北部の日常(四)
特殊個体とはなんだろう、と問いかけようとしたルシアナだが、訓練場の出入り口がざわついていることに気付き、口を噤み出入り口のほうへと目を向ける。
出入り口にできていた人だかりが左右に分かれたかと思うと、侍女を数人連れた義母が姿を現した。
(あ……!)
義母はそのまま真っ直ぐルシアナたちの元へと来ると、弾んだ息を整えるように、ふう、と深く息を吐き出す。
「さすが、ルシアナさん。足が速いわね」
「も、申し訳ございません……! わたくし、お義母様を置き去りに……!」
「いいのよ、気にしないで」
義母はわずかに汗ばんだ頬を手の甲で撫でると、もう一度深呼吸をした。
「私ももう少し体を動かして鍛えようかしら」
「いいんじゃないか」
突然聞こえた義父の声に、ルシアナは思わずレオンハルトを抱き締める腕に力を入れてしまう。
(そ、そういえばお義父様も一緒に討伐に出られていたのよね。ということは……)
訓練場に駆け込んだところから、レオンハルトに抱き着き抱き上げられるまでのすべてを見られていたということでないだろうか。
そう思うと、途端に恥ずかしくなってくる。
(それに……お義父様とお義母様の前でこのままというのは……)
いくら新婚とは言え、義両親の前でレオンハルトに抱き上げられたままというのは、あまりよくないのではないだろうか。
若干の羞恥と不安を抱いたルシアナだったが、ディートリヒは特にルシアナたちを気にした様子もなく、胸元から取り出したハンカチでそっとユーディットの額を拭いた。
「剣の打ち込みなら私が付き合おう」
「あら、いいわね。昔を思い出すわ」
ふ、と口角を上げたユーディットは、軽くディートリヒの胸元を叩く。それに、ディートリヒはわずかに目元を緩めた。
そのやりとりが長年連れ添った二人の絆を感じさせ、ルシアナは思わず見入ってしまう。
(素敵だわ。わたくしもいつかレオンハルト様とお二方のようになれたら……。それに、お義母様が剣を握っていらっしゃったなんて知らなかったわ。是非お話を――って違うわ! 今はそうではなくて……)
ルシアナは心の中で己を叱責すると、レオンハルトの耳元に顔を近付けた。
「レオンハルト様、下ろしていただけませんか?」
「……何故だ?」
両親へと向けていた視線をゆっくりと移動させたレオンハルトが、心底意味がわからないとでもいうように淡く笑む。抱える腕は相変わらずがっちりとルシアナを抱き締めており、微塵も下ろす気がないことが窺える。
曇りのないシアンの瞳に見つめられると、何でも許してしまいたくなる。目の前にいるのが彼の両親でなければ、「やっぱり何でもない」と告げたことだろう。
(わたくしもできればこのままでいたいけれど、今はきっと弁えるべきところだわ)
ルシアナはぐらぐら揺れる心を律しながら、声を潜めて続ける。
「あとでいくらでも抱き上げていただいて構いませんので、今は……」
「理由を教えてはくれないか?」
「え、と……」
彼の眼差しは、理由を伝えたところで納得できなければ下ろす気はない、と言っているようだった。
レオンハルトは元来、礼儀・礼節を弁えた真面目な性格だ。そもそも、以前は両親の前ではこういった触れ合いを極力しないようにしていた人だ。
その彼が、両親を前にしてこの格好をやめる気がないということは、いつの間にか彼のなかで、この姿を両親に晒すのは問題がない行いだと判断されたということになる。
これまで彼らに一線を引いたような態度を取ってきたレオンハルトが、ある種身内に対する甘えのような行動を取れるようになったことは、とてつもない進歩だ。
先日、義父と酒を酌み交わしたのがよかったのかもしれない。
それ自体はとても喜ばしいことなのだが、それはそれ、である。
義両親はレオンハルトを深く愛し、ルシアナにも優しく接してくれるが、公爵家の当主、夫人としては、相応しくない格好を晒していると思っているかもしれない。
(どうお伝えすればいいかしら)
言葉に詰まりつつ、ちらりと義両親を窺えば、二人の目が真っ直ぐこちらへと向けられていた。真顔のままじっと見つめる二人に、やはりこの体勢はよろしくなかったのではないかと思い始めたルシアナだったが、ユーディットはすぐに視線をディートリヒへと戻した。
「私たちの前であの格好でいるのが恥ずかしいのかもしれないわ」
「ふむ。なら私がユーディットを抱き上げれば問題ないな」
義父は自分の衣服を数回はたくと、軽々とユーディットを抱き上げた。
「少し疲れていたからちょうどいいわ。魔物の傍まで寄ってくれる?」
ディートリヒはただ小さく頷くと、ユーディットと抱えたまま魔物の間を移動し始める。
彼らの姿を見つめながら、ルシアナはただ目を瞬かせた。
まさか、彼らも同じ行動に出るとは思わなかった。それに驚くと同時に、この体勢に対して思うところが何もなかった様子に内心安堵する。
「……両親の前でこうされるのが恥ずかしかったのか?」
レオンハルトの声にはっと我に返ったルシアナは、視線をレオンハルトに戻すと、首を横に振る。
「いえ……ええと、少しも恥ずかしくなかったかと問われれば、多少の気恥ずかしさはありますが……下ろしてほしいほどではありませんわ。ただ……」
「ただ?」
「その……この格好は公爵家の人間として相応しくないと思われているのではないかと思いまして……」
「ああ、なるほど」
納得がいったのか、レオンハルトは小さく頷くと、義両親へと目を向ける。彼につられ再び二人へと視線を戻せば、二人は同じ格好のまま何か言葉を交わしているようだった。
「そうだな……俺も、以前だったらそのように思ったかもしれない。というより、そもそも両親の前でこうして貴女に触れることはなかっただろう」
(やっぱり、お義父様とお話しされたことで心境の変化が……?)
ちらりとレオンハルトを窺えば、彼は何か眩しいものでも見るかのような眼差しで彼の両親を見ていた。
「父上も母上も、俺が思っている以上に……いや、俺が思ってもみないくらい、深く大きな愛情を持たれた、愛に生きる方たちだった。お互いへの愛はもちろん、俺への愛情も……とても大きい。だから、俺がルシアナという最愛を得られたことを、本当に心から喜んでくれているようなんだ」
語り口は静かで、とても淡々と話しているように聞こえるが、その声色には若干の戸惑いと喜びが感じられた。
あの日の夜、ディートリヒと何を話したのか聞いたことはなく、彼もこれまで何も言及をしてこなかったが、彼自身、咀嚼する時間が必要だったのかもしれない。
今もまだ少々困惑しているのか、両親を見る彼の横顔は迷子のようにも見えた。
いつも凛としたレオンハルトが、両親の前では子どものような一面を覗かせる。
それは、幼少期に取りこぼしたものを、一つ一つ拾い集めているからなのかもしれない。
(わたくしが余計な心配をしてしまったようね)
彼の両親は、体裁や体面よりも、息子であるレオンハルトの意思を尊重している。
そしてレオンハルトは、両親のそういった愛情に気付き始め、“息子として”彼らに寄り添い始めている。
自分が、その一助になっているかもしれないと思うと、とても誇らしく、嬉しかった。
ルシアナは一瞬強くレオンハルトを抱き締めると、すぐに彼を解放し小首を傾げる。
「お二人の傍に参りましょうか?」
「……そうだな」
目を伏せて微笑んだレオンハルトに、ルシアナも朗らかな笑みを返すと、レオンハルトに気付かれないようそっと彼の頭に口付けを落とした。




