打ち上がる花火のように
7月下旬。
長かった期末テストも終わって解放感に満ち満ちた俺の気持ちは、校舎を出た瞬間に絶望へと変わった。
うだるような熱気に蝉の声。これがミンミンゼミならまだ風情でも感じることができたかもしれないが、お生憎様、この辺りにはアブラゼミしか存在しない。
こいつらの鳴き声はまったく不快極まりない。
夜中にたむろする若者避けのために、コンビニではモスキート音なる若者にだけ聴こえる超音波的なやつが流されるらしいが、その代わりにアブラゼミの鳴き声を垂れ流してやればいいと思う。
若者に限らず大人だって不快で仕方なく、そそくさと逃げ出すことだろう。
なんて、つまらないことを思考しながら校門を出ると、いつものように門柱に凭れ、なんとなく空を仰いだ。
雲ひとつない青空とは、まさにこのことを表すのだと思う。「俺の季節だ」とでも言うように、太陽はいきいきと光り輝いている。
眩しい。
すぐに頭を落とし、そのまま、ぞろぞろと下校する高校生の束を見た。
友人とテストの答え合わせをする者。
ここが難しかった。だの、今回は簡単だった。だの、映画の帰りのように、ただただ感想を言い合う者。
あるいは、テストとは関係無しに、今期のドラマや芸能人の話に花を咲かせる者。
テストを終えて解放されたそのひと時を、みな思い思いに楽しんでいる。
俺はといえば、汗で張り付いたワイシャツを背中から外しつつ、片手をバイザーのようにして、日光を遮っている。
ある人物を俺は待っていた。
「遅いな……」
隣の家に暮らすそいつは、俺が幼い頃から何かとよく遊んでいて、もちろん小中と同じ学校に通い、その9年間を何故かクラスメイトとして共に過ごし、高校こそは離れるだろうと思っていたら、なんと同じ場所を志望していた。
成績は俺が少しだけ上。特に高い目標もなかったので、実力相応校を無難に志望していたし、そいつも、
「さすがに同じ所を目指すのは難しいよね……。あはは、良かったね〜! 切れるよ、腐れ縁ってやつがさ」
なんて冗談めかして言っていたのにな。
気付けばお互い無事に合格し、俺が1組、そいつが2組に配属された。
同じクラスではなかったにせよ、隣り合った教室。
腐れ縁とはまさにこのことである。
家が隣なのだから、必然的に毎日行き帰りを共にしていた。
帰りの集合場所は校門前。
普段であればすぐにでもやってくるのだが、今日は何かあったのだろうか、遅い。
「ごめーん、待った?」
前方から16年間聴き続けてきた声がした。
俺より10センチメートルほど小さい背丈。こげ茶色の髪の毛を後頭部の高いところで一つに結び、くりくりとした眼を大きめの黒縁眼鏡で縁どっている由香は、眉を八の字にしつつも、口元に笑みを浮かべながら、下校途中の高校生の波をかき分けて走ってきた。
「待った」
「何分ぐらい?」
「さあな、10分ぐらいじゃねえの?」
「じゃあ実質待ってないじゃん!」
「どう考えても待ってるだろ」
他愛のなさ過ぎる会話を繰り広げると、俺は鞄を肩にかけて歩き始めた。
猛暑だというのに片手をスラックスのポケットに突っ込んでいるのは、直す気もない俺の癖である。
「ねね、テストどうだった?」
歩きながら俺の顔を覗き込むようにして訊く。
前見て歩けよ。危ないぞ。
「普通かな」
「あんたの普通は普通じゃないの。普通の人基準で、どぞ」
「どういう意味だ。それ」
「そのまんまの意味。あんた、大して勉強してないくせに、いっつも得点が高いんだから」
頬を膨らませて前を向き直った。鞄を持った腕を後ろで組んで、足をわざとらしく上げて歩いている。
「いつも通りって意味の普通だよ」
前を行く由香の背中にそう投げかける。
これが春辺りであれば、もっと愛想良く会話ができるはずなのだが、何にせよ暑い。発声する体力さえも奪われている気がする。多分、蝉の声と太陽のせい。
心なしか歩く速度も遅くなっている。
由香は俺の方を振り向くと、
「なら今回も学年トップだ」
と、満面の笑みで言った。
「なんで由香が嬉しそうなんだよ」
「なんでって、弟みたいな存在のあんたの成績が良いのは、普通に嬉しいことでしょ?」
「お前の弟になったつもりはないが」
「あんたって昔は私よりチビだったじゃない? だからさ、弟みたいだな〜って思ってたの」
「今は俺の方がでかいけどな」
「もう、うるさいなぁ」
また頬を膨らませて前を向き直った。まったく、ころころと表情が変わる忙しい奴だな。昔からそうだったけどさ。
気付けば由香は、俺と肩を並べて歩いていた。
家まではあと半分ぐらい。
ふと右に目を向けると、青々とした夏草が元気よく空へ伸びていた。その周囲をよく分からない羽虫が、よく分からない音を立てて飛び回っている。
視線を元に戻すと、張り切りすぎた太陽に温められたアスファルトからモヤモヤと陽炎が立っており、俺は思わず
「……夏だな」
と呟いていた。
その様子が何やら由香のツボにハマったらしく、ブッ、と吹き出したかと思うと、すぐさま大笑いしやがった。
「ハハハハハ! どうしたの、風情でも感じちゃった?」
いや、そんな涙を浮かべてまで笑わんでも。
「……ほっとけ」
なんだか恥ずかしくなってきたので、由香から視線を外してじっと前を見つめた。
歩く速度はどんどん速くなっていき、俺に追いつこうと、由香は後ろから小走りで追いかけてくる。
「ちょっと、ごめんって!」
足を止めて振り返った。
声こそ真剣だが、その緩みきった表情筋では、全く以って説得力がない。
「暑いからさっさと帰るぞ。……夏だからな」
軽い冗談のつもりで溜めを作り、夏であることを強調してやると、由香は「もうやめて」と口にしながら、俺を制するように手を伸ばしてまた笑った。
しばらくは使えるな、これ。
「ブッ……、フフ……、そ、そうね……早く、フッ……帰ろっか」
だとしても、しつこい。
「いつまで笑ってんだよ」
「あんたが笑わせるから!」
「お前が笑い上戸なのが悪い」
「ご、ごもっともです……フフ、フフフ」
「はぁ……」
いい感じに会話に一区切りつけ、自宅を目指してまた歩を進める。
「夏だね」
今度は由香が夏を感じたようだが、無視。
「ちょっと、聞いてる?」
「聞いてない」
「聞いてんじゃん」
聞いてるけど聞いてないんだよ。って言うのも面倒だ。
「夏といえばさ、何が真っ先に思いつく?」
由香は少し小走りして俺の先へ行き、振り返って再び覗き込むようにして俺に訊いた。
丁度俺の進行を邪魔する形で由香がいる。したがって、俺は立ち止まるしかない。さっさと帰るために適当に答えてやった。
「暑い」
「そうじゃなくて」
「だるい」
「真面目に!」
真面目に? うーん、そうだな。
「花火とか?」
「ビンゴ!」
わーい。やったー。全く嬉しくないな。
「で、それがどうした」
頭を掻きながら訊ねると、不思議なことに由香は急にもじもじとし始めた。一体どうしたというのだろうか。
「えっとね、今度の日曜さ……」
と、ここまで言って、なにやら悩むようにかぶりを振った。何がしたいんだ、こいつは。
って、そんなことより。
「なんでもいいが、歩こうぜ」
「そ、そうだね。あはは、何やってんだろ」
「暑さで参ってんじゃないか? 早く帰ってクーラーだ。文明の利器を最大限利用しないとな」
「うん……」
今日の由香は何かがおかしい。
元々ころころと表情を変える奴ではあったが、あからさまにもじもじとする、なんてことは無かった。
もちろん遅れてくることもだ。
遅れてきたことに対して、別段何か咎めようという気はさらさらないのだが、普段であれば、すぐにやって来るんだ。違和感を感じるのも仕方がないだろ?
しばらく沈黙が続くも、無事自宅を目前にし、俺はいつものように
「じゃ、また月曜」
と、由香に言ってドアノブに手をかけようとした。
――その時。
「待って!」
由香が叫んだ。
思わず由香の方を振り向く。
「……どうした」
由香はハッとして、また少しもじもじとしたが、何かを決意したように軽く頷くと、おもむろに口を開いた。
「あ、あのね。えっと……、うん。今度の日曜、つまり明後日……ね。一緒に……一緒に、花火大会に行かない?」
先刻まであれほどやかましかった蝉の声がパッと消えた。
――ような気がした。
由香からの改まった誘いなんて、16年間一緒に過ごしてきて、一度もなかったはずだ。
年端もいかないガキの頃。
なんとなく外に出ると、なんとなく由香の家のインターホンを鳴らしていた。
由香は「仕方ないわね」という風に出てきてくれていたことを覚えている。
そしてなんとなく遊び、空が橙色に焼ける頃、なんとなく帰宅していた。
小中。
俺が家を出れば丁度由香も出てきていた。
そりゃそうだ。隣なんだから学校までの距離はほぼ同じ。つまり登校時間も同じだ。
またなんとなく一緒に行き、なんとなく一緒に帰っていた。
それは今も変わらずそのまんま。
今までなんとなく行動を共にしていた。必然的といえば聞こえが良いか。まあ、そんな感じに。
だから改まって何かしないかと誘ってきたのは初めてで、そんなことで俺は驚いてしまった。
でもなんだ、この気持ちは。
打ち上がる花火のように、心が華やぐ……。
長い沈黙。
実際はほんの数秒程度だろうが、俺にはひどく長く感じられた。
それは由香も同様だったらしく、しばらくすると眉を八の字にして、取り繕うように笑った。
「あ、あはは、ごめんね、急にこんなこと。あの、気にしないで。テスト終わりに友達に教えられたから、あんたどうかなって。あの、その、私、友達と――」
「行こう」
「……えっ?」
「花火大会、行こう」
――こんな言葉が出るなんて、自分でも自分に驚いている。
何故だ?
誘われたから仕方なく?
珍しいから思わず?
違う。
俺は見たいと思ったんだよ、心の底から。
由香と一緒に。
夏の夜空を染め上げる、花を。
「ほんとにいいの……?」
由香は何が起きたのか分からないといった表情を湛えている。
再びの沈黙。
しかし、今度は短かった。
なんだか気恥ずかしくなって、由香から視線を逸らし、軽く咳払いをする。
激しく脈打つ鼓動をどうにか落ち着けて由香に向き直ると、いつもの調子で
「行こうっつってんだから、いいってことだろ」
と言った。
由香の表情はみるみる明るさを取り戻し、それはやがて、見慣れた満面の笑みへと変わっていく。
「うん! そうだね!」
「ああ。じゃ、また明後日な」
「おう!」
「ただいま〜」
帰宅し、自室に戻った。
暑い。
扉の傍らに掛けられたリモコンを操作してクーラーを起動すると、俺は鞄をベッドに放り出し、キャスター付きの椅子に体を預けた。
心地の良い冷気が6畳間を満たしていく。
「ふう」
ちらりと机上のカレンダーに目をやる。
見据えるは、どこかの国のどこかの海、鮮やかな花緑青の横に羅列された、赤と黒の数字たち。
「うん」
机の引き出しをそっと開け、俺は0.5mmの青ボールペンを手に取った。
――7月21日 花火大会。