第17話 不和
作戦を終えて帰宅した玄関は真っ暗だった。
リビングも暗闇にふさわしく静まり返っていた。靴音を抑えて自室に踏み入り、着替えを持ってシャワーを浴びた。その日はお腹を満たして床についた。
日光のまばゆさで目が覚めた。
起床時刻には余裕があるけど二度寝する気分じゃない。垂れ下がった布をつまんで腕を振るい、蛇の威嚇じみた音を聞きながら朝の光を浴びる。
制服に袖を通してドアノブに指をかける。
前日自室に戻ったのは深夜だ。昨日二人とは早朝しか顔を合わせていない。
約一日ぶりの対面。ちょっとした気恥ずかしさをこらえて、室内とリビングの空気をつなげる。
ダイニングルームにたおやかな人影があった。自然と口元が緩む。
「おはよう玖城さん」
いつものあいさつ。
これでやわらかな笑顔を見れるはずだ。玖城さんの晴れやかな笑みは、太陽の光よりも一日が始まった実感と活力を与えてくれる。顔も見たくない同僚との共同生活も頑張れる。
「……おはよう」
この日は違った。昨日までのひまりのような笑顔は見る影もない。意気消沈として別人のようだ。
思わず眉をひそめた。
「どうした? 元気がないように見えるけど何かあったのか?」
「ちょっと眠れなくて」
「心配ごとか? 俺でよければ聞くけど」
「大丈夫、全然大したことじゃないの。心配しないで」
「そう、か」
そうは見えない。発しかけたその言葉を飲み込む。
きっと話しにくいことなのだ。微かな寂しさをこらえて洗面所に足を運び、顔に冷たい水を叩き付ける。
洗顔を済ませてリビングに向かうと、玖城さんがスティック状の補給食を口に運んでいた。
「めずらしいな、玖城さんがマルスミートを食べるなんて」
「食べたくなっちゃって。たまに食べると美味しいね、これ」
「ああ……そうだな」
やはりおかしい。
俺は『戦神マルスの指』を主食としてきた。その利便性に惹かれて好んで食した。
でも玖城さんは違う。俺と違って機械的な食事を好まない。時間がある時はきまってキッチンの前に立っていた。
朝礼までには時間がある。玖城さんが補給食ですませる光景は違和感にまみれている。
「玖城さん、やっぱり――」
何かあったんだろう?
問いかける前に玖城さんが席を立った。
「今日は約束があるの。先に出るね」
「約束? こんな朝早くからか?」
「うん。ツムギちゃんのこと、お願いしてもいい?」
「あ、ああ」
「ごめんなさい」
華奢な背中がリビングから消えた。玄関の方でドアの閉まる音が鳴る。
「ごめんなさい、か」
ツムギを頼まれた身だ。追うよりも先にやるべきことがある。
簡単に料理をして朝食を用意した。むにゃむにゃしたツムギを起こして同じダイニングテーブルをはさむ。
小さな口が眠たそうにふわぁぁっと開いた。何をしてもかわいく見えるのは父親びいきというやつだろうか。
「ママは?」
「お友だちと約束だってさ。ツムギ、昨日ママにおかしなところはなかったか?」
「うーん、朝はいつも通りだったよ」
「夕方はどうだった?」
「元気なかった気がする」
「そうか」
おそらく朝から夕方までの間に何かがあった。
その何かが分からない。もやもやした気持ちのまま朝食を腹に収めた。食べ終わった食器を自動洗浄器にセットして寝ぼけまなこの娘に向き直る。
「少し外を歩いてくる。ツムギ、しばらく一人で大丈夫か?」
「うん」
「俺かママが戻るまで、誰が来てもドアを開けちゃ駄目だぞ? 俺たちの知り合いって言われても無視するんだ」
「わかった。いってらっしゃい」
「行ってきます。ちなみに誰か来たら?」
「むしするー」
「よし」
廊下の床に靴裏を付けた。玄関のカギを閉めて施錠を確認し、駆け足で無機質な地面を踏み鳴らす。
玖城さんは約束と言っていた。相手は友人だと推察される。部屋に入られたら俺では見つけようがない。
疾走しながらその可能性は除外する。
俺たちのルームが特別なだけで、複数人で集まるには寮の部屋はせまい。
より広い共有スペース。例えば食堂や図書室で談笑する方が楽だ。同僚の大半はバカだけどさすがにそれくらいの知能はある。
玖城さんには一度露骨にはぐらかされた。もう一度問いかけたところで、おそらく返ってくる言葉は変わらない。
それを承知で施設内を駆け回る。胸騒ぎがするし、何より自分に原因があるなら謝りたい。
その一心で足を速めた末に、がらんとした食堂にたどり着いた。
あのうるわしい姿はない。二つのグループが談笑するだけだ。
「いないか」
目的地を図書室に定めて身をひるがえす。
玖城さんやツムギと過ごす前は、時間があると図書室で書籍を読みふけっていた。
中には閲覧制限のある書籍もあった。特権を使って解除しようと思ったこともあるけど一回は一回だ。バカバカしくて実行したことはない。
それを踏まえても一人で過ごすには都合のいい場所だ。
落ち着きのない同僚は読書を好まない。玖城さんが一人になりたくて外出したなら図書室で時間を潰す可能性は大いにある。
図書室に踏み入って足を進めた。奥まで足を進めて部屋中を練り歩く。
探し人の姿はなかった。次は屋上、渡り廊下。思いついた所へ片っ端から足を運ぶ。
玖城さんを捜索する内に同僚が点在する。朝礼の時間が近付いているのだろう。食堂へ向かう者、早朝の散歩を楽しむ者。男女問わず人影がちらつく。
視線に刺されたが構ってはいられない。焦燥に身を委ねて廊下を突っ切る。
二人の男子が前方から迫る。
「お、解代ぉーっ、今日はお嫁さんと一緒じゃないのかぁーっ?」
「……は?」
お嫁さん。
そのワードを聞いて玖城さんの笑顔を想起した。お風呂でのぼせたように耳たぶが火照る。
視界内に映る男子だけじゃない。周りからも視線を感じる。
見渡すと別のグループもニヤニヤしている。微笑ましいとは違う、明らかに俺を侮蔑する眼だ。過去に散々向けられてきたからよく分かる。
脳裏にひらめくものがあった。
「そうか、そういうことか」
合点して、顔からすーっと火照りが引く。羞恥はあるが、別の感情に塗り潰されてそれどころじゃない。
早朝の光景が目に浮かぶ。
玖城さんが見せたよそよそしい態度。後ろめたく思いつつも距離を置かずにはいられない。俺の目には、早朝のルームメイトの言動はそんなふうに映った。
これだ。
こいつらが、原因だ。