第81話
口が、足が、縫い留められたようにピクリとも動かない。
視線だけが交差する。夢なら動いただけで覚めてしまいそうに思えて、一歩を踏み出すこともためらわれる。
少女が口を開いて声を発した。
聞き覚えのある声。鼓膜に浸透するような甘い響きが、視界内に映る少女の存在を鮮明にする。
幽霊じゃない。
確信した瞬間足が前に出た。一歩、また一歩と靴裏を浮かせて距離を詰める。
少女の髪も揺れた。地面を踏み鳴らす音が実体のある事実を訴えてかける。
三メートル。
二メートル。
一メートル。
腕を伸ばした。
触れた感触に続いて体を回転させる。円運動で疾走の勢いを外へ逃がしてから華奢な体を地面に下ろす。
衝動のままに力いっぱい抱き寄せる。
力を抑えきれない。少し痛いかもしれないと思いつつも腕に力を込める。
やわらかい感触。甘い芳香。
プランテーションでの思い出が脳裏をよぎる。なつかしさに目元が熱くなる。
話したいことがたくさんあった。顔を合わせたら話そうと思っていたにもかかわらず言葉が浮かばない。頭の中は真っ白だ。
まあいいか、どうでもいい。
腕の中にある温かさを感じられる。今はそれだけで満足だ。
「君がプリンセス?」
無粋な問いかけがあった。顔をしかめておもむろに振り向く。
高い背丈、年にそぐわない白髪。妙に存在感のある同僚が空気を読まずに歩み寄る。
小さな銃声を聞き分けてミカナの居場所を突き止めてくれた恩人だ。梓沢がいなければ今頃ミカナの体は冷たくなっていたかもしれない。
空気を読めと言いたいものの、恩人相手に辛辣な言葉を投げるのはためらわれた。
「プリン、セス?」
戸惑いの声を耳にして、俺は梓沢の姿を目尻に追いやった、
「気にするな。幻聴だ」
「ひどいなぁ。俺はここにいるよ? ここに存在しているよ」
「いいや存在しない。俺には何も聞こえない」
「プリンス」
「黙れ」
これ以上茶化されると雰囲気が台無しだ。
抱擁を解いて視線で抗議し、再度ミカナに向き直る。
「色々聞きたいことはあるけど一つだけ。無事でよかった」
恋人の顔に微笑みが咲く。
「ジンくんも元気そうでよかった。ツムギちゃんはどうしてる?」
息が詰まった。意図せず愛しい顔立ちを目尻に流す。
「元気、だよ」
たぶんそうだ。あの人はツムギのために俺を追い払った。悪いようにはしないはずだ。
それでもツムギを引き取れなかったことに変わりはない。元々血はつながっていないけど、ツムギは俺たちの大事な娘だ。元気だから良いだなんて、そういう問題じゃないことは重々承知している。
事態はどうあれミカナとの合流は為った。いずれその事情を目の当たりにする機会もあるだろう。
「お楽しみのところ悪いけど、そろそろ切り上げてもらっていいかい?」
槇原さんが気まずそうな面持ちで歩み寄る。
ミカナが向き直って口を開いた。
「お時間を取らせてすみませんでした。玖城ミカナと申します」
「槙原です。君のことは解代さんから聞いてるよ。色々話したいことがあるだろうけど今は時間が惜しい。合流地点に向かう途中だったと考えていいのかな?」
「それについては私から説明させていただきます」
軍帽をかぶった男性が前に出た。負傷したのか、深緑の服には血が滲んでいる。
「あなたは?」
「富山駐屯地に所属しております、小野木二等兵であります。負傷兵を回収して合流地点に向かう途中で敵性無人兵器の襲撃を受けたため、これの迎撃に当たっておりました」
「それはちょうどいい。解代さん、君も一緒に避難してくれ」
「いいんですか?」
俺は同行という形で槙原さんと行動している。一軍人として銃を握っているんだ。個人的な目的は達せられたけど、それを理由に脱退していいものか。
顔が物を言っていたのか苦笑いが返ってきた。
「いいも何も、君はまだ任官していないじゃないか。本来この場にいるべきじゃない」
士官学校に通う生徒に階級はない。卒業して任官するまで立場は軍曹よりも下だ。
逆を言えば梓沢は俺よりも偉いことになる。はっきり言って屈辱だ。
「分かりました。小野木二等兵、お願いします」
「任せろ。君たちのことはちゃんと送り届ける……と言いたいところだが、俺たちは満足に戦えない。君にも周囲の警戒を頼みたい」
「了解しました。無人兵器の相手は任せてください」
「ありがとう」
小野木二等兵が号令をかけて靴裏を浮かせる。
俺は恋人に視線を向ける。
「行こう、ミカナ」
「うん!」
肩を並べて靴裏を浮かせる。
訓練前と比べて足は重い。ただでさえ短くない距離を歩いた上に無人兵器とも交戦した。体にはかなりの疲労がたまっている。
それでも足は前に出る。今ならどこまでも行けそうだ。