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社交界の閉幕(四)

 振り返った先にいたのは想像通りの人物だった。

 レオンハルトが扉を閉めると、煌びやかなホールの様子を透かしていた透明なガラス戸が一瞬にして薄暗くなる。向こうの景色が見えるか見えないか、というほどに明度が低くなっており、明るい室内からはまったくこちら側の様子が見えないだろうことが窺える。

 扉を完全に閉めるとガラスが暗くなる仕様になっており、バルコニーは秘密の会談や密会によく使われている、と以前義母のユーディットが説明してくれたな、ということを思い出しながら、ルシアナは、ととっと軽い足取りでレオンハルトに近付く。

 半分しかない月に照らされたレオンハルトの髪は、てっぺんは白っぽく見えるのに、下のほうはグレーが濃く黒っぽく見えた。


(……好き)


 先ほどまで真面目に考えていたことは空の彼方へと消えていき、ルシアナは己の欲望の向くままレオンハルトに抱き着いた。きゅうっときつく抱き着くルシアナを、レオンハルトは優しく抱き締め返す。


「どうした?」

「どうもしませんわ」


 呟くように言いながら、抱き締める腕に力を込める。

 抱き締めた体があまりにも肉厚で、レオンハルトは着やせするのだな、そういえばこうして自分から抱き着いたのは初めてだな、とぼんやり考える。

 本当はもっと何も気にせず抱き着きたいが、化粧が落ちてはいけないので顔をべったり貼り付けることができない。それを残念に思いながら鼻先だけ軽く擦り付けると、レオンハルトが優しく背中を撫でた。


「ルシアナ、一瞬だけ放してもらってもいいか?」


 嫌だ、と答えたい気持ちもあるが、レオンハルトに対しては、つい従順になってしまう。

 馬車の中で「そこまで従順な人間ではない」と言ったのにな、と自分で思いながら、ルシアナはゆっくりとレオンハルトを解放した。

 その直後、一瞬のうちにレオンハルトに抱き上げられ、視点が一気に高くなる。

 レオンハルトに見上げられると、露わになった額がよりよく見え、口付けたい心地になる。


(口紅をつけているからできないのが残念だわ)


 指先で額を軽く撫でると、彼は小さく笑んで端のほうへ移動する。端まで行くとルシアナをそっと手すりの上に下ろし、落ちないよう腰にしっかりと腕を回しながら、頬や額に口付けを落とした。

 何度も繰り返される軽い口付けに、ルシアナはぐっと口を閉じると、レオンハルトの口元を両手で塞ぐ。


「嫌だったか?」


 顔を離したレオンハルトに問われ、ルシアナは手を引っ込めると、目を伏せながら緩く首を横に振る。


「なら、貴女にキスをしてもいいか?」


 この問いにも、ルシアナは同じように首を振った。


「……ルシアナ、顔を上げて」


 少し間を空けて、ルシアナは視線を上げる。

 澄んだシアンの瞳と目が合い、胸がどうしようもなく甘く疼いた。


「だめな理由を訊いても?」


 鼻先が触れ合うほど近くに顔を寄せられ、ルシアナは思わず視線を逸らす。


「……ルシアナ」


 耳元に口を寄せたレオンハルトに低く名前を呼ばれると、ぞくりとしたものが背筋を駆け下りた。

 自然と、口から熱い息が漏れてしまう。

 それで何を思ったのか、レオンハルトはさらに頭を下げると、ルシアナの首筋に口付けた。

 え、と戸惑う間に、レオンハルトは何度も首への口付けを繰り返し、しまいにはぬめりとしたものが首を這った。


「え、い、いけませんわ、レオンハルト様っ――ぁ、」


 ふっと耳孔に息を吹きかけられ、ついに甘い声が漏れてしまった。

 体の奥底に、今、高めてはいけないものが溜まろうとしている。

 ルシアナは逸らしていた視線をレオンハルトに戻すと、その頬に軽く触れた。


「これ以上は……人前に出られない顔になってしまいます……。……ですから、今はいけませんわ」


 出た声はあまりにも弱々しくて、もう手遅れかもしれないという気がしてきた。

 もうすでに、レオンハルトが好きで堪らないのだと、どうしようもないほど蕩け切った顔をしているに違いない。甘えるように、誘うように、瞳が潤んでいることだろう。

 この表情を出さないために、先ほどまで仮面を貼り付けていたのに。

 まだ挨拶しなければいけない人たちがいるのにどうしてくれるのだ、とじっとレオンハルトを見つめれば、彼は至極満足そうにその目を細めた。


「俺に向ける表情を繕わないというのなら我慢しよう」


 思いがけない言葉に、ルシアナは目を瞬かせる。今の言葉は、ヘレナとの会話の中で気付いた本心への答えとなるものだ。


「……繕わなくても、よろしいのですか?」

「むしろ何故繕う必要がある? 人前でこそ、その目を俺に向けるべきだ。貴女の想っている相手は他でもない俺なのだと、俺にも、他の者たちにも示してほしい」

「……レオンハルト様は、そちらのほうが嬉しいですか?」

「当然だ。愛おしい人に特別熱の籠った視線を向けられて、嬉しくないわけがない」


 確かにそうだ、とルシアナは納得する。

 ルシアナ自身、レオンハルトが自分にだけ柔らかな表情を見せてくれるのが嬉しかった。人前で口付けられるのだって、慣れていないだけでとても嬉しいと思っている。


(わたくしが嬉しいと感じていることを、レオンハルト様もそうだと感じてくれている……こんなに幸せなことはないわ)


 ルシアナは優しく頬を撫でると、両腕をレオンハルトの首に回す。


「今、特別なキスができないのが残念です」

「ああ。紅が取れてしまうからな」


 唇には触れないよう、口の端ギリギリにレオンハルトは軽く口付ける。


「……わたくしから口付けられないのも残念です」

「そうか。それは俺も残念だ」


 今度は額に、その唇が触れた。


「帰ったらたくさんしてくれますか?」

「そんなことを言われたら、今すぐ連れ帰りたくなってしまうな」


 鼻の頭に口付けられ、ルシアナはくすぐったそうに笑う。


「まだご挨拶が済んでいない方がいらっしゃるからいけませんわ」

「そうか。残念だ」


 レオンハルトは、ふっと優しく目尻を下げた。愛おしそうに細められた双眸に、なんて幸せなのだろう、とルシアナは思う。


(レオンハルト様への気持ちを出さないようにするだなんて、とても無謀なことをしようとしていたのね)


 次から次に溢れてきて仕方がないレオンハルトに対する恋慕の情に、ルシアナはとても甘い、蕩けるような笑みをレオンハルトへと返した。

ブックマーク・いいね・評価ありがとうございます!

次回更新は12月31日(日)を予定しています。

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