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俺、合格体験記にはまる

 木々の葉が生い茂っていく季節。浮き彫りにされた葉脈を宿した若緑色の装飾につつまれ、他の種類の灌木と競って自己主張を始めた。芝生は業者の手で短く刈り取られ、人間がまどろみに来るのを待ち構えている様子だ。適度に雲がかかり、思い出したように雨が降る。梅雨ほどのうっとおしさはないが、傘を片手に、冷たいしずくに耐えなければならない。いつも晴れればいいなどとは、農業について考えたことのある人間には吐けないセリフだった。


 俺は農学部を目指していた。残念ながら、バリバリの文系であるので、農業経済系の学部を目指すしかなかった。

 

 理由は徴兵制度の復活が怖かったことと、理系なら学徒動員されない計算があったから。

そもそも、農業経済学は理系でもなんでもないのだが、そこはあえて思考停止していた。

 

 運動音痴で19年間生きてきた俺にとって、自衛隊や軍隊の訓練は恐怖を呼び起こした。

出来なければ有無を言わさず怒声を浴びせられ、殴られ蹴られる。動作がのろく、声も小さいので兵卒たちのストレス解消のための格好のターゲットになるだろう。

 

 徴兵制度の復活は、昭和時代を生きてきた人間にとっては、明日起きてもおかしくはないリアルな恐怖だったと思いたい。当時は東西の冷戦があり、アメリカとソビエト連邦が(にら)みを利かせていた。

 他の運動音痴ではない人たちからみたら、徴兵制度の再開自体は杞憂としかとられなかっただろう。

事実、高校時代の同級生と徴兵制度について語る機会は訪れなかった。


 予備校で、巨大なガラス窓に降りしきる雨音を気にしながら、講師の説明にも気を配る。どちらかというと、

 雨だれのリズムの方が耳には心地よい。濡れているせいか緑が近くに見える。晴天時より色濃く映える。

 

 飽きると、机に落書きをして、次に席に座る相手にコンタクトを望む。ふざけた希望はかなえられているかどうかは知らない。教室が変わるからだ。

 

 一人で食堂へ行き、一人で昼食を取る。これを何十日も繰り返してきた。一浪めも基本はひとりだった。同じ高校から来た生徒とは距離を置いた。入学式で出会った時に、有名大学を目指すと宣言して、そこには届かず恥ずかしかったからだ。


「願望は宣言すれば叶う率が上がる」


有名な心理学者が唱えていた説だが。自分には当てはまらなかった。むしろ、失敗することを考えると、宣言しないで努力する方が心理的に落ち着いてやれた。


 あまりに俺がマイペースだったので、見かねた親父が『合格体験記』なる書物を買い与えてくれた。

面白かったので何遍も読み返した。気に入ったのが、学生時代は勉強もせずインド哲学などを学んでいたが二浪で超有名私立大学に合格した人物のケースだった。


 彼の場合は人間性が特殊すぎて、勉強法を真似た所で、自分が同じ道をたどれるとは思えなかった。

自宅でそればかり読んでいたら、早速まゆみにたしなめられた。


「人の真似はしないで、自分の計画を進めたらどうなの」


 妙子に言われたので、アリバイ的な計画表を立てていたのだが、進捗状況は芳しくなかった。

真弓が背後に立つ時間が長くなっていく。

俺にとっては過干渉なまゆみも、プロレスの時間には開放してくれるので、その甘さが有難かった。

 勉強しない俺をとっちめそうなのは親ぐらいだった。その親も妙に大人しい。もしかすると諦めているのかもしれない。そんな不安がよぎる。過剰に放任主義なのか、甘やかしているだけなのか、本来そこで不気味に思い気を引き締めるのがあるべき受験生の姿なのだろうが、俺は楽観視し過ぎていた。


 おおっぴらには買えなかったが、漫画の単行本を別室に隠して、息抜きと称しては貪るように読んだ。

当時としては珍しい新米ママの出産と育児をテーマにした作品だった。

なぜ、その作品を選んだのかわからない。たまたま週刊誌で取り上げられていたせいだと思う。

 友人もいなかった俺は体験を共有したくて、自分の母親に少女漫画を勧めていた。


「母さん、この漫画読んでみない」

「何を言ってるんだい」

「子育ての漫画だよ、面白いから読んでみてよ」

「そんな馬鹿なことを言ってないで、勉強しなさい」

その漫画作品には、わずかながらベッドシーンまであった。過激なシーンを思い出し、母に見せなかった安堵感と気恥ずかしさにとらわれた記憶がある。

 

 残念ながら、まゆみも妙子も自分とは違う感想を述べることはできない。

少女漫画を読んだ経験は、ここにいる誰とも共有はされないのだ。

頭の中にしかいない友人の限界だった。


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