星に願い、神に祈る
7月6日、火曜日。
いよいよ明日か……。なので準備がある。深夜、また0時とか1時とかに目が覚める。しばらく寝つけず、3時にも4時にもなって、ついに起き上がる。深い眠りができない。浅く寝ぼけたまま、5時になって、採血があった。後でやり直してもう1回。前の跡が、右腕に残ってる。痛かったもんなあ……。しかし今日はそれだけで、検査もなく、自由だった。洗濯をする。その間に友達にメール、姉にもメール、職場のお世話になっている人にもメール、母にもメール……した時に、遠くで仕事している父に電話した方がいいか、訊ねた。
一応、母から父へは伝わっていたので、まあいいかという事になったが、洗濯が終わって部屋に戻って、お金の話になった。高額医療になるので限度額の制度を受けたいが、私は親の扶養であり、手続きで少々ややこしい事になり、母に丸投げしたという。母に相談しようと電話をかけたら、ちょうど父が家に帰ってきて、話をする事ができた。なんて素敵なタイミングだろうかと苦笑いだった。新型コロナのせいで親でさえ面会禁止だが、会いに行こうとしてくれたと聞いた時は嬉しかった、ありがとう。
送っておいた冊子は今日にでも届いているはず。あれを読めば、ペースメーカーがどういうものか、理解できるはず。ってか、して。工場の返事がいつくるのかなと気になってしまう。思いは全て、書けたのだけれども。
姉から今日は仕事は休みとメールが来たので、場所を移して電話をかけた。姉の家族が夏休みになったら家に来るだろうと予定を聞いて、まだ未定だという話を皮切りに、手術の事を伝えた。反応は緊張するが、やっぱり姉やな、頼りになるな、と強く感じた。その後、友達にも電話をかけて説明する。またどっか行こうねと言い、いい言葉をもらった。すぐには何にも思わなかったが、その言葉は後々にも残るほど、希望に満ちた言葉になった。
浅見さんのマンガを読んでいたら、浅見光彦記念館が長野県の軽井沢にあると知る。浅見さんを好きなのは私ではなく母なのだが、いつか手術もコロナ騒動も終わって、前みたいに一緒に旅行へ行けるようになったら行きたいと思った。長野県は、甥っ子が野球で青春するために寮に入った所だ、涼しいだろうなあと想像した。
O山先生や、夜にはO澤先生も様子伺いに来て下さり、忙しいだろうに、ありがたかった。一体、何人で手術するのだろうなと(3人か?)、全ては明日か、ゆっくりと、今夜は眠りたい。ほんま、みんな、ありがとう。
最後の夜、向かいのおばちゃんと長く話した。おばちゃんは、手術が終わって退院するけれど、8月にもまた手術するとか。大変だなあ……。心臓仲間だ! と、人と話して楽しい時間を過ごした。七夕飾りにお願いを書いて、願いを込めて、神様、仏様、先生やみんな。よろしく明日をお願いいたします。
7月7日、水曜日。
手術は16時ぐらいの予定なので、それまではとくにする事もなく、かといって何もする気になれず、ぼうっと過ごしていた。ホリエモンさんの本で『時間革命~1秒もムダに生きるな』を読み終えた。タイムイズマネーを否定し、時間について語る。お金よりも時間が大事か。人は、与えられた時間を懸命に生きる、それでいいじゃないか。言う事に全部を賛同ってわけではないが、否定でもない。自分に正直に、他人のために使う時間、他人により使われる時間、自分のために使う時間、自分で使う時間……と、いちいち考えて使っているわけではないけれど、ひっくるめて自分が満足できる、する人生を歩めたらな、と、こんな感じで思う。どちらも大事という意味で、タイムイズマネーじゃないかな。
手術までの経過。朝の採血は1本採り直し。T字帯という、ふんどしみたいなのと、ストロー付きのコップが要りそうなのでコンビニに買いに行く。今さら気がついたがポストだけでなく郵便局があった(もう利用する事はないと思うが)。会社の人、読んでくれたかな、追跡で着いているはずなのだが……。仕事が続けられるか、決められないからまだ迷う、続けたいとは言ったけれども返事はいつ来るだろう。
これまでに大きく調子が崩れる事は無く、向かいのK村さんと話していた。娘さんがパン屋さんをしているそうで、もう10年以上になり、市役所の横でやっているそうだが、店の名前はどうしても思い出せなさそうだったので残念だった。
私もじゃあ、と、働いている工場の店の宣伝で、いつも広告紙を持ち歩いていたので、それをお渡しした。興味を持ってくれたらしく、買ったら電話するとまで言ってくれて番号を教えた。売上に貢献できたらいいね、ありがとう。K村さんは退院していった。
先生が声かけてくれたけれど、私の前に2例ほど手術があるそうだ。それ聞いてヒエ~ッ……っと、すごいなあと感心していて、遅くはなったが17時頃に呼ばれ、用意を始めた。
T字帯の装着が分からず苦戦し、長衣に着替えて、何人もの人に支えられてベッドに横たわり、ガラガラガラ~ッと手術室に運ばれて、進むうちに段々と現実味を帯びてきた。逃げ出したくなる衝動を必死で堪えた。自分の視点から見える景色や様相は、こんなのなんだと知った。
それから、ベッドから手術台に重い体を移され、すぐ横でO澤先生やO山先生が声をかけてくれている。頑張れ自分、何を頑張ればいいのか分かるまで分からなかったけれど頑張れ自分、自分は、己の恐怖とたたかうのだと悟ったのだ、祈るのだ、精一杯。
麻酔が効いてきて、ほんとにフッと、意識が消えた……。
気がついたら、終わっていた。どこで覚醒できたのか覚えていないが、元の病室に戻ってきていた。
あれ、ここどこだっけってなったり、尿道に管がさしてあったりで、あと点滴と、O山先生が母に電話しておくよと言って下さっていたのを覚えている。
手術は無事に成功したのだ、よかった……と安堵し、でも体は動けず、看護師さんが処置して、夜は静かにやってくる。ご飯は勿論、食べられない。それどころではなく、体が動かせない、不自由だ。後で、寝返りはできると教えてくれたが、体の両方や下も管や線がつけられた状態では、とても無理だった。
寝つけずに、寝たいから必死になってきたが、暑いのかどうかなのかも分からない。隣の人が急に大声を上げてビックリした。なんて心臓に悪いのだ。
やっと寝つけて、変な夢をみた。兄がカレーのついたみかんを投げつけてきて、私の白いシャツにカレーの飛沫がかかった。めちゃ私はキレていた。何の暗示だろうかこの夢は。
7月8日、木曜日。
手術が終わって。右足の付け根から管を心臓にまで入れて行う手術だったので、傷口を触ると痛いし、内出血で青あざがあるが、まあ大丈夫だ。今朝もまた採血の採り直しがあった。夜中は寝返りがうてず体が固まってしまっていたので、起き上がりは立ちくらみ、めまいに襲われて、視界がグラグラだった。ふらついていたが、いつもの長衣に着替えて、昨日、今日もシャワーできず。昨夜はご飯食べていないし、朝も苦しかったけれども、何とか全部を根性で口に入れた。あまり歩けないが、よたよたとトイレに行っても、全然出ない。
今日は心電図とレントゲン検査だった。ペースメーカーのぺー子さん、利いているのかな。見た目が変わらないだろうから、分からないけれども。ペースメーカーについて、登録制度など、このへんの話が苦手で、母たすけてーっと電話したら、明日に母が来てくれるという。会えないけれど、何か持ってきてもらうかなと考えた。淋しさはあれど、ボーッと過ごしてはいるけれども、毎日ちゃんと息して過ごしています。
みんな、ありがとう。
7月9日、金曜日。
右足の付け根がエライ色になっているわ……。隣と向かいと斜め向かい、人が入れ替わって人通りが激しく、何度もトイレや点滴エラーとかで呼ばれて、看護師さんが忙しく、いつも偉いなあ、っと感心していた。すごいすごいと思いっぱなしである。トイレに行く隙が難しく、もし人がいたら、外にある大きい部屋のトイレへと逃げる。一昨日から便が出なくてマズイなと思っていたが、9時頃にやっと出て、一安心した。
体が動けそうだ、入院してからほぼ毎日が雨だったが、今日は晴れている。O山先生が来て、抜糸は夕方ぐらいと聞いていたのに、Y先生がやって来て、さくっと抜糸していった。ヒィッ、朝やんっ。シャワーの予約を10時半に入れてきていたので、すぐに行くにはどうなんだコレと、やめて16時半に変更した。
ところがシャワーに行こうとしたら、ペースメーカーの業者さんがやって来て、作動チェックみたいな事をされてて終わったらもう予約時間が過ぎているし。もういいやちくしょーと、慌てて適当に頭洗ってシャワーで濡れてから出る。何だ今日は、前の人達が服を脱ぎっぱなしで2着も放置、いつも置いてあるはずのドライヤーが無い(入浴室にあった)。気分がよくないなあ、私は知らん。
ドタバタとしたが、N美ちゃんと姉からは、お誕生日おめでとうのメールが届いた。今日は自分の誕生日である。今後に直接会う可能性が高い人達には、今回の事は知っておいてもらった方がお互いのためだと、まだ連絡していない友人のN美に、長々と、最後に手帳のリラックマのイラストも描こうと、手紙を書き始める。
夜は選択した通り、ハンバーグだった。作っておいた旗を立て、ひとりで祝った。
生んでくれてありがとう、今年はこんな所で迎えるとは思わなかったけれど。
母が来てくれて荷物を持ってきてもらった。読み終えた本などを持って帰ってもらう。退院は来週中かなと思っていたが、夜にO山先生が来て、明日に退院しましょうとなった。はい?
急や~~っと、そんなわけで、まだ読みかけの本を今晩中に読まないとと焦ったり、荷物をまとめにゃと朝のバタバタを予想しながら、今夜は更けていく。