確かめ合う想い、のそのあと
汚れたナイトガウンの代わりに自分のジャケットを羽織らせ、来たときと同じようにルシアナを抱える。
「あの、ガウンは……」
「ハンカチと一緒に俺が出しておく」
ハンカチとともに手に持ちながら答えれば、彼女は少し恥ずかしげに目を伏せた。
「……ルシアナ」
手を強く握り込みつつ、それを悟られないよう優しく彼女の名を呼ぶ。
長い睫毛を揺らし視線を合わせた彼女に微笑を向け、触れるだけのキスをした。それだけで、彼女はとろりと目尻を下げる。自分のことが好きで堪らないと訴えかけるような彼女の瞳に見つめられると、どうしようもない欲望が胸の内に渦巻く。
(このままずっと共にいられたらいいのに)
誰にも邪魔されず、二人きり部屋に籠っていられればどれほど幸せだろうか。彼女の姿を他の誰にも晒すことなく、この手の内に収めていられればいいのに。
そう思いながらも、レオンハルトは大人しくルシアナを部屋へと送り届ける。
部屋の前で下ろし、「また」と立ち去ろうとしたレオンハルトだったが、袖を掴まれ前へと向けていた視線をルシアナへ向ける。
(……くそ)
潤んだロイヤルパープルの瞳に見つめられ、理性が揺れる。今にも溢れ出そうな欲望を必死に抑え込みながら、レオンハルトは緩やかな微笑をルシアナに向けた。
「また夜に。迎えに来る」
「はい……」
掠めるだけのキスをすれば、彼女はわずかに目を伏せ、しかしどこか嬉しそうに微笑んだ。
ルシアナの柔らかな髪を梳き、どろりと漏れ出す己の欲に気付かないふりをして、レオンハルトはその場を後にする。
募る苛立ちに舌打ちが出そうなのを我慢しながら、自分の寝室に向かう。近くまで行くと、エーリクが夜会出席のための準備をしていた。
「旦那様」
レオンハルトに気付いて、エーリクが頭を下げる。
「夜会服は任せる。時間まで休むから、俺が出てくるまでは誰も通すな」
「かしこまりました」
深く頭を下げたエーリクに小さく頷き返すと、レオンハルトは寝室へと入る。
壁紙も、カーテンも、ベッドの天蓋の幕も紺で統一された、見慣れた寝室。久しぶりに帰って来た自室に、荒れていた心が落ち着いたような気がしたが、脳内に下卑た笑い声が蘇り、レオンハルトは奥歯を噛み締める。
「くそ……」
苦々しそうに小さく漏らすと、内鍵を閉め、ボタンをいくつか外してベッドに直行する。勢いのままベッドに倒れ込み、深い溜息を漏らした。
横を向き、手に持ったままだったルシアナのナイトガウンに目を向けると、袖を軽く掴む。
「……ルシアナ」
名前を呼ぶだけで心が満たされ、それと同時に飢えていく。
こんなに心が乱されるのも、感情を揺さぶられるのも初めてで、レオンハルト自身、自分の気持ちを持て余していた。
(これが誰かを愛するということなんだろうか)
ルシアナのことが好きだと気付いてから、彼女が愛おしくて仕方がない。いや、彼女のことはきっとずっと愛おしく思っていた。想いを自覚したことで、それがより鮮明に、強く感じられるようになっただけだ。
「ルシアナ……」
この世にこれ以上美しい言葉はないし、これ以上甘美な響きを持つ音もない。
彼女より美しいものも、可愛らしいものも存在しない。
自分がそんなことを考えるような人間だったことに、レオンハルト自身、とても驚いた。
(……彼女と出会えたのは奇跡だ。本当に)
レオンハルトはきつく目を閉じると、この縁談が決まってからのことを思い返す。
もともとこの縁談は、断られること前提でトゥルエノ王国側に持ちかけたものだ。想定外の了承を得ることになったが、断られる前提だったからこそ、相手を指名しなかった。
それが、レオンハルトにとっては幸いだった。
(王女を名指ししなかったからこそ、ルシアナが来てくれた。……名指ししなかったことも、彼女が塔という場所から出たタイミングで縁談を持ち込めたこともよかった)
もっと言ってしまえば、自分がルシアナの結婚相手となり得る身分であったことも、喜ばしいことだった。これまで身分や地位などにこだわったことはないが、ルシアナを妻に迎えられたことを考えれば、この血筋も今の地位もありがたいもののように思えた。
もし何か一つでも歯車が狂っていれば、彼女とは出会うことすら叶わなかったのだ。
前に一度、両親とルシアナが初めて会ったときに、彼女との縁談がなかった未来について少しだけ考えた。あのときはまだ、ルシアナに対する自分の気持ちを理解していなかったが、そのときでさえ、彼女が違うパートナーを連れている姿を考えて、嫌な気分になった。
(今は嫌な気分どころではないな。考えたくもない。し、想像の中でさえ、その男を八つ裂きにしてしまいたくなる)
自分以外が彼女に触れるのも、彼女の名を呼ぶのも、彼女の隣に立つのも許せない。彼女の髪の毛一本だって、他の男に譲るつもりはない。彼女の吐息でさえ、自分のものにしてしまいたい。
『いやぁ、いいですねぇ。夫なんでしょう? あなた』
先ほど一瞬蘇った下卑た笑い声が再び脳内に響き、レオンハルトは拳を握り締める。
(ジャネット・ダンヴィル……あのくそ野郎……!)
ジャネット・ダンヴィルは、捕まった時点で自分に未来がないことがわかっていたのか、質問には素直に答えた。余計なことも言わず、必要なことだけを答えていたが、すべての質問が終わり、レオンハルトが去ろうとすると、何故かレオンハルトを呼び止めた。
へらへらとしたにやけ面を浮かべ、その頬はどこか紅潮していて、レオンハルトを見つめる視線は熱に浮かされているようだった。
これまで似たような視線を多く向けられてきたレオンハルトは、目の前の男が元は女であったことを思い出し辟易した。ジャネット・ダンヴィルは、精霊術師に対し異様な対抗心を燃やしているが、ルシアナを狙ったのはそれだけが理由ではなく、自分に対し何らかの情があったのではないかと思ったのだ。
(……それだったら、まだよかった。ジャネット・ダンヴィル……あいつは……!)
薄暗い部屋で、ジャネット・ダンヴィルは息を弾ませながら言った。
『ねぇ、あのねぇ。私、精霊術師なんて嫌いだったんですよ、ほんと。あの女のことだって、会ったことはないけど大っ嫌いでした。でも、けど、なんでですかねぇ……最後に見たあの女の姿が忘れられないんですよ。私の右目を射貫いた! あのときの姿が!』
唾をまき散らし、荒い息を吐くジャネット・ダンヴィルの異変に、レオンハルトはこのとき初めて気が付いた。自分が、とんでもない勘違いをしていたことも。
『なんでですかねぇ……男になったせいですかねぇ……あの女の姿を思い出すと、へへっ……ねぇ、ほら。足の間にあるコレが、すごい痛くなるんですよ。……いやぁ、いいですねぇ。夫なんでしょう? あなた。羨ましいなぁ。この股にぶら下がったもので、あの女を好きなようにできるなんて……。ねぇ、どんな声で喘ぐんですか? あの小さな口に突っ込んで――』
脳内に響く声を消すように、レオンハルトは拳をベッドに叩きつける。
鈍く軋む音が室内に響き、レオンハルトは背を丸めながらシーツを握り締めた。
規則などなければ、あの瞬間、あの場で、ジャネット・ダンヴィルの首を刎ねていた。
ルシアナを見ることができる目も、声を聞ける耳も、匂いを嗅げる鼻も、名を呼べる口も、彼女の姿が残った脳も、すべてを切り刻んでやりたかった。
実際にジャネット・ダンヴィルがルシアナに触れていなくても、彼女の乱れた姿を想像したというだけで、ジャネット・ダンヴィルに対する嫌悪も殺意もどうしようもないくらい膨れ上がった。
想像の中でさえ、彼女を穢されるのは許せなかった。
ルシアナに劣情を抱くジャネット・ダンヴィルの姿を思い出すだけで、自分の中だけでは消化しきれないどす黒い感情が心を支配する。
「……俺のものだ」
怒りに震えた声で、小さく漏らす。
ルシアナはルシアナだけのもので、決して自分のものなどではない。
そう頭では理解しているのに、醜い独占欲がルシアナは自分のものだと主張して聞かない。
「俺のだ。俺の……」
涙の一滴だって誰にも渡したくない。彼女のこれからの人生、彼女にまつわるすべてが自分のものであってほしい。自分のものでなければ我慢ならない。
レオンハルトは自分を落ち着かせるように、深く気を吐き出す。
(……俺は、彼女に愛されている。そして俺も、彼女を愛している)
これから先、自分がそういう意味で愛する女性は彼女だけだ。
ルシアナも、そうであってほしいと思う。
(そうなるように、俺が努力をしなければいけない。彼女が俺を愛し続けてくれるように……できる限りの手を尽くさなければ)
彼女の目に、他の誰かが魅力的に映らないように。
彼女に至上の幸福を与えられるのは、自分だけだと思ってもらえるように。
「愛してる。俺の……俺だけの、ルシアナ」
レオンハルトは至極大事そうにルシアナの名を口にすると、泥濘に沈んでいくように、深い眠りへと落ちていった。
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次回更新は12月13日(水)を予定しています。