「……山神よ、どうか導いてくれ!」
エリオは心の中で叫んだ。
次の瞬間、風が一瞬だけ止み、嵐の音が遠ざかったかのような感覚に包まれた。そして、崖の下方からかすかに聞こえる声――いや、何かの音が耳に届いた。「……あれは!」エリオは慎重に体を乗り出し、崖下の木立に目を凝らした。
そこには、木に引っかかったマントの端が見えた。
「ゴルギさん!そこにいるのか!」
エリオは再び叫ぶが、返事はない。それでも、彼は確信した。
「あれはゴルギさんのだ!」
エリオは星勇のもとへ戻り、再び手綱を握りしめた。
「星勇、もう少しだけ頑張ってくれ!」
馬は鋭く鼻を鳴らし、主の決意に応えるように足を踏み出した。
崖の縁に沿って進むうち、エリオはようやく安全に降りられる場所を見つけた。足元の泥に滑りながらも、星勇を残してひとり崖下に向かう。木々の間を掻き分けながら、濁流の近くまで進んだ。
そしてついに、岩場に倒れ込むように横たわるゴルギ・ガンチャカの姿を見つけた。彼は意識を失っているが、辛うじて呼吸をしている。
「ゴルギさん!」
エリオは急いで彼に駆け寄り、その体を揺さぶった。濡れた衣服から体温がほとんど感じられない。
「くそっ、寒さでやられてる……!」
エリオは躊躇なく、手のひらをゴルギの胸にかざした。
「恵みの息吹……!」
口にした瞬間、彼の手のひらから柔らかな光が広がり、温かな風が吹き出した。その風はゴルギの体を包み込み、徐々にその冷たさを和らげていく。
「頼む、目を開けてくれ……!」
エリオの祈りにも似た呟きが続く中、ゴルギの顔色がほんのわずかに戻ってきた。そして、彼の唇がかすかに動く。
「……エリオか……?」
「ゴルギさん!よかった……!」
エリオは安堵のあまり声を震わせた。
「でも、まだ安心するのは早い。星勇のところまで運ぶぞ!」
エリオはゴルギを背負い、濁流に足を取られそうになりながらも、必死で崖を登った。星勇は崖の上でじっと待っていた。エリオがゴルギを背負って戻ると、馬はすぐに彼らの乗る準備を整えた。
「よし、頼むぞ、星勇!」
エリオはゴルギを馬の背に乗せ、自身もその後ろに跨った。
嵐の中、星勇は全力で村へと戻り始めた。濁流を避け、倒れた木々を飛び越えながら、彼らは村への道を進んでいく。エリオの視界には、雨の向こうに村の明かりがぼんやりと見え始めていた。
ようやく村の入り口に到着すると、集会所から人々が駆け寄ってきた。アリシアもその中にいた。エリオはゴルギを慎重に降ろし、タリオに指示を飛ばした。
「急いで火を焚いてくれ!濡れた服を脱がせて、体を温めるんだ!」
村人たちの手際良い行動により、ゴルギは無事に保護された。エリオは濡れたまま星勇に寄り添い、彼の鼻を優しく撫でた。
「ありがとう、星勇。お前がいなかったら無理だった……。」
エリオは胸の奥に込み上げる感情を抑えながら、嵐がまだ続く空を見上げた。「俺にもっと力があれば……もっと早く……。」その呟きは、嵐の中に消えていった。
嵐は相変わらず激しさを増していたが、エリオの胸には小さな確信があった。「山神が俺たちを見守ってくれている……。」そう信じることで、彼はようやく疲れた体を星勇の側で休めた。