初めての夜(五)
伝える前に、とあれよあれよという間にレオンハルトに全身洗われたルシアナは、自分ぴったりのバスローブに身を包みながら、浴室の片隅でレオンハルトに髪を乾かされていた。鏡に映るレオンハルトは相好を崩し、今まで見たことないほど上機嫌な様子だ。
彼の機嫌がこれほど見て取れたことなど今までなく、ルシアナはすっかり落ち着きを取り戻していた。
落ち着いてくると、一人で勝手に不安になって泣きじゃくり、彼に一方的に気持ちをぶつけた先ほどの出来事が恥ずかしくなってくる。
「赤いな。のぼせたか?」
後ろから伸びた手が、湯上りというだけにしてはずいぶんと赤い頬を撫でる。その手はそのままくだり、後ろを振り向かせるように顎を押した。導かれるように振り返れば、唇に彼のそれが重なる。
軽い口付けを何度か交わしていると、彼の髪の先から玉になった水滴が落ち、ルシアナの肌を滑った。
「すまない。冷たかったろう」
すぐに顔を離し水の跡を拭いてくれたレオンハルトに、ルシアナは緩く首を横に振ると彼の毛先を軽く摘まんだ。
「……わたくしが拭いてもよろしいですか?」
「ああ。もちろん」
レオンハルトはどこか嬉しそうに微笑むと、ルシアナを抱き上げ、先ほどまでルシアナが座っていた椅子に腰を下ろす。自身の足を跨ぐようにルシアナを上に座らせると、近くに置いていた新しいタオルを被った。
さあどうぞ、とでもいうようにわずかに頭を下げるレオンハルトに、ルシアナは優しく彼の頭を拭き始める。
レオンハルトはルシアの腰をしっかりと抱き締めながら、ふっと小さく笑った。
「本当に、貴女は俺に生きる喜びを与えてくれる」
「……生きる喜び、ですか?」
顔を上げたレオンハルトは、ルシアナの頬に口付けると、緩やかに波打つルシアナの髪に指を通した。
「貴女もすでに承知してるだろうが、俺はあまり何かに頓着するタイプではない。好みくらいはあるがこだわりはないし、それの有無で気分が左右されることもない。生活するうえで必要最低限のものが揃っていれば、それ以外は嗜好品と大差ないと思っている」
「最低限というのは……」
「そうだな……雨や雪をしのげて火種があれば、洞窟だろうが地中だろうが別にいい。どこでも寝られるし、食糧は自分で採って来られるし、体は川で清めればいいからな」
それはあまりにも最低限すぎないだろうか。こだわりがなさすぎるのではないだろうか。山に住む予定でもあるのだろうか。と様々な感情が押し寄せたが、ルシアナは何も言わず曖昧な笑みを返す。
それがあまりにも微妙な表情だったのか、レオンハルトはおかしそうに小さく笑うと、ルシアナの後頭部に手を回し、抱え込むように抱き締めた。
肩口に顔を埋められ、これ以上髪を拭くことも叶わず、ルシアナはまだ少ししっとりとしているレオンハルトのうなじを撫でる。
レオンハルトは一つ息をつくと、言葉を続けた。
「人に対しても似たようなものだ。俺が唯一自らの意思で傍にいたのはテオバルドくらいで……同じ騎士という立場の者以外には関心もなかった。騎士に対しても、気になるのはその実力だけで、それ以外のことに興味はない。好悪もなく、誰かに対し何かを思ったこともなかった」
静かに回顧するレオンハルトに、ルシアナはゆっくりと目を閉じ、これまでの彼の人生を想った。
ただ愚直に、真摯に、彼は剣だけに向き合ってきたのだろう。
その結果、彼は精霊の加護を受けられ、名が知れ渡るほどの騎士となった。しかし、そう過ごすうちに、レオンハルトは意図せず、無意識的に、剣に関わること以外のすべてを、彼自身の中から遠ざけてしまったのかもしれない。
その一途さを危うく思うと同時に、なんて不器用なのだろう、とレオンハルトが愛おしくなる。
(同時に、寂しくも思うわ。レオンハルト様の過去の人生に、彩りを感じられなくて)
こんなことを思うのは、とんでもなく失礼なことだと理解している。それでも、どうしても寂寥感を覚えずにはいられなかった。
こんなにも近くにいるのに、彼がどこか遠くに感じ、ルシアナはさらに隙間なくレオンハルトに密着する。それに応えるように、レオンハルトも抱き締める腕に力を込めた。
「このままではいけないと思ったのは、終戦後、平穏とも呼べる時間が訪れ、日常が送れるようになったときだ。俺たちと同じ旧ルドルティ出身ではない……他の北方の国出身で、このシュネーヴェでも貴族籍を得た者たちが、旧ルドルティの貴族と縁戚になろうと躍起になり始めたんだ。そしてそれに呼応して、旧ルドルティの貴族たちも縁組を進め始めた」
重い溜息をつくと、レオンハルトはルシアナの頭に顔をすり寄せた。
「建国後最初の社交界で開かれたパーティーは、そのほとんどが結婚相手を探すものだった。戦前はまだ夜会に参加できる年齢ではなかったから、俺もその年のパーティーにはいくつか出た。俺も妻を迎えねばと思っていからな。だから、縁戚になろうと近付いてくる者たちに関心を向けようと……向けなければと思って、出席していたが……どうにもうまくいかなかった」
「うまくいかなくてよかったですわ」
「っふ……そうだな」
宥めるように頭を撫でながら、レオンハルトは続ける。
「誰に会っても、心は動かなかった。家格だけ見て選んでもよかったが、結婚相手はそういうもので決めるなとテオに会うたびに言われていたからな。俺はまだ、そういった相手を決める段階ではないのだと、そういう場から遠ざかるようになった。だが、それでも何かと理由をつけては俺を訪ねて来る者も少なくなく、その欲望を隠しもしない姿に……だんだん辟易していった」
「もしかして、以前、余程のものでなければパーティーには不参加だとおっしゃっていたのは……」
「ああ、それが理由だ。見世物のようにぎらつく欲望の目を向けられて……」
そこで言葉を止めたレオンハルトは、体を離すとルシアナの頬を両手で包み込んだ。
「あんな昔に言ったことを覚えていたのか?」
「? はい。だって……初めてレオンハルト様の騎士服以外の姿を見た日ですし、初めてお揃いのデザインの服を着た日ですもの。レオンハルト様との思い出は、すべて大切なものですわ」
そもそもそう訊ねてくるということはレオンハルトもあの日にした会話を覚えているということだ。
(ご両親がいらっしゃった日だし、レオンハルト様が覚えていらっしゃるのは当然かしら)
一人納得していると、レオンハルトは眩しそうに目を細め、ルシアナの頬を撫でた。
「……あのとき思ったことを、そのまま口に出せばよかったと、今では後悔している」
「あのとき思ったことですか?」
なんだろう、と小首を傾げれば、レオンハルトは頬を撫でていた一方の手を滑らせ、ルシアナの髪を梳いた。
「――美しいと、伝えたかった。我が公爵家の色である瑠璃色と、貴女を表す白色を合わせたドレスを身に纏う貴女は、本当に美しかった。見惚れてしまうほどに」
懐かしんでいるのか、視線を落として穏やかに笑むレオンハルトに、ルシアナは静かに胸を高鳴らせた。




