北部の日常(五)
ルシアナとレオンハルトが近付くと、何かを話し合っていたユーディットとディートリヒがこちらを振り返った。
「ルシアナさん、氷角雪兎には触ってみたかしら?」
「? いえ……」
「あら、そうなの? 加工前の毛は滅多に触れないから触ってみるといいわ。というわけで、あなた。下ろしてちょうだい」
軽く腕を叩かれたディートリヒは、一拍置いてユーディットを下ろした。
ユーディットは軽く体を伸ばすと、レオンハルトへ目を向ける。
「貴方も下ろしなさい。そのままだとルシアナさんが触れないでしょ」
「私がこのまま屈めばいいので特に下ろす必要はないかと」
「そう? 貴方とルシアナさんが構わないのならいいけれど」
貴女はどうなの、とユーディットの目がルシアナに向けられる。
正直、このままでも不都合はない。レオンハルトに負担をかけることになるので申し訳ないとは思うが、むしろ彼はそれを喜ぶだろう。
(けれど……)
ルシアナは、覚悟を決めるように小さく息を吐くと、眉尻を下げてレオンハルトを見る。
「下ろしていただけませんか? レオンハルト様」
「……このままではだめか?」
「いろいろと見て回りたいので……」
申し訳なさそうに微笑めば、レオンハルトは数秒経ってから、ようやくルシアナを下ろした。
「ありがとうございます、レオンハルト様」
背伸びをし、軽く彼の頬に口付けると、ルシアナはユーディットの隣へと行く。
「聞き分けはうちの人のほうがいいわね?」
「……!」
そっと耳打ちされた言葉に、ルシアナは思わず目を見開く。
(これは……どう反応すればいいのかしら……?)
そういえば以前にも躾どうこうという話をしていたな、ということを思い出しながら、ちらりと後ろを窺う。それはほとんど無意識で行った行動だったが、視界に入った二人の姿を見て、ルシアナは目を瞬かせた。
ディートリヒは普段と変わらない表情を浮かべ、レオンハルトはわずかに眉を寄せていたのだ。
まさしく、「聞き分けがいいほう」と「そうでないほう」そのものだ。
「……っ」
その姿にうっかり笑いそうになってしまったルシアナは、慌てて正面を向く。
(だめ……だめよ。笑うなんてそんな失礼ないことしてはいけないわ)
震える口角を必死に抑え込みながら、必死に意識を逸らそうとしていると、隣から小さな笑い声が聞こえた。おかしそうにわずかに肩を震わせるユーディットに、ルシアナも我慢できず小さく吹き出してしまう。
ルシアナとユーディットは顔を見合わせて笑い合うと、一緒にその場にしゃがんだ。
「ルシアナさんのおかげで、いろいろなあの子の姿を見られるわ」
ありがとう、と告げた声は小さく、とても温かだった。
それはこちらも同じ気持ちだ、という思いを込めて、ルシアナもお礼を口にする。
ユーディットは目を伏せて微笑むと、空気を変えるように「さて」と声を上げ、氷角雪兎の毛の中に手を沈める。
「ルシアナさんも手を入れてみて」
「はい」
ルシアナは一つ深呼吸をすると、そっと氷角雪兎に触れた。ユーディットのように手を沈めるのではなく、まずは表面の毛を撫でる。表面の毛はとても滑らかで手触りがいい。
(お義母様からいただいた下着の羽織りも滑らかな手触りだったけれど、加工をしていないそのままの毛のほうがつるつると手が滑るわ。触っているのは確かに毛なのに、まるで液体を撫でているような……とても不思議な感触だわ)
ユーディットがわざわざ触るように言ったのも納得できる手触りだ。
不思議な感触をたくさん味わうように、何度も表面を撫でたあと、ルシアナはぐっと手を押し込んだ。
(……!)
すでにユーディットが手を沈めていたため、手の甲まで埋まるほど毛が長いことはわかっていたが、それでもルシアナは目を瞬かせた。
(表面と中では毛の質感がまったく違うわ! 外はあれほど滑らかだったのに中はとてもふわふわとしていて、手を入れているだけでじんわりと温かい……!)
魔物が生きていれば、その体温も相まってきっと汗をかくくらい温かかったことだろう。
以前、ユーディットに下着をプレゼントされた際、氷角雪兎の毛は「保温性が高い」と説明をされたが、正直想像以上だ。
(体を覆う毛が二層、三層になっている動物がいることは知っていたけれど、魔物もそうなのかしら? トゥルエノは一年を通して暖かいからか、毛深い動物も魔物もいなかったから、とても新鮮だわ)
ふわふわとした綿毛のような短い毛の感触を味わっていると、隣で同じように魔物に触れていたユーディットが小さく笑みをこぼした。
「ふふ、そんなに喜んでくれたなら、誘った甲斐もあったわ」
「あっ、申し訳ありません、つい夢中に……!」
「いいのよ。その反応を期待して誘ったのだから」
ユーディットは手元に視線を戻すと、手櫛を通すように毛を撫でる。
「加工するときは上毛の長い毛はもちろん、中毛も下毛も短くカットされるから、この独特の感触を味わえるのは加工前だけなのよ。冬前になるとどこも間引きのための狩りを行うのだけど、そのときはすぐに職人の元へと送られるから、地元の人間でもなかなか触れなくて……未加工でもいい手触りだと思わない?」
「はい、とても素敵ですわ。この体毛をそのまま使ったぬいぐるみなどがあれば、いつでもこの感触を味わえるのですが……」
(できれば大きいぬいぐるみがいいわ。さすがに魔物の死体には抱き着く気になれないもの)
このつるつるふわふわな毛の大きなぬいぐるみに抱き着いたらどれほど気持ちがいいだろう、と思いを馳せていると、ユーディットがぽつりと「いいわね」と呟いた。
「私たちにとっては防寒具にするというのが当たり前だったけれど、ぬいぐるみは確かにいいかもしれないわ。実際の氷角雪兎と変わらない大きさのぬいぐるみなんて人気が出そうじゃない?」
「そうだな。毛皮の供給は安定しているから、小型のものを作って価格を抑えれば市井の者でも買える価格にできるだろう。ルドルティ地区の新たな民芸品として売り出せば、収入も雇用も増やすことができる」
(え、えっ……?)
突然始まった義両親の話についていけず戸惑っていると、すぐ傍に立っていたレオンハルトもこくりと頷いた。
「そうですね。ほとんどの領民は冬の間家で手工芸品を制作して過ごしていますし、彼らの収入を増やせるのであればいい施策だと思います」
「トゥルエノ王国との交易が本格的に始まれば、この大陸内だけでなく他の大陸の国とも交流が増えていくだろう。魔石以外の物品の輸出入もどんどん増えていくと考えれば、早いうちに新たな特産品を生み出すのはいい手だ」
「安定した供給を目指すなら毛皮の管理と魔物の乱獲阻止も重要だわ。最初は学びの場も設けなければいけないし、その間他の仕事はどうするのか、人手の問題もあるわ」
「そうだな……だが、話を進めるにしても、まずは物を作ってみてからではないと判断はできない。レオンハルト、この魔物たちはどうするつもりだったんだ?」
「尾長熊の尾はルシアナにあげようと考えていましたが、それ以外については特に何も決めていません」
「ふむ、それなら氷角雪兎を一体使わせてもらおう。――ギュンター」
ディートリヒは素早く背を向けると、近くに控えていた家令の元へと向かう。
「素敵な提案をありがとう、ルシアナさん」
「えっ? いえ、そんな……」
「あとのことは私たちに任せておいて。二人はゆっくり見学でもしてなさい」
ユーディットは、じゃあね、と手を振ると、入り口の近くでメイドとともに控えていた家政婦長のバルバラの元へと歩いて行った。
何もわからないまま呆然と二人を見送っていると、ひょいっとレオンハルトに抱き上げられる。
「先に明かしてしまったが、尾長熊の尾は貴女にプレゼントするつもりだったんだ。尾長熊の尾は絹糸に似ているが、絹糸よりも丈夫で色褪せることがないんだ。よければ受け取ってくれ」
「……まあ。ありがとうございますわ」
詳しい話はあとで落ち着いてから聞こう、と決意しながら、今はレオンハルトからの真心を受け取るように、ルシアナはにこりと明るい笑みを返した。




