第15話 ジンの過去
フルーティーな香りが漂う。
お盆を持った玖城さんがリビングの床を踏み鳴らす。ソーサーの底がセンターテーブルの天板を鳴らす。
華奢な体がソファーに腰かけた。俺は深く空気を吸い込む。
意を決して忌むべき記憶を言葉にした。
「兄が鬼籍に入ってしばらくしてのことだ。流れ弾の原因になった同僚が陰口を言われるようになった。あいつのせいで死んだとか、あいつが死ねばよかったのにとか、そんな心無いことを言われていたよ」
元々気が強い人物ではなかった。ユウヤの死を誘発したことで自責の念に気を沈ませていた。
そこに悪意をぶつけられてさらに元気をなくす悪循環。背中を丸めてふらふら歩く様子を今でも鮮明に思い出せる。
「いじめはどんどんエスカレートした。陰口じゃすまなくなって、なぐったり蹴ったりの暴力が始まった。やりすぎだと忠告しても全然聞き入れてもらえなかったから体を張って制止したら、被害者の方に気はすんだか? って問われたよ。笑っちゃうよな、俺がいじめてくれって頼んだわけでもないのにさ」
「ねえ解代くん。消えたって、まさか」
語尾を濁らせた辺り、すでに察しが付いているのだろう。
俺は隠すことなく首を縦に振った。
「想像通りさ。いじめに耐え兼ねて自ら命を絶った」
玖城さんが息を呑む。
この話はまだ終わらない。動揺するルームメイトをよそに言葉を紡ぐ。
「自殺は問題になったよ。色々あって俺はいじめの責任を押し付けられた」
「どうして解代くんが責任を押し付けられたの? いじめに加担してなかったんでしょ?」
「ああ。もちろん弁解はしたけど数に押し切られたんだ。ユウヤの弟だし動機があったからな。俺一人の言葉なんて聞き入れてもらえなかった。まあ理解はできたよ。誰かのせいにしないと自分たちが悪者になるからな。みんなはユウヤの仇って息巻いてたけど、本当は正義を執行する自分がかわいくて仕方なかったんだ。心底軽蔑したよ、死ぬまで独りで生きていこうと決めたくらいにはな」
いじめに介入した俺に対して、危ないから関わるなと制止する者はいた。匿名ながらも俺の無実を手紙で主張した者もいた。
俺に全責任を押し付けたいグループにとって、そういった人物は疎ましい敵だ。袋叩きにされる未来を危惧して俺の味方を名乗り出る者はいなかった。
どちらにせよいじめた側が大多数だ。俺は人間不信におちいって、それまでの友好関係を全て断った。
玖城さんが目を伏せた。ひざの上でぎゅっと指を丸める。
「知らなかった……みんなは、そんなこと一言も」
「仕方ないさ、玖城さんは昨年からここに転属してきたんだから。周りも墓穴を掘りたくないだろうし、話を伏せるのは当然だよ」
俺はおどけて肩を上げた。全く笑えない話だけど笑い話にしないとやり切れない。
独房で一人泣き叫んだことも、みっともなく亡き兄にすがったことも全部過去のできごとだ。俺の精神は独りで生きる形に最適化された。もう絶望して涙することはない。
陰鬱な空気を笑い飛ばすべく顔に笑みを貼り付けた。
「さあ、俺がぼっちになった理由は以上だ。つまらない話だっただろう?」
「そうだね。面白くはなかったかな」
自嘲の笑みがこわばる。
「そんなことないよ」を予想しただけに意表を突かれた。
憎悪と憤怒、失望と絶望。
よみがえるのは負の感情ばかりの忌むべき記憶。口にしてわずかながらも精神を汚染された。
冗談めかして笑ったのは、それらがもれ出さないようにするための処置だ。玖城さんに不快な思いをさせまいとしてわざわざ気をつかったんだ。
それを面白くなかったで片付けられても反応に困る。
「ずいぶん直球だな。この話をするために結構精神を削ったんだぞ?」
「だろうね。気持ちは分かるよ」
「ほう、君に何が分かる?」
図らずも声が荒くなった。
玖城さんに同情してほしくて過去を話したわけじゃない。少年兵の大半は何らかの事情で親を失っている。肉親が生きた死んだの不幸はめずらしくもない。
それでも、俺のような体験をした者は他にいない。
目の前の同僚には友人がいる。仲間がいる。境遇に恵まれた人気者なんかに、分かったような口を叩かれるいわれはない。
見すえる俺の前で桜色のくちびるが開いた。
「今から七年くらい前かな、私の両親が無人兵器に殺されたの。私は孤児院に入れられたんだけど、人が撃たれる瞬間を見た子供はいなかったみたいでね。人がどんなふうに事切れるのか興味を示す子が多かったんだ」
脳裏に孤児院での光景が浮かぶ。
おもちゃを見つけたかのごとく、嬉々として幼き玖城さんに迫る子供たとの図。
両親が撃たれた時の状況を教えろと求めて止まない魑魅魍魎。俺は嫌な気分になって口元を引き結ぶ。
「両親の死にざまを話したのか?」
「話したよ。話したくないって言ったら仲間外れにされたから。心を押し殺して話す時ってさ、理由もなく笑いたくなるんだよね。心理学的には相手に嫌われたくない、傷付きたくないって恐れに起因するみたいだけど、私もそうだったよ。話す時は口角が上がって、きまってこの辺りが苦しくなるの」
玖城さんが胸元に手を当てる。
俺にも覚えがある。ついさっき自嘲の笑みで感情を誤魔化したばかりだ。
「解代くんもそうなんでしょう? つらくて苦しかった体験だから、忘れたい記憶だから素面じゃ話せなかったんだよね」
「そんなこと、は」
否定すべき場面だ。そうしないと自嘲した意味がなくなる。
反論しようと試みるものの口はうまく動かない。うっかり喉を震わせたら違うものが飛び出しそうで、言葉を発するのはためらわれた。
「ずっと独りで、つらかったね」
整った顔立ちがいたわるように微笑む。
ねぎらうだけの言葉。そんなものを掛けられても辛い記憶は消えない。
言ってやればいい。同情なんてやめろ、無意味だと。
そう思うのに喉がつっかえる。胸の奥から震えが込み上げて目頭が熱を帯びる。
「っ、お風呂入ってくる」
声が微かに裏返った。逃げるように話を打ち切って自室に駆け込む。
ドアで室内とリビングを隔てた。手で目元を覆い隠して、せり上がる嗚咽を必死に抑え込む。
月光が差し込む薄暗い部屋。床を照らす色は氷のように冷たい。
それなのに、ほのかな光はいつになく温かいものに感じられた。