かわいいひと(四)
「あのとき第一王女殿下は、貴女の幼少期、そして塔について聞いたことはあるか、と俺に尋ねられた。俺があると答えたら第一王女殿下は……どこか嬉しそうにしていたと思う」
「嬉しそうに……?」
「ああ。おそらくだが……貴女にとって、トゥルエノの王家にとって大切なことを伝えられるくらいには、貴女の信を受けているのだと……そのくらいの関係性は築けているのだと安心されたのだろう」
(お姉様……)
強く握る手から、ふっと力が抜ける。
姉の深い愛情に胸がいっぱいになった。「ルシー」と呼んでくれる柔らかな声を思い出し、これまでほとんど抱くことのなかった郷愁が胸をよぎる。
それを感じ取ったのか、今度はレオンハルトが繋ぐ手に力を込め、「ルシアナ」と力強く名前を呼んだ。
はっと彼へと意識を戻せば、彼のシアンの瞳はどこか昏く澱んでいた。
「レオンハルト様……?」
おずおずと窺うように名前を呼べば、彼の瞳は澄んだ光を取り戻す。レオンハルトはルシアナの手の甲に少し長めの口付けを贈ると、放さないとばかりに強く腰を抱く。
「あの日、第一王女殿下に誓ったんだ。貴女が感情を晒してもいいと思えるような人間になると。貴女が素直に感情を晒せるよう、俺ができることは何でもすると。貴女が安心して寄りかかれるような居所になると。レオンハルト・パウル・ヴァステンブルクの名の誓った」
確かな決意が宿る眼差しに射貫かれ、思わず喉が鳴った。
今のように想いを通わせていたわけでも、特別親しかったわけでもない。他人と呼ぶには近く、家族と呼ぶにはまだ遠いような、そんな微妙な距離感だった。にもかかわらず、レオンハルトはそんな誓いを姉にしてくれていた。
彼のことだから、当時も心からその言葉を述べてくれたのだろう。
そう思うと、彼への愛おしさが心の奥底から湧き出てくる。
「……どうして、そのことを今までお話しくださらなかったのですか?」
「貴女の……心の弱い部分に触れるような話でもあるし、俺の勝手な決意と誓いだから。だから、貴女に話す必要はないと……そもそも話すという選択肢がなかった」
まるで叱られる前の子どものように、レオンハルトは申し訳なさそうに眉尻を下げる。途端に、ルシアナも申し訳ない気持ちになった。
(レオンハルト様がそのようなお顔をされる必要はないのに……)
レオンハルトは、いつも自分に気を遣ってくれている。それこそ、過ぎるほどに。
そんなレオンハルトに対し、自分はいったい何をしてしまったのか。
(レオンハルト様がわたくしの気持ちを疑うわけがないのに……そんなつもりでおっしゃったわけではないとわかっているはずなのに……)
ルシアナは一度固く口を閉じて俯くと、意を決したように体を起こす。繋いだ手はそのままに、もう一方の手で優しくレオンハルトの頭を撫でた。
「先ほどは声を荒げてしまって申し訳ありません。あのように感情的にならず、わたくしの心にはレオンハルト様しかいないとはっきりお伝えすればよかったのに……」
「謝らないでくれ。言っただろう? 俺は貴女が感情をぶつけてくれるのが嬉しいんだ。そうやって感情を表せるような存在になれたことが、本当に嬉しい。だからこれからも、決して遠慮することなく俺に様々な感情をぶつけてほしい」
本当に心底嬉しそうに、少しも嫌がる様子なくそう告げるレオンハルトに、胸がきゅうっと締め付けられる。
まるで、底なし沼に沈んでいっているような気分だった。
彼と心を通わせるたび、彼の愛の深さを思い知らされる。彼の深い愛に包み込まれ、そのまま甘えてはだめだと思うのに、彼はむしろそれを望むかのようにルシアナを捕らえて離さない。少しでも迷いを見せれば、彼はその隙を見逃さず、さらに深いところへと自分を誘い込んでくる。
(本当に、溺れてしまいそう)
ルシアナは、自分を落ち着かせるように深く息を吸い込むと、身を屈めてレオンハルトの唇に口付けた。
「レオンハルト様がそう望んでくださるのなら、そのようにいたしますわ。けれど……それでも先ほどのことは謝らせてください」
若干不服そうに眉を寄せたレオンハルトに、ルシアナは小さく笑みを漏らすと、眉間にそっと口付けた。
「あのとき、レオンハルト様はただわたくしの言葉がほしかったのではないか、と今更ながらに思いまして。これまでもそうしてきたように、離れていてもわたくしの心の一番深いところにいるのはレオンハルト様だけだと誓う、と。そうお伝えすべきだったと思ったのです」
「なら、なおさら謝る必要はないだろう? 貴女はより熱烈な言葉と感情を俺に返してくれた。貴女から発せられる愛の言葉はどんなものでも嬉しいが、怒りを孕んだ愛の言葉はいつもと違う味わい深さがあって……貴女を傷付けてしまったことには後悔しかないが、それ以外については、本当に、嘘偽りなく、嬉しかったんだ」
レオンハルトはルシアナの髪を一房手に取ると、そっと唇を寄せた。彼の瞳は心情を表すように、キラキラと煌めている。
(レオンハルト様は、本当にわたくしに甘すぎるわ)
言うことなすことすべて肯定し、好意的に受け取るレオンハルトに、ルシアナは若干唇を尖らせる。
けれど、心底嬉しそうな彼の姿を見ると、もう「甘やかすな」と口にすることすらできなかった。
(本当にずるいわ。こういうときばかり可愛らしいお顔を浮かべて……)
文字通り全身全霊で自分を愛してくれるこの人を、愛おしく思わずにはいられない。
ルシアナは、ふ、と体の力を抜くと、余計なことを考えるのはやめ、ただ望むままにレオンハルトに口付けた。
触れるだけのキスを繰り返したあと、舌先で軽く彼の唇を舐める。レオンハルトは迎え入れるように薄く唇を開け、ルシアナは積極的に彼の舌を絡めとる。
普段、彼にされているように。
普段、彼から伝わってくるように。
レオンハルトのことを愛しているのだと、レオンハルトが愛しくて仕方ないのだと伝えるように。
仰向けになっているレオンハルトに重なるように体を預けながら、一生懸命深い口付けを繰り返していると、不意にレオンハルトに肩を押された。
二人を繋ぐ透明な糸が、名残惜しそうに伸び、ぷつんと切れる。
「レオンハルトさま……」
荒い呼吸の合間に、甘えるように名前を呼べば、彼はきつく眉を寄せた。
「だめだ、ルシアナ。俺の誕生日までは何もしないと決めただろう。だから、貴女もさっき俺を止めたんだろう?」
確かに、先ほどレオンハルトが首筋に口付けたとき、彼を制止するつもりで胸板を押した。
誕生日にきっと無理をさせるから、それまではそういう触れ合いはしない。
数日前に、彼と話し合って決めたことだ。
(先に制止したのは確かにわたくしだけれど……)
ルシアナは肩を押さえるレオンハルトの手にそっと触れると、その手を軽く掴んだ。
「……数日とはいえ、二人揃って城を空けてもいいのでしょうか? もしまた魔物が暴れたりしたら……」
レオンハルトの誕生日を二人きりで過ごすというのは、ずっと楽しみにしていたことだ。できることなら、予定通り別荘で蜜月を過ごしたい。けれど、何も被害がなかったとはいえ、魔物が暴れた直後に二人して城を空けるというのは、だいぶ無責任ではないだろうか。
(みんなは快く送り出してくれるかもしれないけれど……)
漏れそうになる溜息を呑み込みながら下を向けば、「ルシアナ」と優しく名を呼ばれた。
そっと視線を上げれば、レオンハルトはルシアナを安心させるように、目尻を下げた。
「今回捕まえた魔物は群れのリーダー格のはずだからしばらくは問題ないはずだ。それでも心配だというなら、両親に確認を取ってみよう」
「お義父様とお義母様に、ですか?」
レオンハルトに導かれるまま、彼の腕を枕にするように横になりながら、ルシアナは小首を傾げる。
レオンハルトはルシアナを抱き締め直すと、額に軽く口付けた。
「ああ。ギュンターや騎士団の団員がいれば何も問題はないと思うが、両親が留守を預かってくれるとなれば、貴女もより安心できるだろう?」
「それは……その通りですが……」
まさかレオンハルトからそんな言葉が出てくるとは思わず、ルシアナは目を瞬かせる。
いったいどのような心境の変化があったのだろう、と思っていると、レオンハルトはくすぐるようにルシアナの目尻を撫でた。
「貴女のおかげで、両親がどれほど俺を大切に想ってくれているのか知ることができた。そのおかげで、こうして頼ることも一種の親孝行になるんだと気付いたんだ。正直、まだ戸惑う部分も多いが……少しずつ慣れていきたいと思う」
どこか面映ゆそうに微笑むレオンハルトに、心の中に温かいものが広がっていくのを感じた。
両親に対して一歩引いた姿勢を崩さなかったレオンハルトが、このようなことを言うなんて。
しかも、それが自分のおかげだなんて。
(レオンハルト様とご両親の潤滑油になれたら、とは思っていたけれど……これほど幸せなことはないわ。本当に)
胸がいっぱいで言葉を紡げないルシアナの頭を、レオンハルトがそっと撫でる。
「起きたら、一緒に両親のもとへ行こう」
「……はい。レオンハルト様」
おやすみ、という温かな囁きに導かれるように、ルシアナはすぐに深い眠りへと落ちていった。




