結婚前夜(三)
彼は一瞬、迷ったように手を止めたものの、覚悟を決めたように、その大きな手を、固く握られたルシアナのそれに重ねた。
(手袋越しでもわかるわ。温かく、大きく、立派な……騎士の手)
さらに握り込む手に力が入ったところで、レオンハルトが優しくルシアナの手を包んだ。
「ルシアナ様は、ここに来られたことを後悔していらっしゃいますか?」
「……」
小さく首を横に振る。
(していないわ。なにも後悔するようなことはないもの。……わたくしは)
「私も……いえ、俺も同じです。この縁組を陛下より賜ったときより今まで、後悔したことはございません。ルシアナ様にお会いしたあとも、それは変わりません」
痛いほど真っ直ぐ見つめてくるシアンの瞳に、自分が映る。
(……この方は、わたくしを見てくださっている)
ふっと体中の力が抜ける。握り込んでいた拳を緩めると、手のひらを返しレオンハルトの手を握った。レオンハルトはびくりと体を震わせたものの、それを振り払うことはなかった。
ルシアナは丸まっていた背筋を伸ばし、レオンハルトの瞳を見つめ返す。
「……レオンハルト様」
「はい」
「……わたくしは明日、レオンハルト様の妻となります」
「はい」
「……本当に、わたくしでよろしいのですか……?」
静かな室内に、かすかに震えたルシアナの声だけが沁みていく。ルシアナの声が消えると、まるで世界から音が消えてしまったかのような静寂が広がった。少ししてそれを破ったのは、ふっという小さな笑い声だ。
(あ……)
レオンハルトはわずかに口の端を上げると、手を握り返した。
「はい」
穏やかなレオンハルトの表情に、じわりと頬が熱くなるのを感じた。
(恥ずかしい……? そう思う理由はどこにもないのに……何故かしら)
小さく脈打つ心臓の音を聞きながら、ルシアナは手を動かす。それを阻害しないようにレオンハルトの手は離れたが、その一方で、もう片方の動かしていない手を握る力がわずかに強まった。
(恥ずかしい……のではなく、嬉しいのかしら)
伸ばした手で、そっとレオンハルトの頬に触れる。
少し冷たい、さらりとした皮膚の感触。
(……レオンハルト様に直接触れるのは初めてだわ)
普段はレオンハルトが手袋をしており、パーティーの際はルシアナが手袋をしていたため、エスコートのときでも素肌が触れ合うようなことはなかった。
(いえ……お義父様とお義母様と初めてお会いしたとき……あのとき頬に触れたレオンハルト様の手も、素手だったかしら)
あのときレオンハルトは何を言おうとしたのだろう。
何故、彼はあのとき手を伸ばしたのだろう。
何故、自分は今彼に触れたのだろう。
「……レオンハルト様」
「はい」
触れた頬がわずかに動く。
(退かさないのね)
いつでも自分を尊重し、多くのことを許してくれるレオンハルトの優しさが、胸をくすぐった。
(この優しさが……義務でなければ嬉しいわ)
ルシアナは微笑を浮かべると、少しだけレオンハルトに顔を近付けた。
「何故、レオンハルト様はわたくしを避けていらっしゃったのですか?」
「……!」
彼の目が大きく見開かれる。握る手にもさらに力が込められた。
言葉を失ったように口をわずかに開くレオンハルトに、ルシアナは「ああ」と小さく漏らす。
「いえ、避けているというのは語弊がありますわ。ええと、物理的に距離を取っていた、と言うのかしら。確か、式の準備で一番初めにヘレナ様の元を訪れた日から……いえ、もっと言えば、ヘレナ様と王太子殿下とのお茶会から。……理由をお伺いしてもよろしいですか?」
小首を傾げて尋ねれば、彼はきつく口を閉じ、視線を逸らした。
聞くべきではなかったか、と思い、頬に添えていた手を退かそうとするが、レオンハルトはそれを阻止するように手を掴むと、視線をルシアナに戻す。
(あ……)
どくり、と大きく心臓が脈打った。いつもの落ち着いた、冷静な視線の中に、いつもとは違う感情が見えたような気がした。
レオンハルトは少々口籠ったあと、ゆっくりと口を開く。
「その……茶会のあとと、王太子妃宮から帰ったあとでは、理由が異なるのですが……」
もう一度視線を逸らし、大きく息を吸ったレオンハルトは、そのまま続けた。
「……茶会から帰ったあとは……無闇に触れないよう、なるべく距離を取っていました」
「……触れない、ですか?」
問いながら、ルシアナはさらに首を傾けた。
「そう意識されなくても、日常の中で触れる機会はあまり多くないと思いますが……」
(エスコートのとき以外、触れる場面なんて普段の生活にはないわ)
言葉の意味がわからず不思議そうにするルシアナに、レオンハルトはゆっくり瞬きをしながら視線を戻した。
「機会はなくとも、自らの意思で触れることは可能です。今のように」
「それは……そうですわね」
(確かにそうだわ。必要がなくても、お母様たちはわたくしを抱き締め、手を握ってくれたもの)
しかし、と今度は反対側に首を傾ける。それに合わせ、柔らかな髪が首筋を優しく撫でた。
「触れて、何の問題があるのですか? わたくしは、触れるのが禁止されているような重要な品や、禁忌の品ではありませんわ」
ふわりと髪を揺らすルシアナに、レオンハルトはぐっときつく口を閉じると、掴んだ手はそのままに、今度は顔ごと横に逸らす。
(あら……?)
髪から覗く耳が赤いことに気付いたルシアナは、掴まれた手をすり抜けさせ、何気なくその耳に触れる。
「っ!」
「あ……」
大きく肩を跳ねさせたレオンハルトに、はっと我に返ると慌てて手を放した。
「申し訳ございません、つい……」
手を引っ込め胸元まで持ってくると、レオンハルトは空いた手で眉間に皺が寄った目元を覆った。
「……あの――」
「ルシアナ様」
話す言葉を遮るように名を呼ばれ、反射的に口を閉じる。
レオンハルトは大きく息を吐き出すと、眉間の皺と逸らした顔はそのままに話を続けた。
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次回更新は5月14日(日)を予定しています。




