4月。まだ何も始まっていない
新緑は、まだ遠く枯れたように見える木立が街を彩っていた。枯草を突き破り雑草だけが元気に芽吹いている。雪が溶け黒く濡れたアスファルトが顔を出し、春の到来を待ちわびている。
アスファルトと砂利を踏みしめて、去年も通った予備校の門をくぐる。
二年目の教室、だが四月と言うこともあって焦りはなかった。
先の見通しのなさが、自分を去年苦しめたことをすっかりと忘れている。
頭の中は、深夜放送のギャグと購入していた漫画作品の続きで占められていた。
頭の中の友達は、予備校には連れて行けない設定なので、基本的に一人で行動している。
一人で授業を受け、一人で昼食を食べ、一人で自習室にこもり、一人で帰宅する。
歩いて最寄り駅まで向かうが、暇なので脳内でもう一人の誰かと会話している。
「学校の横にうんていがあったよな」
「おお、カラフルな奴がな」
「上に登って落っこちる奴いたな」
一人あったあったネタを振ると、脳内の誰かが大笑いしていた。ウケがいい。
良く見かける喫茶店があり、入ろうかどうか迷うが、新しいことはなるべくしたくないので素通りした。抹茶を少し乾かして色を飛ばしたような壁に夜のネオンのための電飾が細かく張り巡らされていた古い喫茶店。ここに入ることは一生ないだろうなと思う。
電車に乗って帰宅する。車窓も見あきているので、プロレスの今後について考える。
単語帳やテキストは一切見ない。電車の中で物を覚えたことがないからだ。
自宅に着くまでずっと一人。
母親を素通りして、自室へ行くと敷島妙子がいた。白のブラウスに水色のデニム調のスカートで立っていた。栗色のロングヘアで前髪は眉毛の上で切りそろえている。
「計画は立てた」
「いや、まだ時間はある」
「そう」
妙子はそっけない。俺は机に坐ると、プロレスの星取表を書き始めた。
こちらが遊ぼうが怠けようが、彼女は干渉したりはしない。
扱いやすい相手だから、俺は妙子の方が好きなのかもしれない。
星取表に飽きると、アリバイ的な勉強を始める。
中学の頃は勉強ができたのだが、高校に入ってからは記憶するのが苦手になり、トップだった成績はたちまちのうちにビリに近くなった。
かって、勉強しなくても覚えられていたものが、どんなに努力しても頭に定着しなくなった。
その代り、プロレスや漫画の知識はブラックホールに星が吸い込まれるようにいくらでも積み重ねが効いた。
主要科目がまったくできなくなり、歴史や保健体育の点数ばかりが良くなった。
完全な劣等生になり高校を卒業。
なぜ、急に勉強ができなくなったのかがわからない。
今から、どう立て直していいのか見当もつかない。
薄い参考書を繰り返し問題を解くが、同じ所でつまづく。
いくらやっても先が見えてこない。
計画も立ててみるが、どのように配分するか、先の先までスケジュールを組むことができない。
一年分の勉強量を月単位に落とし込むことができない。
妙子はやさしく見守っているだけ。
去年と変わらない学力の俺がいて、なぜ「やればできる」と楽観視していられるのかが謎だった。