第10章 あとのまつり
春迎祭が終わり、クレルヴァ村はいつもの静けさを取り戻していた。祭りの華やかな飾り付けは外され、広場には普段通りの喧騒が戻ってきている。村人たちは収穫や家事、家畜の世話に追われながらも、祭りの余韻を語り合っていた。子どもたちはあちこちに散らばった花飾りを拾い集め、何やら秘密の遊びに興じている。
そんな中、エリオ・ヴァルカスは村長宅の広間で頭を抱えていた。
「はぁ……これ、本当に終わるのか?」
彼の目の前には小さな黒板と数えきれないほどの木製のコイン、それに交換された品々が山のように積まれていた。村では物々交換が主流だが、春迎祭のような大型の催事や、ロナード・グリセヴァのような行商人との取引の際は、貨幣が使われる。その清算処理を担うのが、商家のファルファウ家と村長家、つまりヴァルカス家だった。
「…エリオ、暗算が基本だけど…黒板がこれじゃ狭すぎ……だよね?」
ルシア・ファルファウが小さな声で呟きながら、エリオの隣でこまごまと数字を書き込んでいる。彼女の青い髪が黒板の端をふわりとかすめた。
「それを早く言ってくれよ!」
エリオはため息混じりに答えた。
ファルファウ家はクレルヴァ村の商家であり、村人たちの生活を支える流通や交換の管理を一手に引き受けている。家長のぺぺルト・ファルファウは計算に長けた頭脳派で、妻のリキア・ファルファウは細やかな気配りで村人たちから信頼を得ている。二人の娘ルシアも幼いながらに計算や管理の才能を発揮しており、将来を期待されている。
「ルシア、もっと余裕持ってやっていいんだぞ。別に全部今日中に片付けなくてもいいんだから。」
エリオがそう言うと、ルシアは一瞬だけ顔を上げたが、すぐに目線を戻した。
「……わかってるよ。でも、エリオが困ってるなら手伝わないと。」
その声はどこか遠慮がちだ。
そんな彼女の様子を、生暖かい視線で見守っているのが、ぺぺルトとリキアのファルファウ夫妻だった。
「おやおや、ルシアったらすっかり役立つ娘だねぇ。」
「ほんとにねぇ。エリオくん、我が家のルシアを頼りにしてくれて嬉しいわ。」
その様子にエリオは内心で(頼りにしてるのは確かだけど、なんか違う気がする)と思いながら苦笑するしかなかった。
その時、広間の隅で書き物をしていた村長が突然立ち上がり、大きく咳払いをした。
「よし、わしが一肌脱ごう!この計算は難しいからな、わしが手伝ってやる!」
その手には、内容がぐちゃぐちゃな黒板が握られていた。
「いや、それはもうルシアが終わらせてますから。」
エリオはさらりと返すが、村長はまったく気にした様子もなく、さらに続ける。
「エリオよ、これからが村を守る者の本領発揮だ。お前がもっと頑張らんと、この村はどうなるかわからんぞ!がんばれ!」
「……村長、檄を飛ばすならせめて手を動かしてください。」
エリオは眉間を押さえながら小声で呟いた。
「なんだと?わしはこう見えても忙しいんだぞ!」
そう言うと村長は再び隅の席に戻り、やる気のない感じで計算をはじめた。
日は徐々に傾き、広間の中には焚き火の淡い光が差し込んでいた。
「エリオ、次はこの商品だよ。」
ルシアがそう言いながら新しい黒板の束を差し出す。
「……終わりが見えない。」
エリオは途方に暮れた表情を浮かべながらも、手を止めることはなかった。
「おい、エリオ。大丈夫か?こんなに頼れる婿がいてうちは助かるよ。」
ぺぺルトが冗談めかして声をかけた。リキアも笑いながら、
「本当にねぇ。もうルシアもエリオくんにお任せで安心だわ。」
それを聞いてルシアは真っ赤になり、
「お父さん、お母さん!やめて!!!」と叫びながら手元の商品をぎゅっと抱え込んだ。
エリオはそんな彼女を見て微妙な距離感を再認識しながら、ただ苦笑するしかなかった。
こうして春迎祭の後処理は、喧騒と笑い声の中で少しずつ進んでいく。外では日が沈み、村全体が夕闇に包まれ始めていた。エリオは最後にひとつ深呼吸をし、手元の仕事に再び向き直る。春迎祭は終わったが、村の日常はまだまだ続いていくのだった。