第16章 春の嵐③
「ゴルギさん!無事でいてくれ!!」
エリオの叫び声は、山中を吹き荒れる嵐の怒号にかき消された。空を覆う暗雲はその厚みを増し、雷鳴が大地を震わせる。木々が激しく揺れ、その枝葉は宙を舞うように吹き飛ばされていく。風は肌を切り裂くように冷たく、雨はまるで針のように降り注いでいた。
エリオは星勇の背にしっかりと腰を据え、荒れる山道を必死に進んでいた。星勇の力強い蹄が泥だらけの地面を踏み締め、ぬかるみに足を取られそうになるたびに鋭く鼻を鳴らしていた。
「頑張れ、星勇!もう少しだ!」
雨が目を刺し、視界がほとんど効かない中、エリオは手綱を握りしめながら前を見据えた。向かう先は山の中腹にある小さな山小屋。そこには豪農ガンチャカ家の家長、ゴルギ・ガンチャカがいるはずだった。いや、そこにいてくれなければ困る。
嵐は容赦なく山を蹂躙していた。風が斜面を駆け上がり、岩を砕き、枯れた木々を薙ぎ倒す。谷からは濁流が轟音と共に流れ出し、土砂崩れが起こる気配すら感じられた。
「どうして……こんな嵐になるなんて……!」
エリオは心の中で叫んだ。風見の導で嵐の予兆を察知していたが、ここまで激しいものになるとは思わなかった。山の天気は変わりやすい。それでも、この荒れ狂う状況は予想を超えていた。
ゴルギ・ガンチャカは村の誰もが一目置く人物だった。広大な土地を所有し、村の経済の多くを支える彼は、強烈な存在感を放っていた。その反面、性格は豪胆で頑固。時に無茶をすることもあり、村人たちからは「変わり者」と言われることもあった。
エリオとは何度も衝突してきた。ゴルギは古い伝統に固執しがちで、エリオの革新的な提案に対して強い反発を示すことが多かった。それでも、いざとなれば互いを認め合う関係でもある。ゴルギの娘、アリシアがエリオの許嫁候補の一人という事情もあり、単純な対立では終わらない複雑な関係が二人を繋いでいた。
ようやく山小屋にたどり着いたエリオは、雨に濡れた扉を乱暴に開けた。しかし、小屋の中にはゴルギの姿はなかった。代わりに目に飛び込んできたのは、冷え切った暖炉と机の上に置かれた湯飲み。中にはぬるくなっただけの茶が残されていた。
「ここにいたのは間違いない……。」
エリオは歯を食いしばりながら、小屋の中を徹底的に調べた。ゴルギの上着もそのままだ。ここを離れる際にそれらを持っていかなかったということは――。
「まさか、外に出たのか……?」
その考えが頭をよぎった瞬間、エリオは小屋を飛び出した。雨と風が全身を襲う中、彼は周囲の地形を見渡しながらゴルギの足跡を探した。
「ゴルギさん!どこだ!!返事をしろ!!」
叫び声は嵐に呑まれて消えた。エリオは星勇と共に小屋の周囲を駆け回り、岩場や木陰、崖の端までくまなく探した。しかし、どこにもゴルギの姿はない。
「何やってんだよ、ゴルギさん……!こんな嵐の中で外に出るなんて……!」
焦りと苛立ちがエリオの胸を満たしていく。冷たい雨が彼の頬を伝い、それが涙と混じっているのかもはやわからなかった。
「俺に……もっと力があれば……。」
エリオの声は次第に掠れた。風見の導と山智があるとはいえ、この嵐の中で正確な位置を掴むのは不可能に近い。
「俺に……!!もっと力があれば……!!!」
それでも後悔しても遅い。それがわかっていても、悔やまずにはいられない。
その時だった。風の流れが一瞬だけ変わり、まるで嵐そのものが静寂を許したかのような感覚に包まれた。エリオは馬上で硬直し、息を呑む。
「……あっちだ……!」
胸の奥から湧き上がる確信。それは風見の導と山智とも異なる、もっと根源的な感覚だった。山そのものが自分に語りかけているような、圧倒的な存在感。
エリオは手綱を握り直し、星勇に声をかけた。
「星勇、行くぞ!俺たちなら行ける!」
星勇は鼻を鳴らし、嵐に逆らうように前進を始めた。その足取りは重く、雨に濡れた岩場は危険そのものだったが、エリオは迷うことなくその道を進んだ。
嵐の中、彼の叫び声が再び響き渡る。
「ゴルギさん!!絶対に助けるからな!!」
風と雨の中で、エリオの決意が試されるような瞬間が続いていった。山の嵐は激しさを増し、彼の行く手を容赦なく阻んでいた――。