忌むべき番
――やっと、この日が来た。
長い苦しみから解放される日が。
「メルヴィ・ハハリ。お前と離縁する」
宮殿の大広間に低い声が響き渡る。声の主はこの龍族の国、ザブァヒワ皇国の皇太子ヴァルラムだ。
艶々と輝く緑の髪に、赤い瞳を持つ美丈夫。顔の一部は鱗に覆われているが、それは彼の整った顔を損なうどころか、より完成された美を形作っている。
ヴァルラムの傍らには、同じく龍族の麗しい娘が寄り添っていた。その身体を纏う高価そうなドレスや装飾品から、高位貴族の令嬢であると嫌でも分かる。
一方でメルヴィと呼ばれた娘は、質素なドレスを着て所在なさげに立っていた。煌びやかに着飾った貴族たちの中で、それはひどく異質に見える。……彼女が人間という点を除いても。
「お前は番の認識阻害薬を服用し、自分自身をこの俺の番と誤認させた。そのせいで、俺はこのマトローナを番と認識することが出来なかったのだ」
「私はそのような薬を飲んだ覚えはございません」
「しらばっくれても無駄だ。お前の部屋から阻害薬の空き瓶が見つかったと、侍女が告発した」
「大人しく罪をお認めなさいませ、メルヴィ様」
勝ち誇ったように、ヴァルラムの隣に立つマトローナが嘲笑う。
「おかしいと思っていたのだ。人間の娘如きが、皇太子殿下の番などと」
「見なさいな、あの貧相な身体!あんな体躯で殿下の隣に並び立てるとでも思ったのかしら」
「身分が目当てだろう。浅ましい」
居並ぶ貴族たちもまた、メルヴィへ冷たい視線を向ける。彼らの嘲弄はさざ波のように大広間に広がっていった。
「メルヴィ、お前との婚姻は無効とし、国外追放に処す。分かったらこの場から去れ。その忌まわしい姿を、二度と俺に見せるな」
「畏まりました」
俯いたまま、ぎこちないカーテシーをするメルヴィ。
「無様なことだ。自業自得だな」
「ヴァルラム殿下はお優しいこと。処刑にしても良いほどの罪ですのに」
追い打ちをかけるような非難の声をその背に受けながら、メルヴィは大広間から立ち去った。
その場にいる者は皆、気付かない。俯いた彼女が、薄い笑みを浮かべていたことに。
◇ ◇ ◇
『番』という言葉に、人はどのような印象を持つだろうか。
この上ない幸福をもたらす物だと言うかもしれない。魂から惹かれあうというロマンチックな存在に、憧憬を抱くかもしれない。
だがメルヴィにとって『番』とは――忌むべきものだった。
メルヴィの生まれはフォルア王国だ。龍族どころか獣人すら滅多にいない、小さな国である。彼女はそこで愛する家族に囲まれ、至極普通に生まれ育った。
だから、「番」なんてものはお伽話と同じくらい、自分には縁のない物だと思っていた。あの運命の日までは。
王都を訪問したザブァヒワ皇国の皇太子がパレードを行うと聞いて、メルヴィは恋人のレイノと連れ立って見物に行った。
そこで、ヴァルラムに見初められたのだ。
訳の分からないまま王城へ連れて来られたメルヴィに、ヴァルラムは「お前は俺の番だ」と告げた。
目の前にいるのはゾッとするくらい美しく、かつ逞しい体躯の青年。彼にそう言われれば大抵の娘は喜ぶだろう。メルヴィは喜ぶどころか、困惑していたけれど。
「私が殿下の番!?あの……私はただの平民の娘です。何かの間違いでは」
「人間族は番を見つける力が薄いというのは本当のようだな。龍族は番に対する嗅覚が鋭い。俺がそう感じたのだから間違いはない。お前を後宮に迎える故、支度をしておくように」
自分が、ザブァヒワ皇国の後宮に入る?
余りにも想像を超えた事実に、メルヴィは考えが追いつかない。
後宮へ入ると言うことは、この麗しい皇太子殿下の妻になるということ。
しかし、自分には既にレイノという恋人がいる。
「それは、お断り出来るものでしょうか?」
居並んだフォルア国の王族や重臣がざわりとした。ヴァルラムの側近たちは「ヒッ」という声を上げて怯えている。目に見えて主君の機嫌が悪くなったからだ。
「俺がお前を望んでいるのに、拒否するというのか?」
「ヴァルラム殿下!彼女は平民ゆえ、殿下の番という栄誉を理解していないのでしょう。儂がしっかりと言い聞かせますゆえ」
眼光鋭くそう言い放ったヴァルラムへ、焦った様子のフォルア国王が口を挟む。
ザブァヒワ皇国は大国。フォルアのような小国など、皇国がその気になればあっという間に滅ぼされる。
だがメルヴィにそんなことは分からない。彼女はただ、民として当たり前のように敬愛していた国王が、この若き龍にぺこぺこと遜る様を呆然と眺めるだけだった。
「よかろう。輿入れは3ヶ月後だ。それ以上は待たん。それまでにその娘へ、自分の立場を十分に分からせておけ」
フォルア国王と重臣たちはメルヴィを囲み、番というものについて懇々と説明した。
龍族には本能で求める相手、すなわち番がいること。
一度出会ってしまったら互いに求めずにはいられないこと。
番として求める相手に拒否されることは、大変に不名誉であること。
「番に出会えるのは、かなり稀という話だ。これは大変な幸運なのだよ。ヴァルラム殿下と番えば、そなたも多大な幸福を得られるだろう」
これは命令だと、渋るメルヴィへ国王は言い渡した。
逃げ出したりすれば、家族や近しい者を処刑するとも。
愛する家族や恋人のため、メルヴィは輿入れを了承するしかなかった。
「龍族は番を生涯大切にすると聞く。しかもお相手は大国の皇太子だ。きっと、幸せになれるだろう」
輿入れの日、両親は泣きながらメルヴィを送り出した。
それは娘へ向けてというより、自分たちを納得させるための言葉であるようにメルヴィは感じた。もう二度と娘に会えなくなるということを、彼らは知っていたのである。
二週間近く馬車に揺られて皇国へと入ったメルヴィは、ザブァヒワ宮殿の壮大さに圧倒された。
フォルアの王城だってメルヴィにとっては巨大な建造物だ。だがサヴァヒア宮殿は、フォルアとは比べ物にならないくらい広大で豪奢な城だった。
だが、メルヴィに与えられたのは後宮の隅っこにある小さな部屋。
「メルヴィ様は平民の出とお聞きしておりますから、このくらいがちょうどお過ごし易いかと思いますわ」
後宮を纏めているという女官長マルファが、口の端を歪めながらそう言った。
部屋が狭いのは別に構わない。実家は自分の部屋すらなかったのだから。だけど彼女から伝わる悪意に、メルヴィはこれからの生活が決して楽しいものではないであろうことを理解した。
「メルヴィは何歳になったのだ」
輿入れした翌日、ヴァルラムがメルヴィの部屋へ来た。
「今年で16歳になります」
「人間族で16歳とは、子供なのか?」
「え?ええ。未成年ですから、子供と言えば子供ですね」
「……そうか」
それだけ聞くと、ヴァルラムは去っていった。
それからの日々は、メルヴィにとっては思い出したくもない過去だ。
学のない彼女に教養と行儀作法を身につけさせるべく、講師がつけられた。その年輩の講師は毎日のようにメルヴィの無知を詰る。
侍女は二人いたが、彼女たちもメルヴィに対する侮蔑的な態度を隠しもしない。何かを頼んでもはぁと面倒臭そうにため息をつくのだ。
部屋から自由に出入りする事すら、許されない。少し息抜きがしたくて庭へ出たところ、女官長が飛んできた。
「勝手にうろついて、何をなさっていたのですか?」
「えっと、庭にフリーサスの花がたくさん生えていたから……。この花の香りがとても好きなんです。だから香油を作りたくて」
「香油が欲しければ侍女に言えばよろしい。許可なく部屋から出てはなりません。ここにいらっしゃるのは皆、龍族の高貴なご令嬢ばかりなのです。貴方のように身分の低い、しかも人間の娘など目に入るのすら嫌がられる方も多いのですよ」
ヴァルラムには妃が複数いるということを、メルヴィはその時初めて知った。彼女たちは、既にヴァルラムと閨を共にしているということも。
「メルヴィ、何か不自由していることはないか?」
「いいえ、特にありません」
「後宮の事はマルファに一任してある。困ったことがあれば、彼女へ相談するように」
たまにヴァルラムはメルヴィの部屋を訪れる。
彼が自分を見る目には熱があった。
メルヴィもヴァルラムを見ていると胸が高鳴り、身体が熱くなる。だけど、愛しているかと言われれば――違うと思った。
そもそも愛しているといえるほど、彼を知らないのだ。
龍族は一度番に出会うと、その相手と離れてはならないとされている。もし相手を失えば、精神的に不安定になるらしい。龍の血が濃ければ濃いほどその傾向は強くなる。龍族の長たる皇族は、言わずもがなだ。
つまり、メルヴィに求められているのは……ヴァルラムの精神を安定させるために、慰み者となること。
後宮の者たちの自分に対する扱いに、ようやく得心がいった。彼女たちはメルヴィのことを下級娼婦くらいにしか思っていないのだ。
ある日、宮殿で開かれる夜会へ出席するようにと、ヴァルラムから言伝てが届いた。侍女に化粧を施され、慣れないドレスを来て参加したメルヴィ。だが煌びやかなドレスを纏う品の良い令嬢やご婦人たちは、彼女を見て眉を顰めた。
「あれが皇太子殿下の番という娘?」
「あんな小さな身体で、殿下のお相手が務まるのかしらねえ」
「しかも見て、あのセンスの悪いドレス!これだから平民育ちは」
そんな声が耳に届く。みな扇を当てているため口元は見えないが、きっとその下には意地の悪い笑みが浮かんでいるのだろう。
ドレスを選んだのは侍女である。彼女は女官長の指示で、わざと流行遅れのドレスを用意したのだ。
ヴァルラムはといえば、自らのお妃たちや、妃候補になろうと目論む令嬢たちに囲まれている。メルヴィと目が合うと嬉しそうな顔はするけれど、すぐに他の者と会話を始めた。
この場に味方は誰もいない。メルヴィは厳しい視線に晒されながら、夜会が終わるまでただ俯いて耐えた。
そうして五年が過ぎた頃。マトローナ・アルバトフ侯爵令嬢が成人を迎え、後宮へ輿入れすることとなった。
その日は後宮中の女性が並んで出迎えた。何せ、彼女はヴァルラムの正妃最有力候補であり、いずれは後宮の主となるかもしれない者なのだ。
勢ぞろいした女性たちの中には、勿論ヴァルラムの妃たちもいた。メルヴィはその列の一番後ろだ。
マトローナはたくさんの侍女を引き連れて現れた。その輝くような麗しさに、その場にいた者はみな息を呑む。メルヴィもその美しさに目を奪われた。
彼女は優雅な所作で、妃たちへにこやかに挨拶をする。そしてメルヴィの前までくると、ぴたりと歩を止めた。
「貴方が、メルヴィという娘?」
「はい、そうです」
「貧相な娘ね。どうしてこんなのが、ヴァルラム様の番に選ばれたのか……」
マトローナは、扇でメルヴィの顎をくいっと持ち上げた。
「番だからって、いい気にならないでちょうだい。あの方の正妃が務まるのは侯爵令嬢たるこの私だけよ。私をさしおいて後宮で幅を利かせようなんて気は起こさないことね」
「そんなつもりは毛頭ありません」
「そう。聞き分けが良いところは褒めてあげるわ。せいぜい、その小さな身体であの方を慰めて差し上げなさい。いつまで保つかは分からないけど」
居並んだ妃や侍女たちがくすくすと笑う。後ろに控えていた女官長も、声は出さないが意地の悪い笑みを浮かべている。
美しく堂々とした彼女に、憧れすら抱いていたのに……。そんな気持ちはあっという間に萎んでしまう。
そしてその日以降、ヴァルラムは一切メルヴィへ会いに来なくなった。
「ヴァルラム殿下のマトローナ様へのご寵愛ときたら……今晩もいらっしゃるらしいわよ」
「マトローナ様が、真の番だったという話は本当かしら?」
「そうに違いないわよ。人間の娘が番なんてあり得ないもの。あの娘とは一度も夜を共にしてないって話でしょ?何のためにここへいるのかしらねえ」
窓からそんな話し声が聞こえてきた。口さがない下働きの者が、立ち話をしているのだろう。
後宮の庭を歩くマトローナとヴァルラムを見かけたことがあった。彼女と腕を組んで歩くヴァルラムは、心底愛おしそうに隣に立つ妃を見つめている。
こちらを見た彼と一瞬、目が合った。メルヴィの姿を認めた途端、その瞳には憎しみの色が浮かんだ。
無関心ならばまだ分かる。なぜ、憎悪を向けられなければならないのだろうか。
その答えが得られたのは、あの断罪の場だった。
ヴァルラムは、メルヴィが認識阻害薬を使って不当に番の立場を得ようとしたと思っている。
勿論、彼女は薬など使っていない。十中八九、マトローナか他の妃候補の罠であろう。
だけど自分が何を言ったところで、今のヴァルラムは信じないだろう。
だからメルヴィは黙って刑を受け入れたのだ。
「皇太子をだまくらかした大罪人だってのに、追放だけで済ますなんてずいぶんお優しいよなあ」
「人間の国まで連れて行かなくったって、そこら辺に放り出しときゃいいのによ」
その日のうちにメルヴィは宮殿から追い出され、龍族の衛兵二人に監視されながら粗末な馬車でフォルア国へと送られた。
フォルアの国境で彼らを待っていたのは、一台の馬車。荷馬車といっていいほどの粗末なものだ。そこから御者の男が降りてきて、衛兵へ話しかけた。
「ヴァルラム皇太子より、罪人をフォルア王城まで運ぶように仰せつかっております」
「こちらはそんな話は聞いていないが」
「あれ?おかしいな。メルヴィという人間の女でしょう?フォルア国王が引き取って然るべき罰を与えるそうです。俺も一昨日聞いたばかりなんで、行き違いがあったのかもしれませんね」
「そうなのか?まあ、いいか。フォルア王都まで行くのも面倒だしな」
衛兵はメルヴィを馬車から乱暴に引っ張り出した。手荒に放り出されて地面に転がった彼女を「じゃあな、番もどきの嬢ちゃん。もう戻ってくるなよ!」と笑い飛ばしながら、彼らは去っていく。
「大丈夫か?」
御者がメルヴィへ手をさしのべる。髭が延びているけれど、その日焼けした肌と温かな眼には覚えがあった。
「……レイノ?レイノなの?」
「ああ。メルヴィ……やっと会えた」
誰よりも会いたかった、愛する男。メルヴィは彼の胸へ飛び込み、そのまま二人は固く抱き合った。
◇ ◇ ◇
ある朝、それは突然訪れた。
目を覚ましたヴァルラムの胸を、たとえようもない不安が覆っていた。
悪い夢を見たような気がする。きっとそのせいだ。
ヴァルラムはそう考え、頭を振って眠気を追い払った。
だが日が経つにつれ、その不安はどんどん大きくなっていく。ヴァルラムは周囲へ当たり散らすようになった。側近や侍従は怯えながら接するようになり、それが余計に彼をイライラさせる。
「ヴァルラム様、最近ご機嫌ななめですわね。何かございまして?」
「……何でもない」
気晴らしになるかとマトローナの部屋を訪れたヴァルラム。
身体をすり寄せてくる彼女が鬱陶しくて、思わずその手を振り払った。あれほどかぐわしいと感じていたマトローナの香りに、今は全く惹かれない。
不満げな顔をする彼女を置いて自室へ戻ろうとしたヴァルラムだったが、なぜか彼の足は後宮のとある一室へ向いていた。そこは、メルヴィが居た部屋だ。
まさか、この不安はメルヴィがいなくなったことによるものか?
しかし、あの娘は自分の番ではなかった筈だ……!
あのパレードの日、メルヴィと目が合った瞬間に「番だ」と感じた。フォルアの王城で彼女と対面し、それは確信に変わった。
あの小さな身体から匂い立つ香り。それはヴァルラムを狂わせ、今すぐ抱きしめて連れ帰りたい衝動に駆られる。
大国の皇太子としての立場が、かろうじて彼を思いとどまらせた。
三ヶ月後に輿入れしてきたメルヴィ。
改めて彼女に会って、その小ささに驚いた。まだ幼体なのではないか?
長寿の龍族と人間族とでは年齢の捉え方は異なるが、16歳というのは人間にとっても子供のようだ。
龍族において、幼き者に性的な接触を行うことは恥ずべきとされている。彼女が成長するまで、ヴァルラムは房事を控えることにした。
時折、メルヴィに会いたくてたまらなくなり、彼女の部屋を訪れる。
その細い首筋にかぶりつきたい欲を抑えて、短い会話をした。
愛しい番がすぐ傍にいて、しかし手を触れることさえできないのだ。若い彼は滾る獣欲を抑えきれず、後宮にいる妃たちを手当たり次第に抱いた。
そんな日々が過ぎるうちに。
ヴァルラムは、以前ほど番へ会いたいと思わなくなっている自分に気付いた。愛しいという気持ちはあるのだが、あの狂おしいほどの執着は感じない。徐々に、メルヴィの部屋へ訪れる事は減っていった。
そして、成人を迎えたマトローナが輿入れしてきたのだ。
「ヴァルラム様。ずっとお慕いしておりました……」
頬を赤らめ、目を潤わせるマトローナに、愛おしいという気持ちが湧き上がる。そして彼女と肌を合わせたヴァルラムは、そのかぐわしい香りに酔いしれた。
この娘と離れたくない。そう思った。
「お前こそが俺の番だ」
「嬉しゅうございます、ヴァルラム様」
「何故俺は、人間の娘などを番と思ってしまったのか。不思議でならない」
「龍族の嗅覚を狂わせる薬が有るとは聞いておりますが……。いえ、メルヴィ様がそれを使ったと言っているわけではございませんわ」
真の番と過ごすはずだった甘やかな時間を、あんな娘に費やしてしまった。ヴァルラムの中に、メルヴィへの激しい憎しみが吹き荒れる。
あの娘を後宮から追放したい。
何度か父親に談判したが、皇帝は許可しなかった。
若いうちは番を誤認する事も少なくない。番を失うリスクを避けるために、一度でも運命の相手と感じたのなら近くに留め置くべき。
皇帝はそう合理的に判断しただけだったが、ヴァルラムは納得していなかった。
そんな状況下でメルヴィの部屋から嗅覚阻害薬の空き瓶を見つけたとの報告を受け、彼女の放逐を決意。
実のところ、その薬を使ったのはマトローナだった。
皇太子の寵を得るためにと父親が彼女へ渡した阻害薬。それにより嗅覚を狂わされた状態で身体を繋げたことにより、ヴァルラムは彼女を番と誤認してしまったのだ。
そしてマトローナは侍女に命じ、その瓶をメルヴィの部屋へ忍ばせたのである。
そうとは知らないヴァルラムは、メルヴィが使ったものと思いこんだ。
そして皇帝夫妻が外遊で不在となった隙に彼女へ離縁を言い渡し、国外へ追放したのだった。
なぜ極刑ではなく追放に留めたのか。しかも彼女の祖国まで送り届けるという温情まで与えたのか……。
彼は気付いていなかった。
番を失いたくないという本能が、ヴァルラムへそうさせたということに。
外遊から戻った皇帝夫妻が、息子の状況を知って慌てたのは言うまでもない。
「だからあの娘を留めおくようにと言ったではないか」と息子を叱り飛ばし、すぐにフォルアへ使者を送った。
だが、メルヴィの行方は杳として知れなかった。親元はもちろん、フォルア国に入った形跡すら無い。近隣の国へと捜索隊を出したが彼女を見つけることは出来なかった。
番へ二度と会えないかもしれない。その喪失感にヴァルラムは身悶えしながら苦しんだ。
ますます情緒不安定となり、突然暴れ出す事さえある。暴力の被害に遭ったメイドや侍従は辞表を出し、次々と宮殿を去っていった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
その夜、ヴァルラムは酷い悪夢から目を覚ました。目の前でメルヴィが殺される夢だ。
その胸が、煮えたぎる怒りに支配されていた。
許さない。自分から番を奪うものは、誰一人として生かしておけない。
ヴァルラムの姿が変化していく。
細くしなやかな手は長い鉤爪を持つ太い指へ。滑らかな肌は鱗に覆われたごつごつとした肌へ。口からは鋭い牙。龍族は感情が高ぶると人間に近い形態から、より龍に近い姿へ変化するのだ。
「ヴァルラム様、どうなさったの?」
隣で寝ていたマトローナが、寝ぼけ眼で身体を起こした。彼女はヴァルラムの姿を見て「ヒッ」と悲鳴を上げる。その胸に、鉤爪がずぶりと食い込んだ。
悲鳴を上げる間もなく倒れ込むマトローナ。そこから噴き出す血の奔流に、部屋中が赤く染まる。
だがヴァルラムは彼女を一瞥だにしない。血を浴びた姿のまま、後宮をうろつき始めた。
「メルヴィ……メルヴィ……どこだ……」
悲鳴を上げて逃げまどう女たちに、大きな鉤爪が次々と襲いかかった。
命からがら後宮から脱出してきた者から報告を受け、駆けつけた騎士が見たものは。
延々と転がる女たちの死体と、虚ろな目でぶつぶつと呟きながらうろつく血塗れの皇太子の姿だった。
◇ ◇ ◇
その後、ヴァルラム皇太子は病気により亡くなったと公式発表があった。民草の間では気狂いの息子を皇帝が処理したのだという噂が、まことしやかに流れている。
皇帝と正妃の子はヴァルラムしか居なかったため、側室の産んだ皇子たちの間で後継ぎ争いが起こった。それは貴族たちを巻き込み、泥沼化しているらしい。
誰が次の皇太子になるにしろ、大国ザブァヒワは弱体化を余儀なくされるだろう。
あの運命の日。
メルヴィがザブァヒワ皇太子の番に選ばれたと知ったレイノは、それを阻止すべく奔走した。行商人だった父の伝手を辿り、番の解除方法を知る者を探し回ったのである。
そしてようやく、番の認識阻害薬を扱っているという闇商人を見つけた。だが薬は余りにも高価。レイノが全財産を差し出しても足りない。
有り金を出して頼み込むレイノに、闇商人は「薬は売れないが、その金に見合う情報を売ってやろう」と提案した。
闇商人から聞き出した情報。
それは、フリーサスの花の香りが、龍族の嗅覚に著しく作用するというものだった。
龍族や獣人は匂いで番を関知する。
フリーサスの石鹸や香油を毎日使用して身体に擦り込めば、その身体から発する匂いを誤魔化せるのではないか、と。
レイノは、藁にも縋る思いでそれを出立直前のメルヴィへ伝えた。
そして自らは行商人となり、フォルア国とザブァヒワ皇国を行き来した。
商人はどんな職種より情報に鋭敏だ。彼らと接しながら、レイノは皇家の情報を集め続けた。
残念ながら、市中にメルヴィの噂が流れてくることは、ほとんど無い。その代わり、皇太子にはたくさんの妃がおり、その中でも正妃候補の侯爵令嬢を溺愛しているらしいという噂は聞こえてきた。
俺から無理矢理彼女を奪っておいて……という怒りと共に、一つの希望が胸に宿る。
メルヴィは、伝えたとおりにフリーサスを使ったのではないか?だから皇太子から冷遇されているのではないだろうか。
彼女が真の番なのであれば、いずれヴァルラムに心を移してしまうかも知れないという不安は常にあった。それで彼女が幸せにしているのなら、それで良いのかもしれないと思うことすらあった。
しかし、メルヴィがフリーサスを使ったのであれば。
彼女はヴァルラムへ心を許していないのだ。
そう確信したレイノは、機会を窺い情報収集を続けた。そしてついに、離縁されたメルヴィが国外へ追放されるという事実を知ったのだ。
そして国境付近へ先回りして、彼女を回収したのである。
「ルーナ、疲れてないかい?」
「ええ。大丈夫よ、ノイ」
荷馬車に乗った一組の男女。ノイと呼ばれた青年は、隣に座る女性の肩を優しく抱いた。
メルヴィが真の番であったと気付いたヴァルラムが、彼女を連れ戻そうとするかもしれない。そのためレイノはフォルア国へ戻らず、そのまま恋人を連れて旅に出た。
名前をルーナとノイに変え、行商をしながら西方にある多種族が暮らす国を目指している。そこならば、自分たちが潜り込んだとて目立たないと考えたのだ。
尤も、ヴァルラムが死んだ今となっては、彼らを追う者はいないだろうが。
メルヴィとて、一度はヴァルラムと向き合おうとしたこともある。
だが彼は、メルヴィと心を通わせる努力をしなかった。たとえ身体を繋げられなくとも、交流を深め、互いを知ることは出来ただろうに。だから彼女は、フリーサスを使うことを決めたのだ。
ヴァルラムがメルヴィを抱こうとしなかったのは幸いだった。
番同士が一度身体を繋げてしまえば、その魂まで深く結ばれるのだという。そうなるとフリーサスどころか、認識阻害薬すら効かなくなるらしい。
メルヴィは小柄な体格だ。ただでさえ人間より体躯の大きい龍族は、彼女をまだ幼いと思い込んだのである。最初にメルヴィが未成年だと答えてしまったことも、ヴァルラムの誤解を促した。
それでもフリーサスを使うだけでは、ヴァルラムがメルヴィを番ではないと認識するまでもっと時間が掛かったかもしれない。
だがマトローナが認識阻害薬を使ったことで、番の誤認が早まった。
「番なんてもの、どうして存在するのかしら」
「ん?何か言ったかい、ルーナ」
「ううん。なんでもないわ!」
メルヴィの胸にも、どこか空虚感がある。おそらくは番を失った喪失感だろう。
だけどレイノと共に過ごす時間。そこから得られる安らぎに比べたら、大したものではない。メルヴィにとって、番なんてその程度のものなのだ。