城内探索・一(六)
(ここは……)
薄い膜を越えた先は、簡素な机と椅子、本棚が並ぶ一室だった。
窓はなく、天井から吊るされた照明が淡く室内を照らしている。
「ここには外部に漏らすことができない機密文書が収蔵されている。城内の隠し通路や領地の詳細な地図、騎士団の情報や歴代城主の公開できない記録などな」
「! そのような場所を……わたくしに?」
驚きレオンハルトを見上げれば、彼は不思議そうに小首を傾げた。
「貴女は俺の妻だ。貴女にこそ覚えておいてほしい。俺の身に何かあったとき、ここにあるものが貴女を助けてくれるだろう」
「そのようなことっ……! ……おっしゃらないでくださいませ……」
輿入れしたとはいえ自分は他国出身なのに、という思い以上に、レオンハルトを失いたくないという気持ちが湧き上がり、ルシアナはきつくレオンハルトを抱き締めた。
レオンハルトはそんなルシアナを抱き締め返し、宥めるように背中を撫でる。
「もちろん、貴女を置いて早世するつもりはない。だが万が一ということもある。……貴女も、騎士ならわかるだろう?」
ルシアナはレオンハルトのジャケットを握り締めながら、彼の体に顔を押し付ける。
(わかっている……わかっているわ。けれど……)
騎士とは、主のため、名誉のため、その命を懸けられる者たちだ。
ルシアナも、万が一のときは命を失う覚悟で剣を握っている。
(けれど、レオンハルト様を失いたくはない……命の危機に陥ったらそのときは……)
ルシアナは下唇を噛み、自らの思考を遮る。
それ以上はレオンハルトに対する侮辱だ。
自分の命を最優先に敵前逃亡しろなど、そんな思考を抱くことすら、彼への信頼を裏切ることになる。
(嫌。嫌。絶対に嫌。レオンハルト様を失うなんて嫌。けれど……)
口内に鉄の味が淡く広がるの感じながら、ルシアナは震える唇をそっと開く。
「……レオンハルト様、お願いがあります」
「ああ。なんだ?」
優しいレオンハルトの声色は、ルシアナの決意を後押ししてくれているように感じた。
彼の体に頬を擦り付けたまま、ルシアナは深く息を吸い込み、ジャケットを握る手に力を込める。
「この地に災厄が降りかかったとき……もしまた、この国が戦乱に陥ってしまったときに……そのときは、わたくしも共に戦わせてください」
「……!」
レオンハルトの体が、びくりと揺れる。
ルシアナは、決してレオンハルトを手放さないというように、さらにきつく抱き締める。
「安全なところでレオンハルト様のお帰りをお待ちするなど嫌です。同じ戦場に立てなくても構いません。どうかわたくしを戦力から除外することだけはおやめください」
(わたくしの一助が少しでもあなた様の命を生かす助けとなるのなら、わたくしはいくらでもこの身を捧げるわ。けれど……)
レオンハルトはこの願いを許してはくれないかもしれない、とそんな気もしていた。
レオンハルトがどれだけ深く自分を愛し、どれほど大切にしているのか、自惚れでなく自覚している。命の危険があるような場所に行くことを、彼が快く許可するとは思えない。
(でも、レオンハルト様がお許しにならなくても、きっと陛下が――)
「――ああ。わかった」
(……え?)
ルシアナは勢いよく顔を上げレオンハルトを見る。
穏やかに微笑んでいたレオンハルトは、血の滲むルシアナの唇を見て一瞬顔を顰めたものの、すぐに表情を和らげた。
「貴女も騎士だ。騎士としての貴女の矜持を失わせるようなことはしない。貴女にそのつもりがあるなら、共に戦場へと行こう」
指の背でルシアナの下唇を軽く押し上げながら、彼は「ただ」と続ける。
「貴女は王太子妃殿下と親しいし、戦争が勃発したら妃殿下の護衛を任される可能性が高い。陛下やテオバルドにそのように命令されたら、俺はそれに従う。それだけは承知しておいてほしい」
「いえ、それは……もちろんですわ。その場合は全力で護衛を……、……王命がなくとも、騎士としてのわたくしに任務を与えてくださるのですか?」
「……本音を言えば、危険な場所には行ってほしくない」
眉尻を下げながら微苦笑を漏らしたレオンハルトは、ルシアナを抱き上げると椅子に座った。
近くなった目線に、ルシアナはじっとシアンの瞳を見つめる。
レオンハルトも同じようにルシアナを見つめながら、優しく頬を撫でた。
「だが、それは俺のわがままだ。俺の心の安寧のためだけに、貴女から自由を、意思を奪うことはできない。ルシアナ。俺は貴女を愛してる。だからこそ、貴女の行動に制限をかけるつもりはない」
ルシアナのすべてを包み込むような深い愛情の籠った眼差しに、ルシアナの視界がわずかに滲む。
(ああ……わたくしは一体、レオンハルト様の何を見ていたのかしら)
「ありがとうございます、レオンハルト様……それと、申し訳ございません。わたくしは、レオンハルト様はお許しにならないのではと……そのようなことを思ってしまいました」
「謝るようなことじゃない。それに、心の内では嫌だと思っているからな。貴女の考えも間違いじゃない」
滲む涙を拭うように目尻を撫でるレオンハルトに、ルシアナは頬をすり寄せながら小首を傾げる。
「嫌だと思っていらっしゃるのに、許してくださるのですか?」
「そもそも俺の許可など必要ない。貴女は貴女の意思で、自由に行動していいんだ。俺の気持ちなど関係ない。――が、万が一、心の内だけに留めておくことができず、貴女の自由を奪うようなことを俺がしたら……そのときは、俺の手の届かないところに逃げてくれ」
どこか清々しささえ感じる、慈愛に満ちた眼差し。
どこまでもルシアナ本位なレオンハルトに、ルシアナの胸は甘く締め付けられる。
(本当に……奇跡だわ。これほど深くわたくしを愛してくださる方がいて、それがわたくしの愛する方だなんて……)
今の自分はレオンハルトの愛によって生かされているのではないか。そう思えてしまうほど、いつだって真っ直ぐに、十分すぎるほどの愛が、レオンハルトから伝わってくる。
ルシアナは感極まりながら、そっとレオンハルトに口付ける。
「どうか、わたくしを手放さないで……。そのようなことになっても、わたくしは決して逃げません。逃げようとしたら捕まえてくれなければ嫌です。わたくしをずっと、レオンハルト様のお傍に置いてください。レオンハルト様のお傍にいられないのなら、わたくしは自由などいりませんわ」
もう一度彼の薄い唇に口付ければ、レオンハルトは大きく目を見開いた。しかし、すぐに目を細めると、涼やかなシアンの瞳にどろりとした熱を湛え、血の滲むルシアナの唇を撫でた。
「貴女は本当に堪らないな。……理性を試されている気分だ」
切れた唇を押され、ぴりっとした痛みが走る。
その感覚すら愛おしくて、知らず知らずのうちに口からは熱い吐息が漏れていた。
先ほどお預けを食らったせいか、それ以前に散々特別なキスをしたせいか、今すぐ彼と深い口付けがしたくて堪らなかった。
甘え、乞うように、濡れた瞳をレオンハルトに向ける。
レオンハルトはそれに応えるように顔を近付けたものの、途中でぴたりと動きを止めてしまった。
「……この場所の鍵はギュンターも持っているんだが……」
レオンハルトの視線には、わずかな愉悦が滲んで見えた。ここでやめるのも、このままするのも、すべてはルシアナの意思一つだと、そう言われているようだった。
他の人が来るかもしれない、という可能性に、ここではだめ、と理性が告げる。けれど、高められた欲が、本能が、もう待てないと訴えていた。
「……おねがい、レオンハルトさま」
もう待てないの、とレオンハルトの指にちゅうちゅうと吸い付けば、レオンハルトは意地悪げに目を細めた。
「――貴女のお願いなら、聞かないわけにはいかないな?」
ふっと愉しそうに口角を上げるレオンハルトの姿に、異常なくらい心臓が高鳴った。体の芯が熱を持っていくのを感じながら、これからもたらされる愉悦を期待するように、ルシアナはそっと口を開いた。
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次回更新は2月2日(日)を予定しています。