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シリアスランナー

作者: 醉鏡

以前投降したものを再投稿しました。


   1


 パン。

 スターターピストルの乾いた音が、栃の花の優しい香りが漂う並木道に響き渡った。

 それを合図に、色とりどりのウェアに身を包んだ五百人ほどランナーたちが地響きを立ててスタートを切る。毎年恒例になっている青葉市市民ハーフマラソン大会のスタートだ。

 参加者の多いマラソン大会なら全員がスタートラインを通過するまでするまで二十分ほどかかることもあるらしいが、比較的マイナーなこのレースではそんなことはあるはずもない。ほんの数秒でスタートを終えたランナーたちが、ほぼスタート順を維持したまま大きな集団を作りあげる。先頭付近を固めるのは、ゼッケンナンバーが一桁の招待選手、その後ろにはナンバー二桁の陸連(陸上競技連盟)登録選手、そしてさらに後ろにナンバー三桁の一般ランナーが続く。

 密集した集団の中、西風舘琴花(ならいだてことか)は思うような位置どりができずじりじりとした焦りを感じていた。

 まわりを他の選手に囲まれていて、なかなか前に出られない。

 中学時代からのライバル、歌書珠子(うたがきたまこ)はすでに前から二、三番手につけている。スタート位置が違ったのだ。ともに高体連(高等学校体育連盟)をとおして陸連に登録しているものの、去年あたりからめきめきと力をつけ高校の競技会などでは負け知らず、タイムも県記録を次々に塗りかえている珠子は、有力選手として推薦を受けたこともあって招待選手のすぐ後ろからのスタートだった。くらべて琴花のゼッケンナンバーは二桁台とはいえ三桁に近い九十番台。当然スタートもそれに見合った場所からだ。みなが少しでもよい位置につけたいのだから、スタートで順位を上げるは容易なことではない。まして今年は地元出身の有名ランナー、舞沢京子(まいさわきょうこ)が出場している。歳は三十代後半にさしかかっており、競技者としてのピークはすぎているものの、依然としてフルマラソンの大会でも常に上位に顔を出しているし、都道府県対抗駅伝では代表をつとめている。また、その積極的な走りやインタビューでの人あたりのよさは常にファンを魅了してやまない。少しでも彼女の近くで走りたいという願望は出場者の誰しもが持っていることだろう。

 レースはかなり速いペースで進んでいる。

 コース前半は平坦で起伏に乏しいことに加えて緩やかに吹く風を背中に受けていることがその原因であろうが、やはり舞沢京子がレースを引っぱっていることの影響が大きいに違いあるまい。

 琴花はまわりのランナーに意識を向けた。誰のものとも判別のつかない幾つもの息づかいが聞こえてくる。多くは規則正しいリズムを刻んでいるが、早くも呼吸を乱しているものもいるようだ。当然だろう。このペースは誰にとってもオーバーペースといえる。舞沢京子のねらいは、早い段階で選手たちをふるいにかけることか。事実、後の一般ランナーたちは徐々に離れつつあるようだ。おそらく、焦らずとも近いうちに先頭集団もばらけるに違いない。そのときこそ珠子に追いつくときだ。そう自分に言い聞かせた。

 日本のトップランナー、舞沢京子に勝てるとは思っていない。

 だが。珠子には負けたくない。負けるわけにはいかないのだ。絶対に。

 琴花は前方に見え隠れする珠子の背中を睨めつけた。

 思いの根元となる出来事が、脳裏に浮かんだ。


   2


 天候不順で開花の遅れた桜も、今はもうすっかり散ってしまっていた。

 葉桜も嫌いではないが、やはり満開の桜の下を走り抜ける快感にはかなうはずもない。もっとも、桜の花粉にアレルギーをもっていた中学時代の陸上部仲間などは、桜が散るのを心待ちにしていたものだが。

 琴花は移りゆく季節にいくぶんの寂しさを感じつつ、路面に映った影で自分のフォームを確認する。影は長い。いつものコースをいつもの時間にいつものペースでゆったりと走る早朝自主トレーニングだけに、影の長さでも季節を感じることができるのだ。

 高校生として最後の市民ハーフマラソン大会を十日後に控え、琴花の心は弾んでいた。

 昨年後半から採り入れた走法が琴花にあっているらしく、校内での計測ではあるもののタイムがどんどん縮まっているのだ。今度の大会での自己ベスト更新は間違いないだろう。

 それに、今履いている靴がお年玉をはたいたオーダーシューズだということもある。履き心地も違うし、色もデザインも完璧に琴花の好みにあわせてある。

 そしてなにより。今回の大会にはあの舞沢京子(まいさわきょうこ)が出場するのだから。

 今年の青葉市市民ハーフマラソン大会は第十回の記念大会である。その目玉として招待されたのが日本のトップランナー、舞沢だ。

 例年同じ時期に、よそで大きな大会があることから力のある選手はほとんどそちらに出場する。こちらの大会に出場するのはむこうの大会では上位をねらえない選手、悪くいえば二流どころがほとんどということになる。

 もっとも、一流どころがこちらを避けるのは、後半に激しいアップダウンがあるこちらのコースでは記録をねらいにくいということもあるのかもしれないが。

 いずれにしても、高校生である琴花がトップレベルの選手と一緒に走ることができることなど滅多にあることではない。たとえ最後までついていくことができなくとも、一分でも一秒でも長くトップランナーのペースを味わってみたかった。幸いコンディションづくりも計画どおりでのぼり調子だ。大会当日に体調を崩すこともあるまい。

 ともすれば際限なく上がってしまいそうなペースを必死に抑える。朝のトレーニングは身体を追いこむためのものではなく、目覚めさせるためのもの。ゆっくり、心拍数を上げすぎずに一時間ほどジョギングをすると、眠気も、そして疲れもすっきりと抜けていくような気がするのだ。だいいち、これをするとしないとで放課後走りこみをするときの身体の軽さが違ってくる。もちろん単なる思いこみという可能性もあるが、実際、朝走らなかった日はタイムがよくないことが多いから、思いこみにすぎないとしてもそれはそれで意味があることだと思う。

 琴花は道をそれ、家の近くの小高い公園の階段をのぼった。

 仕上げのストレッチをするためだ。トレーニングの前後にストレッチをすることはある意味走る以上に重要なことで、欠かすことはできない。身体の柔軟性をあげることでけがも防げるし、フォームもきれいになる。また、疲労の回復にもいい。なにより、トレーニングをはじめる、あるいは終えるときに身体と心を切り替える合図となる。

 歩くようなスピードでジャングルジムの前までいき、大きく深呼吸。ここがストレッチをするためのお気に入りの場所だった。縦横に走る鉄の棒が、ストレッチをするための補助用具にちょうどよいのだ。

 が、その前に。

 いつものようにするするとジャングルジムをのぼり、てっぺんに座った。べつにトレーニングの一環というわけではない。朝のトレーニングをはじめた頃、なんとなくのぼってみたら思いのほか気分がよくて癖になってしまったのだ。高校生にもなって、しかも女の子がジャングルジムをのぼるなんてなかなかできることではないだろう。早朝、誰もいない公園だからこそできることだ。

 琴花は朝日のまぶしさに目を細めつつ、うー、と声を上げながら大きくのびをした。

 そのときだった。

「琴花」

 誰もいないと思っていた公園の中から、声がかかった。女の子の声だ。しかも自分を知っているらしい。思わず琴花は顔をあからめ、きょろきょろとあたりを見まわす。

「こっちだ。おまえの右下」

 ――この声――

 自分を呼ばわる、感情を抑えたような、どこか相手を威圧するこの話し方には聞き覚えがあった。

 視線を声のした方向におくる。

 ジャングルジムの右手にあるベンチで、声のぬしは堂々と足を組んでこちらを見つめていた。

 慌てる必要はないと思うのだが、それでもあたふたとジャングルジムをおりる。

「おはよう歌書(うたがき)さん。こんなところで会うなんてめずらしいね」

 中学で陸上部に入部してまもない頃から走り続けているこのトレーニングコースでライバル、歌書珠子(うたがきたまこ)を見かけるのはこれがはじめてのことだった。いや、そもそも競技会などのレース以外で顔をあわせたことなどなかったはずだ。同じ市内に住んでいるとはいえ、住んでいる場所も通っている学校も離れているからで、べつに避けていたわけではない。むしろ、中学一年の新人戦で相手を意識してからは互いを認めあい、ライバルと公言してきた。もっとも、高校に入ってからは記録でも優勝回数でもすっかり差をつけられてしまったから、琴花にとってはもう珠子をライバルと呼ぶなど少々おこがましくはある。

「ああ。普段はこっちに来ないからな」

 ベンチに座ったまま、朝の挨拶もなく珠子が答えた。つっけんどんなところがいかにも彼女らしい。こういう態度を嫌う人間も少なくないが、琴花はなぜかはじめてあったときから好感を覚えたものだ。

「気分転換?」

「そんなところだ」

 めずらしいな、と思った。

 珠子でも気分を変えることがあるのだろうか、と。一度決めたら迷うことがないのが珠子なのだから。

 たとえばウェアの色にしろメーカーにしろ、流行りに左右されず、昔からずっと同じものを使い続けている。レース中もそうだ。まわりがどんな仕掛けをしようとも影響などされない。他の選手に先行を許したとしても自分のペースをまもり続ける。もっともよいタイムを出すために必要なペースを。珠子にとってまわりの選手などただのエキストラにすぎない。常にゴールだけを見ているのだ。まるでたったひとりでレースをしているかのように。自分がベストなタイムを出せば当然優勝するものだと信じているのだろう。

 その珠子が気分転換などにわかには信じることができなかったし、冗談で言ったつもりのその言葉を認めること自体不思議に思えた。いつもの珠子となにか違っている。

 ひょっとしたら珠子は調子を落としていて、今度のレースに向けてこちらの様子を探りにでも来たのだろうか。あるいは心理戦でも仕掛けに来たか。

 そこでふと気づく。

 むこうが座っていてこちらが立っている状況は、なんだか格下扱いされている風に思えなくもない。考えすぎのような気もするが、急いで、でもそれを気取らせぬよう珠子の隣(ただし人ひとり分くらいのスペースを空けて)に座り、堂々と足を組む。ランニングパンツから出ている太ももの裏が、ベンチの冷たさを感じる。春とはいえ、早朝はまだ冷えるのだ。さっきまで走っていたから忘れていたが。

 珠子がきょとんとした顔をこちらに向ける。頭の高い位置で結われた艶やかな黒髪が、動揺を表すかのように小刻みに揺れた。してやったりといったところか。

 と、思ったのは早とちりだった。

「琴花、身体が冷えるぞ」

 珠子はまじめな顔でそう告げると、立ち上がってストレッチをはじめた。琴花も慌ててそれに続く。

「歌書さんだって同じじゃない」

「わたしは今日は少し厚着してきたから問題ない」

 言われてみれば、Tシャツにアームウォーマー、そしてランニングタイツの琴花と違って珠子は上下少し厚手のジャージを着込んでいる。なるほど身体は冷えにくいだろうが、あれでは走っているうちに少し暑くなるのではないだろうか。

「ジャージだと走ってて暑くない?」

「ああ。ちょっとな。でも今日はあまりやる気が出なかったから、トレーニングというより散歩のつもりだったんだ」

「どこか調子でも悪いの?」

 べつに探りを入れたわけではない。本気で心配になったのだ。珠子とは互いによいコンディションで勝負したかった。

「いや、このところ少し忙しかったし。三年になってからキャプテンを任されたからな」

「そう。大変ね」

 よく見ると珠子の顔色は若干青白く見えた。もっとも、気のせいと言われればそうかもしれないと思う程度ではあるのだが。

「他人事みたいだな。琴花はキャプテンにならなかったのか? 実力でいえば当然琴花だろう?」

 まあ、実力だけで考えればそういうことになる。ただし、琴花の学校は珠子のところのようにスポーツの名門校ではないから、力のある競技者が少ないせいもあるが。

「え? あたし? 無理無理。部をまとめていくなんてできないよ。人望ないから。そういうの得意な子がいるから、その子にすんなり決まったよ」

「そうなのか。ずるいな。ハンデをつけられたようなもんだ」

「もう。ずるくはないでしょ」

 苦笑いをしながら抗議する。もちろん本気ではない。ないのだが。

 珠子が深々と頭を下げた。

「あ、いや……すまない。悪かった。冗談のつもりだったんだ」

「や、やだ。わたしだって冗談よ?」

 うろたえたように弁明する珠子の様子に、琴花も慌てる。確かにアスリート同士で「ずるい」は最大の侮辱の言葉のひとつといえるが、それほど強い調子で咎めたつもりはない。互いに会話のペースをつかみかねている感じだ。レースなら、走るリズムや息づかいなどで相手のコンディションは正確に推し量ることができるというのに。一緒に走ることは多くても、雑談をすることなどはあまりなかったせいだろうか。とはいえそれは仕方あるまい。ランナーにとって最良の会話とは一緒に走ることなのだから。

 このまま二人で走りに行きたい気もするが、平日で学校があるからそんな時間はない。

 それゆえ琴花は次の「会話」の機会、つまり青葉市市民ハーフマラソン大会のことに話題を変える。

「ねえ。今度のレース、ゼッケンは何番?」

「え? ああ……十三番だ」

「十三番? すごいじゃない。じゃあ、舞沢京子の近くでスタートできるね」

「琴花は何番なんだ?」

「九十六番よ……ずいぶん差をつけられちゃったな。でも、頑張って少しでもあなたや舞沢京子の近くを走ってレースを楽しまなくちゃね」

 ショックだった。彼我の力に差があることはわかっていたことだが、あらためて数字として突きつけられるとその差の大きさを思い知らされる。

 つとめてそれを顔に出さぬよう気をつけたつもりだったが、そうはいかなかったようだ。

「すまない。ずるいのはわたしのほうだ」

「な、なに言ってるのよ。ゼッケンナンバーは過去の成績で決まるんでしょ。歌書さんの力が評価されたのよ」

 言いながらも、琴花が感じているのは珠子のすごさよりも、自らのみじめさだった。そして。さらにみじめに思えるのが、相手に気を遣わせてしまうことだ。

「いや……たぶんごり押しだよ。うちの監督はあちこちに強い影響力を持っているし、性格も強引だから誰も逆らえないんだ。もちろん、わたしもだけど」

「ううん。歌書さんは強いもの。監督なんて関係ない。あたしはずっと一緒に走ってきたから、歌書さんの力をいちばん知ってるわ。自分を過小評価しちゃダメよ」

 最後の言葉は、珠子に対しての言葉ではあるものの、自分を鼓舞するために我知らずでてきたものかもしれない。

「琴花……」

 ――自分も琴花の力をいちばん知っている――

 とは珠子も言いにくかろう。力の差があることを知っているという意味になるのだから。

「歌書さん、そろそろ戻らないと学校に遅れるよ」

 唐突に話題を変える。いたたまれなくなったのだ。早く家に帰って熱いシャワーを浴びてすべてを洗い流したかった。

「ああ。そうだな。ただ、琴花」

「なに」

「おまえはわたしをいちばん知ってるかもしれないが、すべてを知ってるわけじゃない」

「どういうこと?」

「過大評価しすぎだ」

 意味をつかめず呆然とする琴花を置き去りにして、珠子は公園の階段をかけおりていく。別れの挨拶をする暇すら与えてもらえなかった。

 珠子がなぜそんな言葉を言い置いたのかはわからない。けれど琴花はとりあえずひとりになることができてほっとしていた。全身の力がすっかり抜けてしまったかのようだ。ふらふらと、操り人形のようにぎこちなく先ほどのベンチに腰をおろす。

 と。

 手に触れたものがある。

 ポケットに入るくらいの大きさの黒いポーチだった。T・Uのイニシャルが縫いとられている。おそらく珠子のものだろう。

(走ること以外では、抜けているところもあるのね)

 放課後にでもトレーニングがてら届けにいこうと思い、手に取る。すると、ポーチはジッパーが開いていてわずかに中に入っているものの姿がのぞいていた。

 それは、ランナーの持ちものとしてはふさわしくない、持っているべきではないたぐいのものだった。


 校舎の屋上から吊されたいくつもの垂れ幕が、睥睨するかのように自分を見下ろしていた。琴花は真正面から力いっぱいにらみ返す。目をそらせば負けのような気がしたのだ。風が吹くたびインターハイ上位入賞や甲子園出場の文字が揺れて自分をあざ笑っているように見えた。

 琴花はTシャツとランニングパンツ姿で県内随一のスポーツ名門校、秀和学院(しゅうわがくいん)高等学校の正門前に立っている。珠子の通う学校だ。

 手には黒いポーチ。

 朝決めたとおり、授業が終わって着替えるとすぐに珠子の忘れものを届けに来たのだ。すでに校門の近くにいた生徒に取り次ぎを頼んでいる。忘れものを届けに来たと話したら預かって珠子に渡すと言ってくれたが、大切なものだから直接渡したいと丁寧に断った。

 手の中のポーチを見つめる。

 これが本当に珠子のものかどうか確かめたかった。

 こんなものが、たまたまあそこにあるなんて思えない。けれど珠子の口からはっきりと否定して欲しい、そういう思いもきわめて強いのだ。ずっとずっと、自分が誰よりも認めてきた、認めて欲しいと思ってきた相手なのだから。

 そろそろ汗が引き始めていたが、手のひらはいまだ汗ばんでいる。それほど自覚はなかったが緊張しているようだ。ポーチを汗まみれにしてしまうことを躊躇い、両手をランニングパンツに擦りつけて拭う。もっとも、ここまで走ってきたのだからウェアは上下汗でぬれているし、ずっと手に持ってきたポーチもとっくに湿っているようだからあまり意味はないのかもしれないが。

 そのうえで、胸がはち切れるほど大きく息を吸い込み、そして内臓ごと吐き出してしまうのではないかと思うほど絞り出す。緊張をほぐしておきたかった。感じたのだ。歌書珠子を。

 ――来た。すぐ近くまで――

 その感覚に従い、濃密な彼女の気配がする方向に、強い視線をおくる。

 その視線に動じることなく、ゆっくりと、一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと歩いてくる珠子の姿が目に入った。


 二十人程度だろうか。

 不揃いのトレーニングウェアを着た女子高生の集団を追い抜いた。

 先頭を走る生徒のジャージに入れられた校名のマーキングから秀和学院の運動部員だとわかるが、少なくとも陸上部の生徒ではないだろう。フォームに無駄が多い。

「ラクロス部の新入生だな。先頭だけは引率の上級生だと思うが」

 琴花の考えていることがわかったのだろうか。珠子がまるでひとりごとのように言った。

 琴花は前を向き、珠子の背中を見つめる。上下動がまったくない、理想的なフォームだ。

 ――少し走りにいこう――

 ポーチを渡すと、琴花が中身のことを問い詰めようとする暇を与えず、珠子がそう告げた。その誘いに応じてあとをついてきたのだが、もう三十分以上走っている。もちろん長距離ランナーにとっては「まだ三十分」ではあるのだが、聞きたいことがあるせいかとても長く感じられた。

 さらに走り続けること十分ほど。小高い丘の上にある無人の神社でようやく二人は走るのをやめた。ストレッチをしながら心拍数を落とす。

 一緒に走ることがランナーにとって最良の会話であると思っていたのだが、走っている間ずっと見つめていた珠子の背中は、琴花になにも語ってはくれなかった。

 そして今も、珠子は黙々と身体の筋をのばしている。

 たまらず、琴花は切り出した。

「そのポーチ、本当に歌書さんのなのね?」

 珠子の動きが止まる。驚いた、というよりはこちらが口を開くのを待っていたようにも見えた。

「中を見たのか?」

「ええ。注射器と、なにかのアンプル? が入ってたわ」

「そうか」

 珠子はただ淡々と答える。琴花はそれが苛立たしかった。

「どこか悪いの?」

「いや、どこも」

「じゃあ、それはなんに使うのよ」

 不気味に笑って、珠子が答える。

「血液中の赤血球量を増やすために使うんだよ」

「な……」

 思わず声を失う。

 予想した答えではあった。けれど、それを隠そうともしない珠子の態度が信じられなかった。

「なんでそんなものを」

「知らないわけじゃないだろう。赤血球の量が増えれば、当然体内に供給される酸素の量も増える。つまり持久力が向上するわけだ」

「そんなこと言ってるんじゃないわ! ドーピングなんて、そんなずるいことをしてまで勝ちたいのかって聞いてるのよ!」

「琴花、おまえはなんのために走るんだ?」

「あ、あたしは……走るのが楽しいから走るのよ。努力して、タイムを縮めて、そして……自分自身の力でライバルに勝つ。だからこそ自分に満足できるんでしょう?」

「負けたら?」

「ま、負けたとしても……全力を尽くしたのなら……」

「悔しくないか。立派な心がけだな。だけど……」

 そこでいったん言葉を切ると、珠子は突然琴花の胸ぐらをつかみあげ、近くの欅の大木に押しつけてきた。そして、それまでと違ってドスのきいた声で言葉を投げつけてくる。

「それじゃ趣味にすぎない。おまえはただのファンランナーだ。けどわたしは違う。シリアスランナーだ。学校に特待生として扱われる責任がある。勝たなくちゃいけないんだよ。勝って名を売って名門大学か実業団に入って最終的には世界を目指す義務がある。楽しいだの満足だの言っていられないのさ」

 琴花は珠子の前腕に首を圧迫されながら、息も絶え絶えに言葉を吐く。

「それが……なに……よ」

「わたしは次のレースで舞沢京子に勝つ。たとえどんな手を使っても。それがわたしに課せられた使命だ」

 珠子は琴花をはなすとくるりと背を向けた。

 なにか言い返そうにも、琴花は咳き込んで言葉を発することができない。

 それをあざ笑うかのように、珠子は黒いポーチを掲げ、見せつける。

「琴花、これを返したのは失敗だったな。とっとと高体連か陸連に持っていけばわたしは処分を受けることになっただろうに」

 さらに、懸命に呼吸を整える琴花に向かって、珠子は言い放つ。

「わたしのことは忘れろ。もうおまえとは住む世界が違うんだ」

 思考が、停止した。いや、激しい感情が、理性を塗りつぶしてしまったのかもしれない。

「珠子ぉぉ」

 必死の思いで声を絞り出す。

 我知らず、その言葉は琴花の口からこぼれ出ていた。

「負けない。あたしは負けない。あなたにも、舞沢京子にも、自分の力で勝ってみせる」

 珠子は、振り向くことなく視線だけを琴花に向けた。

「楽しみにしてる」

 走り出した珠子を、琴花はただ見送ることしかできなかった。嗚咽とともに、やり場のない感情を吐き出しながら。


***


 珠子はふり返ることができなかった。

 気迫に圧倒されて。

 かろうじて向けることができた目が、琴花の怒りに燃える瞳を捉えることができた。

 怖い。とても怖い目だ。琴花がこんな目をするなんて、思っても見なかった。ただ、それを差し引いたとしても、とてもまっすぐ見据えることなどできない。

 わかっていたからだ。自分が間違っていることぐらい。

 悪役らしく、捨て台詞を残して走り出す。逃げるように。

「楽しみにしてる」

 なにを楽しみにするのだろう。

 もしかしたら自分が負けることか。確かに。自分はそれを望んでいるのかもしれない。

 珠子はめちゃくちゃなフォームで丘の麓へとかけおりる。負担のかかる下りでは膝を痛めるかもしれないというのに。

 どうして。

 ――どうしてわたしを告発してくれなかったの、琴花――

 まさか琴花がポーチを返しに来るとは思わなかった。生真面目な琴花がルール違反を見逃すはずはない。ドーピングの証拠としてしかるべきところに届け出てくれると思いこんでいた。いや、思いこもうとしていた。琴花に甘えていたのだ。すべてを押しつけようとしたのだ。本当なら、自分でケリをつけなければならないことを。

 ――わたしは、ずるい――

 珠子は心の中で自分を苛みながら、目に見えぬなにかから逃げるかのように我を忘れて走り続けた。


「いったいどこにいっていた? 歌書。おまえに遊んでいる暇はないはずだぞ」

 学校に戻った珠子を待っていたのは、陸上部コーチ、角永徳文(かくながのりふみ)の叱責の言葉だった。静かな口調だが、めがねの奥の眼光には有無を言わせぬ圧力がある。

「すみません。アップダウンのあるところを走りたかったので、外にいっていました」

「おまえのトレーニングはすべて市民ハーフマラソンに向けて計画を立ててある。予定にないトレーニングをするな」

「わかりました」

「わかったらさっさとグラウンドへいけ。今日はトラックで軽めに流して充分にストレッチだ」

 あごでグラウンドを指す角永に一礼し、いったん部室に向かおうとしたところで呼び止められる。

「待て」

「はい」

「その手に持っているのはまさか……あれじゃあるまいな?」

 言われるまで忘れていた。ポーチをしっかり握りしめる。

「いえ。これは生理用品です。外にいったついでに家に寄ってきました」

 慌てていたわりにはすらすらと嘘が出た。これならまさか中身を見せろとはいえまい。

 今度は逆に、角永が慌てる番だ。

「そ、そうか。すまない。あれは誰かに見られるとまずいものだから、つい気になってな。ところで、そっちは順調なのか?」

「はい、大会当日にくることはありません」

「あ、ああ。それはなによりだ。コンディションがなにより大切だからな。充分気をつけるように」

「わかっています」

「ならいい。忘れるな。おまえはもう自分だけで走っているんじゃない。学校すべてを背負って走っているんだ。免除されている授業料も、もらっている奨学金も、使っているトレーニング設備もすべて学校のもの、それはつまり学校に通っている生徒や卒業生全員ののものということだ。恩返しのために、必ず舞沢京子に勝て。今回あれを使うのは、そのためなんだからな」

 珠子は目を伏せ、弱々しく答える。

「わかって……います」

 ドーピングに手を染めた理由は、角永の強圧的な指示のせいばかりではない。学校の期待に応える必要があったからだ。

 早くに両親を亡くして独身の叔母の家で世話になっている珠子が私立の名門、秀和学院に入って陸上を続けるためには、特待生になるしかなかった。特待生であり続けるためには勝ち続けるしかなかった。そして今度は舞沢京子に勝つことで、学校の広告塔にならなければならない。そのためには角永の指示に従うほかなかったのだ。とはいえそれはいいわけにしかなるまい。自分が弱かった。それがいちばんの理由なのだから。

「ふむ。ところで……」

 角永の目が不気味に光る。は虫類を連想させるような、ねっとりとした光だ。

「青葉高の西風舘(ならいだて)が来たそうだな。なにをしに来た?」

 思わず息を呑んだ。が、それが顔に出ぬよう必死でこらえる。

「今度のレースに舞沢京子が出るから嬉しいとか、一緒に頑張ろうとか、そんなことを言ってました」

 突如角永が吹き出す。

「一緒に頑張る? 一緒には頑張れんだろう。あの程度の実力では。おまえの背中をはるか後方から眺めるのが精一杯といったところだ」

 珠子の頭の中に、朝の公園で楽しそうにトレーニングする琴花の顔が浮かんだ。怒りに我を忘れて「あたしは負けない」と叫んだ顔が浮かんだ。

 無意識に奥歯をぎりぎりと噛みしめていた。

「中学の頃はライバルだったかもしれんが、しょせん今はその他大勢のひとりにすぎん。あいつもうちに来れば少しはマシになったのにな。おおかた偵察にでも来たんだろう。もうそんなのは相手にするな」

「あいつは……琴花は、コーチが思っているほど弱くありません。わたしが勝ったどのレースでも、最後まで食らいついてきたのは琴花だ。簡単に勝てる相手じゃない」

「ほう」

 さも興味深そうに、角永が見つめてくる。

「だが、高校に入ってからは、おまえはあいつに負けてないんじゃないのか? 成績は実力を正確に現しているだろう」

「数字の問題じゃありません。あいつはわたしにないものを持っていますから」

「おまえにないもの?」

 角永の目をしっかりと見据える。

「あいつは走ることが本気で好きなんです」

 少し間をあけて、角永が呟く。

「おまえは、走ることが嫌いか」

「今は……好きか嫌いかわかりません」

「では勝つことを好きになれ。勝つために走れ。おまえは勝たなくてはならないのだから」

 さらに粘度をまして、にちゃにちゃと珠子の心に絡みついてくるような角永の眼光を、気力で押し返す。

 怖くない。この目は怖くなどない。あの、琴花に目にくらべれば。

 珠子は静かに言葉を発する。

「無心で走ります」

 角永は表情を変えずに、しばらく無言で珠子を見つめていた。

 珠子もそれ以後は口を開かない。

 永遠にその状態が続くのではないかと思われた。

 が、折良くマネージャーの杠夏美(ゆずりはなつみ)が来て角永に声をかける。杠はちらりとこちらを向いたが、すぐに目をそらした。あまり好かれてはいない。もともとは珠子と同じ長距離競技の選手だったが、角永の指示に従わなかったために今は走ることを許されず、マネージャーをやらされている同級生だ。確か中学は琴花と同じだったはず。

「コーチ、投擲競技の連中がウェイトトレーニングの指導をお願いしたいと言ってます」

 杠の言葉に、無言でうなずいてきびすを返すと、歌書、よい答えだ、と言い残して角永はグラウンドのほうへ去った。

 珠子はひとつ大きく深呼吸する。

 心臓が、まるでラストスパートでもしたかのようにのように早い鼓動を刻んでいた。背中にはびっしょりと汗をかいていた。今になってその冷たさを感じる。

 それでも、満足していた。たとえ禁止薬物で身を汚されようと、走る機械のように扱われようと、守り抜くべき最後の砦を死守したような気がした。

 角永への恐怖心が霧散していく。

 だが、角永には力がある。

 親類に町の有力者がいるし、昔はそれなりに知られたランナーだったから高体連にも陸連にも顔が利くと自分では言っている。

 琴花を校内に入れなくてよかった。珠子はそう思ってほっとした。角永の話が本当ならドーピングに気づいた琴花をそのままにしておくはずはないだろう。大人の汚い力を使って琴花になにか圧力をかけるに違いない。

 そもそも、琴花を巻き込んだこと自体間違いだったのだ。

 珠子は自分を責める。

 もう琴花と同じ世界には住めない。琴花と同じ道を走れない。この、汚れた世界に足を踏み入れてしまった以上は。

 手の中にある自分を汚す存在の重さを身体全体で感じながら、珠子は部室に向かってとぼとぼと歩き出した。


***


 神社の境内から道路へと続く石段に腰掛けながら、琴花は身動きひとつせずに丘の麓の町を眺めていた。

 夕日がほんの申し訳程度に町を照らしている。日暮れはもうまもなくだろう。高い木々に囲まれた境内は、すでに宵闇のにおいが濃く漂っている。

 身体はすっかり冷え切っていて、それにつられたものか、激しく滾っていた感情も同じようにほとぼりを残す程度に温度を下げつつあった。

 しかし、やにわに走り去っていく珠子の背中を思い出し、石でも投げつけたい衝動に駆られて足もとにあった小石を拾い上げるが、自制する。理性か、プライドか。心の片隅に追いやられてしまったなにかが、琴花を必死におしとどめた。

 高校に入ってから差をつけられたのは、実力ではなかったのだ。珠子は不当な手段を使って、勝ち続けてきたのだ。

 裏切られた。信じていたのに。

 喪失感のようなものとともに、熾火のような感情が琴花の心の中を静かに熱している。

 許せない。ずるをした人間が勝ち、賞賛されることなど、許さない。許されるはずがない。

 強く、ぎりりと音が聞こえるくらい強く手を握りしめ、その痛みに小石を持ったままだったことに気づく。物言わぬ小石が己の不条理な扱いに抗議しているようだった。それを受け入れ、小石をもともとあった場所に丁寧に戻す。

 琴花はゆっくりと、全身の隅々にまで力が行き渡るのを確かめながら立ち上がった。

 ――勝つ――

 心は決まった。

 そう。勝つのだ。

 自分は今、自分にあったフォームを見つけてのぼり調子にある。今までの自分とは違うのだ。たとえ相手が不正を行おうと、力でそれをねじ伏せてみせる。

 もう一度、心を決める。

 ――勝つ。必ず――

 声には出さない。

 本当に実現したい思いは胸に秘めるものだ。

 叫ぶかわりに、琴花は力強く足を踏み出した。



 レースがスタートしてまもなく三十分が経過しようとしている。

 スタート直後は密集していたランナーたちも今はだいぶばらけ、琴花(ことか)を含む七名程度の第二集団の前には舞沢京子(まいさわきょうこ)ら招待選手や珠子(たまこ)など五名ほどで構成される先頭集団がいるだけだ。差は五秒もあるまい。距離にして二十メートルくらいだろう。後ろは集団らしい集団は見られず、一人か二人琴花から確認できる程度の位置にいるが、次第に離れつつある。

 できることなら琴花も先頭集団に入りかったが、スタート位置が悪いためになかなか前に出られず、かなわなかった。正直つらい。前にいるのが自分より力の劣る相手ならともかく、舞沢や珠子に追いすがって差を縮めるのは容易なことではない。夏の道路を走っているときに見える、逃げ水みたいなものだ。追えば追うだけ逃げていく。

 あるいは。

 休むことを知らないウサギを追うカメのようなものか。

 しかし、自分はカメではない、と思い直す。よりによって自分をカメにたとえるとは、なんと弱気なことか。

 雑念を振り払い、琴花は自分のまわりの選手の様子を確認した。レースが速いペースで進んできただけに、みな息があがっている。今のペースを維持するので精一杯のようだ。というよりも、誰が脱落しても不思議ではない、そんなふうに見える。先頭集団を追い上げようと考えている選手はおそらく琴花を除けば誰もいないだろう。

 コースはまもなくアップダウンの大きな地点にさしかかる。まずは、のぼりだ。しかも、今は横風だがこのまま風向きが変わらなければ、風に向かって走ることになる。向かい風の中でののぼり坂。おそらく、この集団はペースを極端に落とすかバラバラに分解するに違いない。この集団にいるかぎり、前との差をつめるなど夢のまた夢と言えるだろう。

 ゴール前何キロ地点で舞沢や珠子がスパートするのか、わからない。けれど、その時点で二人のそばにいなければ、勝負を決める土俵にあがることすらできないのだ。

 決断するしかなかった。

 琴花は身体の中のギアを入れ替えたかのように、ペースをあげる。脚は最後までためておきたかったが仕方ない。

 すう、と滑るように集団から抜け出す。一人か二人、後ろにつこうとしたようだが気配はすぐに消えた。

 新しく採り入れた走法のおかげだろう。全身の力が無駄なく地面に伝わっているのがわかる。身体が軽い。

 前方を走る先頭集団との差は、じわりじわりとつまってくる。

 ――いける――

 その、琴花の思いに反応したのか、それとも果敢なアタックに対する声援か。沿道の観衆から歓声があがる。

 先頭集団が、ちょうど給水ポイントにかかろうとしているときだった。声援に驚いたのだろう。ちらりちらりと、琴花を確認してくる。もちろん、珠子も。その珠子と、目があった。

 結果的に、追走のタイミングがよかったと言えるのだろう。琴花を気にした先頭集団は、ボトルを取り落とすなど給水に手間取り、タイムをロスしたのだ。

 チャンスを無駄にするわけにはいかない。琴花は給水ポイントを素どおりして、先頭集団を追った。


   ***


 琴花の目がこちらをじっと見つめていた。

 獲物をねらう、鷹のような目だった。

 珠子の背中に、ぞくりと冷たい感覚が走る。

 ――無茶だ――

 追い風の中とはいえこれだけハイペースで進んできたのだ。誰もがオーバーペースと言っていい。それなのに、ここでスタミナを消耗してしまったらこの先控えているのぼり坂にどう対処するというのか。

 とっさに、給水所でボトルを取るふりをして舞沢の後ろ、ほかのランナーの前に割り込んだ。後続の三人は、それを避けようとしてボトルを倒したりよろけたりしてペースを落とす。

 ねらいどおりだ。のぼりに入る前に琴花をこの集団に吸収してしまいたかった。琴花の負担を少しでも減らしたかった。

 しかし、それはもちろん許されることではない。

 ほかのランナーから睨まれてしまった。

 口ではなにも言ってこないが、身体を寄せてきて肘をぶつけようとしたり、後から靴のかかとを踏みつけようと足をのばしてきたりする。因果応報。それを避けるために体力を使わねばならない。

 が、それはそれでいい。

 なおのことペースが落ちて、琴花の追い上げが短時間ですむのだから。もっとも、舞沢には少々先行を許してしまったが。

 と、そこまで考えて珠子は自分を嗤う。なぜそうまでして琴花のことを考えているのだろう。

 ドーピングという不正行為をしている自分が許せなくて負けようと思うのなら、肘打ちを受けるなり、靴を踏みつけられるなりしてけがをするか、したふりをして棄権すればいい。それならば、コーチも学校も負けたことを深く問い詰めはしないだろう。なにも、琴花の追い上げに力を貸す必要などないのだ。

 一瞬、本気でそれを実行に移そうかという衝動に駆られるが、思いとどまる。今自分が棄権したら、琴花の走る目的がなくなってしまうのではないかと心配したのだ。

 ますます、自分を嗤う。

 自分などいなくなっても、舞沢という目標もあるし、順位やタイムが目的になるではないか。

 けれど。

 珠子は思う。

 自分を倒すことが、今の琴花を突き動かす動機のひとつとなっているのなら、もう少し走らなければなるまい。

 それに。

 琴花と一緒に走りたかった。ほんの少しの間でもいいから。

 再び身体を寄せてくる気配を感じる。

 スピードを上げるか、それとも落とすか。あるいは横に逃げるか。逃げ方を考えたとき、先行していた舞沢がいつの間にかさがってきていて、珠子と身体を寄せてきた相手の間に入り込む。

 何事かと思った。

 確かにハイペースなレースだったが、舞沢に限ってはスタミナ切れで失速することなどあり得ない。世界のレベルを知るベテランが、自分のペースを見誤るはずがないのだから。

 不審の目を向ける珠子に、舞沢はミラーレンズのサングラスをはずし、目で前に出ろと促す。そのうえで、ほかのランナーにも目でなにか合図をおくっているようだ。一瞬意図がつかめなかったが、コースの前方を見て理解した。まもなくコースは右へと大きく回りこんでいく。のぼり坂にさしかかる前の最後の平坦な区間で、前に立って風よけになれと言っているのだ。それを条件に先ほど珠子がしでかした給水所での行為を帳消しにするようほかのランナーに提案したに違いない。つまりは、仲裁に入ってくれたのだ。

 珠子は舞沢たちに目礼をし、先頭に立った。

 さすが、と感服せざるを得ない。

 舞沢はただコースを走っているだけではないのだ。自分が目玉として呼ばれたことの責任を果たすため、レースを、いや、大会全体のことを考えている。見苦しい報復合戦が繰り広げられることを嫌ったに違いない。もちろん、自分はほかのランナーとは格が違うという自信から生じる余裕があってこそのことではあるだろうが。

 まあ、理由はどうあろうとありがたい。

 珠子はほくそ笑んだ。

 これで堂々とレースをコントロールできるのだから。

 琴花がペースアップしている今、一キロ当たりのスプリットタイムをほんの一、二秒ほど落とすだけで目的が達成できる。琴花をこの集団に吸収し、ゴール前まで体力を温存させるという目的を。


   ***


 追走を開始してほどなく、琴花は先頭集団の最後尾に張りついた。これで一息つくことができる。集団のペースが若干落ちたようだが、それがありがたかった。これからはじまるのぼりにそなえたのだろうか。なんにしても、平地のうちに追いつけたことは大きい。

 前のランナーの背に隠れるようにして風を避け、乱れた呼吸を整える。こちらものぼりにそなえなければならない。気温もだいぶ上がってきており、向かい風とあわせてより過酷なのぼりになることだろう。おそらくそこが勝負どころになるはずだ。

 琴花は前方を見据える。

 珠子が先頭を走っていた。あの、舞沢京子を抑えて。

 ――ずるをしているくせに――

 闘争心がめらめらと音を立てて燃え上がる。

 舞沢はなぜ珠子に先行を許しているのだろう。不調なのか、それともゴール前だけ本気を出す省エネレースをするつもりなのだろうか。なんとも歯痒い。一刻もはやく、珠子をトップから引きずりおろしたいと思った。

 ペースを上げかけて、自重する。

 この先、のぼりのにさしかかるあたりに 給水所がある。そこを利用すればいい。この暑さなら、みな水やスポンジを取るに違いない。その隙をつく。さっきも給水所を素どおりしたことが差を縮めるきっかけとなった。今度は珠子を抜くきっかけにするのだ。

 その瞬間を夢想し、身震いする。

 だいぶ無理をしてきたせいだろう。呼吸は、思ったほど回復していない。それでも、きっとやれる。いや、やるのだ。

 肺が痛くてたまらないほど苦しかったが、珠子を抜くためならば耐えられると思った。

 緊張なのか、それとも気温のせいなのか、琴花はやたらと渇く唇を、丁寧になめた。


   ***


 ドリンクやスポンジがおいてあるテーブルが間近にせまっていた。のぼりにかかる前の、最後の給水ポイントだ。

 珠子はやゝスピードを落とし、集団の後方へと移動する。先ほど給水所で迷惑をかけた分の借りは、もう充分返しただろう。

 舞沢やほかのランナー一人一人に目礼する。

 今度はトラブルを起こすつもりはない。まわりに充分気をつけるつもりだし、それを知らしめるための意思表示が必要だと考えたのだ。相手のランナーたちも、目礼でそれに答える。珠子の意図が伝わったようだ。

 琴花は。

 ちらっと目をこちらに向けたが、すぐに視線をそらし、それきり知らんふりをしている。

 苦しいのだろう。時々大きく息を吸おうとあごが上がりそうになるが、フォームを崩さぬようそれを懸命にこらえている。

 無理もない。

 このハイペースなレース展開の中、陰で珠子が支援したとはいえ、さらにペースを上げて追いついてきたのだ。呼吸もそうだが足や腰、いや、それ以外の全身の筋肉すべてが悲鳴を上げているに違いない。

 そうまでして自分に勝とうとしているのだ。そうまでして不正な行為に手を染めた自分に抗議しているのだ。

 ふいに、胸のうちに熱いものがこみ上げる。

 いじらしかった。

 抱きしめてやりたかった。

 けれど、もちろんそんなことはできるはずがない。もちろんルールで他のランナーの邪魔をするようなことは禁止されているし、それ以上に、自分のこの汚れた手で琴花をけがすことなど許されるはずなどないではないか。

 せめて、琴花がドリンクを取りやすいよう、邪魔にならない位置に移動しようと思った。 珠子は集団の最後尾、琴花から少し離れたところまで下がる。

 集団全体がよく見えた。先頭を走る舞沢の走りは別格だった。まるでスタートしたばかりと見まごうばかりの力強くて躍動感のある、無駄のないフォーム。その気になれば、いつでも集団を引き離すことができるのではないだろうか。

 まるで舞沢という機関車に牽引される列車のごとく一列に並んだ集団が、道路の左側に寄る。給水ポイントだ。

 珠子もほっとしながらドリンクを手に取る。この暑さだ。水分は充分補給しておきたい。

 ドリンクを口にし、再び前に向きなおる。

 と。

 琴花が消えていた。

 いや、琴花だけではない。舞沢もいない。

 慌てて探す。

 見つけた二人は、珠子やほかのランナーの五メートルほど先をいっていた。琴花が前。舞沢が後ろだ。

 瞬時に状況を把握した。

 舞沢の手にはドリンクが握られているが、琴花の手にはなにもない。

 つまり。

 みながドリンクを取っている隙に琴花がスパートし、舞沢がそれに気づいて追ったのだ。

 ――琴花、ばか――

 心の中で毒づく。

 この暑さでドリンクを取らないなんて、自殺行為だ。

 全力で、追った。


   ***


 向かい風が、殴りつけるように全身を嬲る。

 左右の足で交互に蹴る地面の重さに、足首が、膝が、股関節が、腰が、ぎいぎいと音を立てて軋んでいるような錯覚に陥る。

 だが、沿道で振られる小旗やの街路樹の枝を見る限り、それほど強い風が吹いているわけではなさそうだ。

 直前までほかのランナーの後で風を避けていたからそう感じるのだろう。きっとすぐ慣れるに違いない。

 琴花は先頭に立った満足感に酔いしれていた。

 自分が珠子の前にいる。それだけではない。あの、舞沢京子を従えて走っているのだ。

 誰もいない景色が前方に広がっている。もちろん、ランナーに限ってのことで、観客や先導の白バイ、係員を除いての話だが。

 以前はそれほどめずらしい景色ではなかった。少なくとも、中学の頃までは珠子との競りあいに勝って幾度も獲得したものだ。先頭を走るものだけ見ることを許される、この懐かしくて誇らしい景色を。

 もう誰にも渡さない。二度と渡さない。

 快感が琴花の全身を駆けめぐる。

 もう肺の苦しさも、関節や筋肉の痛みも感じない。

 すでにのぼり坂に入っていることにすら気づかず、琴花は大会記録を塗りかえるほどのペースで走り続けた。


   ***


 息が上がる。

 ようやく琴花と舞沢に追いついたものの、ひと息つくこともできない。

 尋常ではないペースだった。

 琴花はのぼりに入っても一向にペースを落とさないのだ。しかも向かい風の中で。

 舞沢も琴花の前に出る気はないらしい。琴花を風よけに使う気だろうか。それとも、琴花のペースが舞沢が前に出るのを躊躇うほどのスピードだということなのか。

 そうかもしれない、と珠子は思う。まるで短距離競技を全力疾走するようなペースなのだから。つまり、無酸素運動の領域だ。このペースで、ゴールまで持つはずがないのだ。

 なんとしても琴花の前に出てペースを抑えるしかない。それなら琴花の風よけになってもやれる。

 珠子は体力が一気に削られることを覚悟の上でペースを上げ、舞沢に追い越す。

 一瞬、舞沢と視線が交差する。

 余裕が消えていた。信じられないといった顔をしていた。やはり舞沢でもこのペースはつらいらしい。

 そのまま、一気に琴花の横に並んだ。

 琴花は苦しいはずなのに、少しも苦しそうには見えなかった。なにか、恍惚とした表情を浮かべていた。

 珠子はぞうっとするものを感じながら、手に持ったままだったドリンクを差し出した。たとえどんなに体調がよかったとしても、身体が水分を欲しているはずだ。

 だが琴花はそれに気づきもしない。

 訝りながら、今度は目の前でそれを振ってみる。

 やっと気づいたようだが、様子がおかしい。

 怒って、はねつけるのならわかる。琴花は自分を憎んでいるのだから。

 けれど琴花のとった行動は異様だった。

 笑顔で首を横に振って謝絶したのだ。

 あたかも、気心の知れた友達に「まだ大丈夫だよ」とでも言っているかのように。

 あっけにとられている珠子を尻目に、琴花はさらに加速した。

 とてもついてはいけない。

 琴花を見送る珠子の横に舞沢が並んだ。

 舞沢はこちらを見て首を横に振った。ついて行ってはいけないということだろう。

 まもなくのぼりは最初のピークを迎える。

 その寸前、琴花のスピードが、がくんと落ちた。


***


 名前を呼ばれたような気がした。

 誰だろう。

 いや、そもそもここはどこなのか。自分は今なにをしているのか。思い出せない。

 景色が揺れている。ふらふら、ふらふらと。「琴花!」

 また名前を呼ばれた。

 我に返る。

 レース中だ!

 揺れる視界の中で、坂の上の青い空に消えていく珠子が見えた。

 抜かれた? いつの間に?

 振り返ってこちらを見ている。

 その顔は……。

 薄れゆく意識の中、心に、刻んだ。



 ビニールに入った液体が、チューブをとおって小さな筒の中にぽたりぽたりと落ちるのが見える。液体は、そこからさらにチューブ、先端にある針へと移動し、そして自分の腕の中のチューブ、つまり血管に送り込まれる。

 点滴だ。

 おそらく、液体はただの生理食塩水とかブドウ糖とか、そんなものだろう。ただの脱水症状なのだから。

 琴花(ことか)はベッドの上で上体を起こした。

 レース中脱水症状でふらふらになった琴花は係員に走るのを止められ、病院に運ばれたのだ。

 駆けつけた母親は、琴花を叱りつけるだけ叱りつけると、泣きながら抱きしめて無事でよかったと何度も呟いた。今は病室にはいない。医師から話を聞いているか、あるいは学校に連絡を入れているのだろう。

 実は点滴を受けるのははじめてではない。中学の頃、真夏の練習中に同じように脱水で倒れたことがあった。

 あのころは、ただただ走るのが楽しかった。練習でも、レースでも。今日は、どうだったろうか。

 わからない。

 ただ。自分は負けた。

 珠子(たまこ)にも、舞沢(まいさわ)にも、そしてコースにも。

 勝ちたかったのに。少なくとも、珠子にだけは負けたくなかったのに。

 意識が途切れる直前の、自分を振り返る珠子の様子が頭の中に浮かんでくる。どんな顔をしていたか、思い出せない。けれど、笑っていただろう。負けない、勝ってみせるだのほざいておいてDNF(途中棄権)なのだから。きっとあざ笑っていたに違いない。

 悔しさがこみ上げる。

 ぽたりぽたりと、涙がシーツの上に落ちた。 そのとき、とんとん、と入口のドアを遠慮がちにノックする音がした。慌てて涙を拭く。

「あ、はい。どうぞ」

 ノックのぬしはドアを細く開けていったん頭だけを病室の中に入れ、琴花が様子を確かめると、静かに部屋に足を踏み入れた。

「こんにちは。もう大丈夫みたいね」

 親しげに告げてくる顔には、見覚えがない。

「あら、ごめんなさい。お話をするのははじめてだからわからないかな。でも、さっきまで一緒に走っていたのよ」

「え?」

「じゃあきちんとご挨拶しようかな。はじめまして、西風舘(ならだて)さん。舞沢京子(まいさわきょうこ)です」

 思わず、あっ、と声を上げた。

「あ、あの、どうして」

 まごつきながらベッドからおりようとする琴花を、舞沢は身振りで制止する。

「無理をしちゃだめよ。あなたはちょっと無茶しすぎるみたいだから。心配しちゃった」

「それでわざわざ?」

「ううん、主催者に頼まれたの。頑張ってレースを盛り上げてくれた女の子を励まして欲しいって」

「そうなんですか。いろいろ気を遣ってくれるんですね、主催者さんって」

 それを聞いて舞沢ははじけたように笑った。

「素直ね。わたしは年をとってすっかりひねくれちゃった」

「はい?」

「ここまでしたんだから、あとから運営に文句言うなよ、って意味かなと」

 さらりと大人の事情をぶちまける舞沢に、思わず言葉を呑む。

「でも、心配したのは本当だし、あなたと話してみたかったの」

「わたしと?」

「ええ。いいライバルがいて、うらやましかったから」

 現実に、引き戻された気がした。

「ライバルじゃありません。珠子とは、ライバルなんかじゃありません」

 語気の荒くなった琴花の言葉に驚く様子もなく、舞沢は穏やかに微笑んでいる。

 たまゆらの沈黙のあと、舞沢が口を開く。

「でも、あなたはずいぶんあの子を意識してるみたいだし、あの子もあなたをずいぶん心配してたわよ。レース中もずっと」

「レース中?」

「ええ。ドリンクをあなたに渡そうとしたでしょ? 覚えていない?」

 記憶になかった。いや、そういえば誰かがドリンクのボトルを差し出し、自分がそれを断ったような覚えがある。あれは珠子だったというのか。

「それに、あなたが追いつけるよう、給水所でトラブルを起こしたり、集団のペースを落としたり、いろいろ工作してたのよ?」

「嘘です!」

 思わず叫んでいた。

「珠子がそんなことするわけありません! あいつは笑ってました。失速しておいてかれたわたしを笑ってました。笑ってたに決まってるんです」

 最後は哀願するような調子になる。本当は珠子があのときどんな顔をしていたか、思い出せないのだ。

「そう……わたしにはあの子があなたの身を案じて、何度も呼びかけていたような気がするけど……」

 押し黙る琴花に、舞沢は優しく続ける。

「わたしにはもうライバルがいないのよ」

 ゆっくりと琴花のそばまで移動し、舞沢はベッドの脇にあるイスに腰掛けた。

「自分は誰よりも速いという意味じゃないから勘違いしないで。わたしより速い選手なんていくらでもいるもの。ただ、あいつには負けたくない、と思うような人がいないの」

 にこりと笑いかけてくるが、その笑顔はひどく寂しげだ。

「アスリートも四十の声が聞こえてくると、ライバルがどんどんやめてっちゃうのよね。レースに出ればまわり相手は若い子ばっかり。一緒に走ってても、ちょっとオーバーペースじゃないかなーとか、勝負を賭けるならここでしょーとか、気になって仕方ないの。もう自分の勝ち負けなんかそっちのけでね」

「それでも、勝つときは勝つじゃないですか。すごいと思います」

「ありがとう。でもね、勝ちたいっていう強い思いがないと、レースで限界を超えたスパートなんかできなくなるし、つらいトレーニングに耐えられなくなるの。耐える理由がなくなっちゃうから。だから、わたしもそろそろかなーって思っちゃうのよね」

「あ、あの、それは……」

「うん。まあ今すぐってわけじゃないけど、いずれは考えなきゃいけないことでしょ? 引退する時期」

「は……い」

「でも、あなたが来年もこの大会に出るなら、それまでは頑張ってあげるよ?」

 ただ自分のために舞沢を頑張らせていいのだろうかとつかの間返答に迷うが、ふと思い当たる。

「お願い……します。それは、舞沢さんがトレーニングに耐える理由になりますよね?」

 舞沢は嬉しそうにうなずく。

「そうね。これであと一年は頑張れるわね」

 言いながらのばされた舞沢の手を、しっかりと握りしめる。

「来年のレースで、あなたを抜きます」

「忘れないからね、その言葉」

 舞沢は立ち上がってドアへと向かう。

 琴花も見送ろうとしたが、舞沢に指さされて自分が点滴をしていることを思い出す。ここは舞沢の厚意に甘えるとしよう。

 舞沢はドアまでいくといったん立ち止まり、振り返った。

「あの子、珠子ちゃんだっけ? 伝えておいてくれる? 来年も負けないからって。あなたも倒すべき敵は多いほうがいいでしょ?」

 愛らしくウインクをしてくる舞沢が、とても大きく見えた。そして、当然自分がしなければならないことを、まだしていなかったことに気づく。

「あの、優勝おめでとうございます」

 舞沢は笑ってありがとう、と言いながら病室を出ていった。

 そう、今年の青葉市市民ハーフマラソン大会は舞沢がトップ、珠子は四位でゴールした。


   5


「あんたが電話をよこすなんてめずらしいね。身体はもういいの?」

 携帯から聞こえてくる杠夏美(ゆずりはなつみ)の声は、どこかおもしろがっているようで、少しも心配などしていないようだった。あいかわらずだ。けっして冷たい人間ではないのだが。

「夏美、教えて欲しいことがあるの」

「珠子のことでしょ? もしかしたら電話来るかなー、て思ってたよ」

 お見通しだったようだ。とはいえ、琴花が秀和学院(しゅうわがくいん)の陸上部マネージャー、杠夏美に聞くことなどほかにあるまい。

 ただし、こちらも夏美の考えていることくらいわかる。

「でもタダでは教えてくれないんでしょ?」

「やだ琴花。わたしはそんなケチじゃないけどせっかくおごってくれるって言うなら断ったりしないってー」

「はいはい。じゃあ、いつどこで待ち合わせする?」

 指定されたのは翌日の放課後、部活のあとに二人の学校の中間付近にあるファーストフード店だった。


「で、あの噂、本当なの?」

 琴花は単刀直入に切り出した。

 が、夏美はダブルチーズバーガーをぱくつきながら、バニラシェイクに手をのばす。テーブルにはさらにフライドポテト、アップルパイが並んでいる。おなかが減っているのだろう。マネージャー家業も楽ではなさそうだ。琴花の前にはオレンジジュースとマヨネーズを抜いてもらったチキンテリヤキバーガーがおかれている。トレーニング後はタンパク質や炭水化物、ビタミンCなどは充分補給したいが、脂質はなるべく控えたい。

 話は食べたあとにしようと、琴花もオレンジジュースを飲もうとしたところで唐突に返事は返ってきた。

「ホントよ。珠子は高校総体には出ないわ」

 慌てて見やると夏美はシェイクのストローをくわえながらにやりと笑った。一筋縄ではいかない相手だ。こちらもストローをくわえながら笑い返す。

「どうして?」

 聞かずにはいられないことだった。珠子との直接対決は、まだあると思っていただけに。

「転校するのよ」

「い、いつ? どこに?」

「三週間後。六月の頭に隣の県に引っ越すそうよ。ウチのコーチは必死にとめてるみたいだけど」

「家の事情?」

 夏美は肩をすくめて首を横に振った。わからないらしい。

 理解できなかった。

 なぜわざわざ高校総体県大会の直前に転校などするのだろう。たしか転校後一定期間すぎなければ出場は認められないはずだ。もちろん例外はあるのだろうが。

 ふいに、自分にはライバルがいないと寂しそうに言っていた舞沢の姿が思い浮かんだ。来年も負けないから、と珠子に伝えるという舞沢との約束を思い出した。そして、ふつふつと浮かんでくる、あいつにだけは負けたくないという気持ち。

 ――勝ち逃げなんて許さない――

「夏美!」

 突然の呼びかけに、しかし夏美は驚きもせず平然と答える。

「成功報酬でいいよ。ただしファーストフードじゃ割にあわないな。そう。あんたが勝ったら駅前ホテルのレストランでやってるサンドイッチ&デザートビュッフェ、お一人様二千五百円也ー、てトコで手を打つわ」

「え、えと、あの」

 夏美は鞄からモバイルパソコンを取りだすと、なにやら調べはじめた。

「珠子が引っ越す前に、もう一度勝負したいんでしょ? 大丈夫。舞台はわたしが整えてみせるわ。安心なさい。必ず勝たせてあげるから」

 苦笑するしかない。すべてお見通しか。

「コースは……珠子が毎朝走ってるコースがいいと思う。そこで待ち伏せよう」

「うん」

「でも……そうね。十日待ちなさい」

「十日? なんで?」

「いいからいいから。ちゃんとその日にコンディションをピークに持っていくのよ?」

 さも悪巧みしています、という夏美の笑顔にいささかの不安を覚えつつも、すでに琴花は頭の中で、勝負の日に向けてのトレーニングや食事のメニューを組み立てはじめていた。



 早朝、いつもどおりの時間に、いつもと同じように玄関にいくと、いつもと変わらずランニングシューズがきちんとそろえておかれていた。

 三足あるうちの、昨日と一昨日に履かなかったやつだ。なんでも、靴はローテーションして履いたほうがいいのだとか。

 朝、トレーニングに出る珠子(たまこ)のために、叔母が前夜から用意してくれるのだ。自分でするから気を遣わなくていい、と言っているのだが、自分の靴を磨くついでだからと一緒にブラシまでかけてくれている。

 優しい叔母だった。

 両親に死に別れた自分を引き取って、我が子のように、あるいは妹でもできたかように可愛がってくれた。

 おかげで、親がいなくて寂しいなどと思ったことはない。とまで言ったら言い過ぎかもしれないが。

 タタキにしゃがみこんで、靴ひもをしっかり結ぶ。そしてそれが終わると珠子はふり返り、いってきますと頭を下げた。

 朝のトレーニングにいくのだ。

 中学で陸上部に入ってからずっと続けてきた習慣だった。熱かろうと寒かろうと。少しぐらい体調が悪いときでさえ。もちろん天気さえよければの話だが。

 ただ、いつもと違うのはあがり框で見送ってくれる叔母がそこにいないことだった。

 やはり許してはくれないのだろう。

 仕方あるまい。昨日、さんざん説得する叔母の申し出を、拒んだのだ。つまり、自分は叔母を裏切ったのだから。

 転校とは名ばかりで、実際には学校をやめて単位制高校に入りなおすことになる。しかも、よくしてくれた叔母の家を出たうえに、隣の県にアパートまで借りてもらって。叔母の面子を踏みにじって追い銭まで無心するなど、我ながら悪い子だと思う。

 でも、これでいい。

 叔母からも、学校からも、そして、琴花からも嫌われてここを去っていける。未練は残らない。

 玄関を出て、エレベーターに向かう。

 階数表示はちょうどこの階、五階に止まっている。誰かこの階の住人が新聞でも取りにいったのかもしれない。

 たかだか五階なのだから階段でも、と思わなくもないが、のぼりならともかく下りは膝を痛める可能性も捨てきれないのでエレベーター使うことにしている。

 ボタンを押して扉を開く。

 そのとき、背後で玄関が開く音が聞こえた。足音が近づく。

 ふり返ると、叔母がパジャマのままで立っていた。

「ごめんね、今日はちょっと寝坊しちゃった。トレーニング、頑張って。車に気をつけるのよ」

 叔母は、まるで小さな子供に対するように、頭を撫でてくる。

 胸が熱くなった。

 珠子はなにか言おうとして果たせず、ありったけの思いをこめて、ただひとことを返す。

「はい」

 こぼれた涙を隠さずに、珠子はエレベーターに乗り込んだ。


 マンションの敷地を出たところにスクーターが止まっていた。その側に立っている、よく知っている人物が声をかけてくる。

 マネージャーの、杠夏美(ゆずりはなつみ)だった。

「グッモーニーン、珠子。今日もいい天気ねー」

「なんの用だ? こんな朝っぱらから」

「朝のトレーニングも、誰かと競争したほうが張り合いがあるんじゃないかと思ってさー」

「競争? おまえと?」

 勝負になるはずがない。夏美は一年生のときにマネージャー専業になってから、ろくにトレーニングなどしていないはずなのだから。

 案の定、夏美は即座に否定する。

「ノンノン。わたしは立ち会うだけよ。お相手は、ほら、来たわよ」

 ウォーミングアップをしていたのだろう。充分に身体が温まった様子の西風舘琴花(ならいだてことか)が道のむこうからゆっくりと近づいてきた。

 まっすぐ対峙する。

「身体はもう大丈夫なのか?」

「ええ。ただの脱水症状だったし」

「そうか。勝負に来たんだって?」

「突然ごめんなさい。でも、転校したらしばらくは勝負できないと思って」

「だろうな」

「勝手を言って悪いと思う。だけど、わたし、あなたに勝ちたい」

 琴花は少しも目をそらさずにじっとこちらの目を見つめてくる。瞬きすらしていないように思えた。

「勝てるなら……な」

「うん。ウォーミングアップ、十分あげる。それですませて」

 ただ勝つためなら、こちらにウォーミングアップの時間など与える必要などないのだろうに、あくまで正々堂々と戦いたいということか。琴花らしい。

 それが嬉しくて、珠子はつい挑発をしてしまった。

「五分で充分だ」

 琴花のかわりに、夏美が舌を鳴らした。


「ジャージを脱がないの?」

 夏美がチョークでひいたスタートラインに立つなり、琴花が燃えるような眼差しで睨んでくる。

 みくびられたとでも思ったのだろう。

 琴花の身体にフィットしたノースリーブのランニングシャツにランニングパンツという臨戦態勢のいでたちから見ると、薄手のものだが上下ジャージという自分のスタイルは、確かにそう思われても仕方がない。

 とはいえ、珠子はジャージを脱ぐつもりはなかった。

 スタートラインに立った以上は、その時点ですべて対等なのだ。どちらが有利か不利かなど、考えてはならない。

「こっちのホームコースで勝負するんだ。それくらいのハンデはつけるさ」

 琴花の表情がさらに険しくなる。

 が、そこに夏美が割ってはいる。

「琴花、珠子がいいって言ってるんだからそれでいいじゃない。むこうだって負けたときのいいわけが必要なのよ」

 琴花は釈然としないようだったが、夏美に促されて再びスタートラインに着く。

 それを見た夏美は、脇によけていたずら小僧のような表情を向けてくる。

「それに。ね、珠子、あなたならどーんなハンデだって乗り越えてみせるわよねー」

 なるほど、そういうことかと思った。

 マネージャーだから知っていても不思議はない。

 しかし、そんなことまで利用してくるとは。

「夏美、やっぱり恨んでたんだな。わたしのこと」

 琴花が驚いた顔をしてこちらを見るのがわかった。後悔する。スタート前に言うべきことではない。

 夏美も珠子の気持ちを察したものか、それともそういう性格なのか、さもおかしそうに笑った。

「そうねー。でも逆恨みってヤツよ。あんたが気にすることじゃないわ。悪いのはコーチだってわかってるし。レースであんたを勝たせるために、ばれないように風よけをやれとか先頭に立って集団のペースを乱せとかコーチにさんざん言われたけど、あんたがそれをすごくいやがってたのも知ってる。でもねー」

 夏美はそこで芝居がかった仕草で肩をすくめてみせる。

「それをさせないために、スタートからゴールまで先頭を譲らないあんたにはちょーっと腹立つわけよ。なんつーか、才能がねたましいというか」

「そうか、すまなかったな」

 別段皮肉のつもりではなかったが、夏美はそうはとらなかったらしい。

「ふふん、減らず口もそこまでよ。今の琴花ならあんたに勝てるわ。スタートしたら原付で追うから、しっかりあんたが負けるとこを見せてもらおうかしらねー」

 憎まれ口を叩くと、夏美はスタートラインの横に立った。

「琴花……」

 困ったような顔をしている琴花に声をかける。

「おまえが力をつけたことはこの間のレースで充分理解している。給水さえ失敗しなければ結果は変わっていたんじゃないかとさえ思う。たいしたやつだよ、おまえは。たぶんこれが最後の勝負になるだろう。わたしがこんなことを言える立場じゃないのはわかっているけど、お互い全力を尽くそう」

 もうドーピングはしていない、そう付け加えようとしたがやめた。琴花が倒したいのは薬を使ってずるをしている、卑怯者の歌書珠子(うたがきたまこ)だ。スタート前に、これ以上琴花の心をかき乱すことは本意ではない。

 夏美が不思議そうな顔をした。「こんなことを言える立場じゃない」の意味がつかめないのだろう。もともと夏美はドーピングのことを知らないのだが、どうやら琴花からも聞いていないらしい。

 その琴花は、少しの間無言でこちらを見つめていたが、雑念を振り払うように自分の頬を平手で叩くと、迷いのない表情でうなずいてみせた。

 それを見ていた夏美が、少々間の抜けた声で声をかける。

「じゃ、そろそろいくわよー」

 異存はない。スタートラインに着く。

「位置についてー、よーいー、どん」

 琴花の珠子の、琴花と珠子にしか演じられない無言劇の幕が今、あがった。


   7


 スタートの合図とともに琴花(ことか)は一気に飛び出した。

 駆け引きは重要なことだが、このレースに限っては珠子(たまこ)を力でねじ伏せたかった。

 つまり。

 スタートで前に立ち、そのまま先頭を譲ることなくゴールする。

 早朝で気温も低いし、アップダウンは大きいものの、十キロ程度のコースなら給水など不要である。なにも考えずにゴールを目指すことができるというものだ。

 しかし自分の右側、真横から聞こえる規則正しい息づかいと足音。

 琴花は視線を前に固定したまま走り続けた。

 横を向いて確認するまでもない。珠子の息づかいや足音など聞き慣れている。たとえ目をつぶったとしても、自分のどちら側をどのくらい離れて、どんな調子で走っているか、正確につかめるくらいに。

 たぶん珠子も同じはず。そのくらい、何度も何度も、一緒に走り、競いあってきた。

 ふと、珠子のリズムに違和感を覚える。

 しかし背後から近づいてきたエンジン音にそれはかき消された。どうやらスターターをつとめた夏美が、原付で追いついてきたらしい。

 ちらりと、目だけを動かして珠子を見る。

 ちょうど同じタイミングで珠子もこちらに目を向けたようだ。視線が交差する。

 珠子がかすかに笑ったような気がした。楽しそうに。嬉しそうに。

 わからない。珠子が笑った理由が。けれど、同じようなことが以前はよくあったことを思い出す。はじめて対決した中学の新人戦。はじめて参加したハーフマラソン大会。そう。あのときは風邪を押して出場した自分を、珠子はレース中ずっと気にしていたように思う。

 それに。

 誰かに踏まれて脱げた靴をはき直すために遅れていた珠子が、必死の思いで追いついてきたのを見て自分が安心して笑ったこともあったはずだった。

 ずっとずっと昔のことのような気がするし、でも昨日のことのような気もする。

 懐かしくて、ひどく心地よい気分に身を浸していると、突然珠子の足音が移動した。琴花の後ろについたのだ。

 めずらしいことだった。確かに風はかすかではあるが正面から吹いている。しかし、それを避けるために琴花の背後に隠れるとは普段の珠子なら考えられない。やはりジャージやウォーミングアップ不足が影響しているのだろうか。

 ならば、それでいい。しばらく後ろで風から身をまもればいい。

 はじめからハンデなど欲しくはなかったのだ。前を牽くことでそのハンデを帳消しにできるなら願ってもないことだと思った。

 前方を見やる。

 くしくも先日のハーフマラソン大会のコースと同じように、向かい風の平坦区間すぎるとのぼりが控えている。ただし、序盤はともかく頂上まで残り百メートルのあたりは勾配があのコースよりはるかに急だ。全体の標高差もかなりのものになるだろう。

 珠子は早朝のトレーニングにこんなハードなコースを選んでいたのだと身震いがした。

 けれど。いや、だからこそ。

 今日は、あそこで勝負を決める。


***


 目の前の、琴花の背中だけを見ていた。

 おそらくフォームや肉体改造に取り組んできたのだろう。ここ数ヶ月で見違えるほど力強くなり、スムーズに進んでいくのがわかる。

 自分のホームコースだというのに、ついて行くのがやっとだ。

 嬉しくなった。

 いつだって琴花と走るときは全力で走ってきた。

 だからこそ自分はレースで勝てたのだ。

 もちろん、今日だって全力を尽くす。

 珠子は底が抜けたように酸素を欲する肺を、繰り返し繰り返し満たし続けた。


***


 のぼりに入って一キロ。まもなく、頂上に向けて一気に勾配が急になる。まるで、滑り台をのぼっていくような。

 そこが、勝負所だ。

 琴花は呼吸と足運びのリズムを調整する。

 ワン、ツー、スリー。

 今だ。


***


 琴花の呼吸がはやく、小さいリズムを刻む。ストライドが狭くなる。

 琴花がスパートをかけるときの癖だ。

 来る。

 珠子は身構えた。

 けれど。


***


 珠子の息づかいが、足音が次第に離れていく。

 ――勝った――

 こののぼりを抜ければ、あとはゴールに向けて緩やかに下るだけだ。体力は充分残っている。十秒、いや、五秒。登りきるまでにそれだけ差をつければ逃げ切ってみせる。

 さらに、ペースをあげる。

 問題ない。まだ余裕がある。

 もう珠子の息づかいも、足音も聞こえない。

 かわりに、原付のエンジン音が近づいてくる。

「琴花、やった、いける、いけるよ!」

 夏美が叫んだ。

 自然に笑みがこぼれる。

 もう大丈夫だ。後ろを振り向いて、珠子との差を確かめようと思った。

 そのとき、なぜか市民ハーフマラソンで、ふらふらになったときのことが頭に浮かんだ。

 思い出せないが、きっと珠子も今の自分と同じような勝ち誇った顔で振り向いたに違いない。珠子はあのときの自分と同じような気持ちで、この顔を見ればいい。

 振り返ろうとしたとき、その瞬間は、突然脳裏によみがえった。

 ――あ――

 なんて顔をしているのだろう。

 今にも泣きそうな表情で自分の名を呼んでいる珠子の顔が、そこにあった。そして次の瞬間、すべての音が、まわりの景色が消えた。

なにもない場所に、琴花はただ一人立っている。どうしようもない孤独感に押しつぶされるような感覚に陥る。

 我に、返った。

 ――珠子――

 まるでジョギングをはじめたばかりの初心者ランナーのようなスピードで、よろよろと坂をのぼってくる珠子がそこにいた。

 必死の形相で、まっすぐにこちらを見つめている珠子がそこにいた。

 痛い。胸が痛い。


***


 身体が重い。

 足が前に進まない。

 うつむきながら、歯を食いしばる。

 楽しい時間が終わるときが来た。もう琴花の側で走れない。もう琴花のペースについていけない。

 もし自分が女でなかったら、ゴールまで競りあいをすることができただろう。でも、自分が女でなかったら、夏美は琴花と二人で走る最後の機会をつくってくれただろうか?

 もっともっと、琴花と一緒に走りたかった。ずっとずっと、琴花と走りたかった。

 でも、これでいい。琴花、いくんだ。

 顔をあげた。

 あってはいけないもの。いてはいけない人間がそこにいた。

 琴花だ。

 視線の先に、立ち止まって今にも泣きそうな顔でこちらを見ている琴花がいた。

 なんで。

 なんでだ。

 全力を尽くそうって、言ったじゃないか。

 ――琴花――


   ***


「琴花、なんで止まるのよ! 勝負なのよ、走りなさい」

 隣で夏美がわめいている。

 けれど琴花は走れなかった。動くことができなかった。

 這うようなスピードで息も絶え絶えにのぼってきた珠子が、琴花の前にたどり着いて懸命に息を整える。が、待ちきれないのだろう。乱れた呼吸のまま、珠子がつめよって吼えた。

「なんのつもりだ! 最後の勝負だと言ったろう? 全力を尽くそうって……」

 咳き込む珠子に、琴花は囁くような声でこう言うのが精一杯だった。

「ごめんなさい……あたしがずるかった。今日は、あたしが」

 琴花は夏美をふり返り、責めるわけでもなく、ひとり言のように弱々しく呟く。

「どうしてわざわざ女の子の日に……」

「それはその……えーっと……」

 もちろん聞かなくてもわかっている。夏美は単に琴花を勝たせるために、マネージャーであるからこそ使える奥の手を使ったのだ。珠子の体調の悪い日に、勝負の日をぶつけるという手を。

 けれど、けれど。

 珠子がジャージでいたのは理由があったのだ。ウォーミングアップを手短にすませたのもそのためかもしれない。

 琴花はもう一度あやまろうと、珠子に向きなおる。

 そのとき、珠子の叫びが聞こえた。

「琴花!」

 左の頬に、強い痛みを感じた。


   ***


 琴花の頬をはった手のひらが、痛い。

 珠子は痛む右手を握り、左手で包み込んだ。

 レースの日に生理を迎えることはよくあることではないが、ないことではない。実際、国際大会でそういう例があったと聞いたことがある。もっとも、普通は薬を使ってずらすことが多いようだし、身体を酷使するアスリートには来ないこともめずらしくないのだが。

 いずれにしても、悪いのは夏美であって琴花が気にするようなことではないし、それを勝ち負けの理由にしたくなかった。

「琴花!」

 勝負を続けよう、と言い出そうとして息を呑む。

 泣いていた。

 琴花は、しかられた子供のように、あふれる涙を手の甲で拭いながら泣きじゃくっていた。

 気持ちがどんどんしぼんでいく。

「今日は、一緒に走ってくれてありがとう」

 我知らず、自分でも不思議なくらい穏やかな声で、そう告げていた。

 しかしその言葉に答えることなく、琴花は珠子の脇をすり抜けて走り去っていった。

 夏美をひと睨みする。

 けれど、夏美は目と目をあわせない。

「こ、琴花ー、待ちなさいよー」

 決まり悪そうな顔をした夏美は、珠子を避けるように琴花を追っていった。

 自分と琴花が織りなすドラマは、消化不良のエンディングを迎えながら幕をおろしたのだと、珠子は感じずにはいられなかった。


   8


珠子(たまこ)、ちょっといいー?」

 放課後を告げる鐘が鳴ったとたんに夏美(なつみ)がドアを開けて廊下から声をかけてきた。

(ゆずりは)、まだ授業中だぞ」

 遅刻には厳しいくせに授業時間はまもれない現国の教師が、遠慮会釈もなく教室に入ってきた夏美を制止する。

 しかし夏美は頓着しない。

「ああ、じゃあ続けてください。わたしは珠子に重要な話があるんでちょっと失礼しますねー」

 現国の教師は、ため息をついてチョークをおき、授業終了の挨拶を促した。

 教師といえど、夏美の強引さには勝てないらしい。

 それにしても、あの一件以来自分を避けていた夏美がなんの用だというのか。そばまで来た夏美に冷たく告げる。

「忙しいから用件は手短にな」

「引っ越しの準備?」

「ああ、今度の日曜だからな」

「土曜日の朝、空けられない?」

 意外な言葉だった。夏美が学校の用事以外で自分をなにかに誘うとは。

「空けられないこともない……けど」

「オッケー。琴花(ことか)からの伝言よ」

「琴花から?」

 自然に声が大きくなってしまった。

「ふーん。嬉しそうね」

「べつに」

 無関心を装うが、通用しまい。それほど甘いやつではない。

「ま、いいけどねー。で、伝言だけどね、舞沢京子(まいさわきょうこ)に挑戦するから、土曜の朝六時に市役所前広場に来いってさ。一緒に舞沢を倒そうだって。でも、あんた無理よねぇ?」

 市役所前広場から続く栃の木の並木は青葉市市民ハーフマラソンのスタート地点だ。

 さてどうしたものかと思いつつ、自分がどうするかはなんとなくわかるような気がした。


***


「ねえ、ホントに珠子は来ないの?」

「だーかーらー、来ないんじゃなくて走らないって言ってんの。たぶんね」

「でも……」

 約束の六時はもうまもなくだ。

 夏美の言うとおり、走らないなら珠子がここに来る意味はない。市民ハーフマラソンと同じコースを走って舞沢のタイムに挑戦しようという誘いなのだから。もっとも、車道を横切ったりできるわけではないから、はじめから勝つのは無理な話ではあるのだが。

「心配しなくても、来るって言ったんだから来るでしょ」

 広場に隣接する歩道の左右を確認する。

 しかし近づいてくる人影はない。

 あきらめかけたそのとき、琴花のそばに一台の原付が止まった。

 エンジンを止めてスタンドを立てヘルメット取った少女が朝の挨拶をしてくる。

「おはよう、琴花」

 待ち焦がれていた、珠子だった。細身の身体にGジャンとジーンズがよく似合っている。

「おはよう、珠子。やっぱり走らないの?」

「夏美から聞いてないのか?」

 珠子が夏美を見る。

「自分で言いなさいよー、そういう大事なことは」

 珠子が苦笑しながら、そうだなと呟く。

「琴花、わたしは走らないんじゃなくて走れないんだ。腰と膝を痛めて」

「う、うそ。いつ?」

「と、いうのは建前なんだけどな」

「え?」

「ドーピングのことを校長と陸連に報告したんだ」

 突然のことに、言葉が出ない。

「下った裁定は、『事実は公表せずに、表向きはけがということにして、六ヶ月の謹慎処分』だそうだ。六ヶ月は競技会なんかには出場できないし、今誰かに走っているところを見られたらまずいんだ」

「そうだったんだ……でも、表沙汰にならなくてよかった。きっと珠子の将来を考えてくれたのね」

「お人好しねー、琴花は。騒ぎになると面倒だからに決まってんでしょ」

 夏美が混ぜっ返す。

 しかし珠子はそれには乗らず、少し投げやりに呟いた。

「まあ、除名処分でもよかったんだけどな。もう走る気もないし」

「それ、本気で言ってるの?」

「もちろんだ。来る日も来る日も走ってばかり。そんなのはもうごめんさ」

 琴花は珠子の目をまっすぐに見つめる。しかし珠子はそれを嫌ってすぐに目をそらした。

 なんとわかりやすい。

 ひとつ賢くなった。珠子は嘘が下手だ。

 琴花は珠子につめ寄って、右手を振りかぶった。


***


 すべて見透かされてしまいそうで、思わず目をそらした。

 それを見た琴花が手を振りかぶる。

 この間、琴花を一発平手打ちしている。自分も一発もらってあいこだと思った。目をつぶって、待つ。

 しかし、頬に感じたのは柔らかい感触だった。次いで、身体全体に感じる体温。琴花が頬を押しつけて抱きしめてきたのだ。

「ちょ、ちょっとあんたたち、公衆の面前でなんてことしてんのよ」

 夏美が脇から至極まっとうな苦情を申し立てるが、琴花は無視した。

「珠子、この間あなたに言い忘れたことがあるの」

「ん?」

「舞沢さんが、来年も負けないから、だってさ。待っててくれるんだって」

 琴花が身体をはなして見つめてくる。

「それに、あなたがいないとあたしも前に進めない。二人でないと、舞沢さんには勝てないと思うの。ね、珠子、それなら走らないわけにはいかないでしょ? 来年のレース」 

 琴花が自分を引き留めるために懸命になっているのが嬉しかった。

 だからもう、目はそらさない。

「琴花、信じてくれるか?」

「うん」

 琴花は大きくうなずいた。が。

「まだなにを信じて欲しいか言ってないのに?」

「うん。だから言ってみて」

「そうか……薬を使ったの、今回がはじめてだったんだ」

「うん。信じた」

 二人して笑う。

「珠子、裁定は下ったんだからそれに従えばいい。六ヶ月競技会への出場を自粛すればそれでいいのよ」

「でも、ドーピングをした事実は消えない。わたしはそれを背負わなくちゃいけない」

「二人で背負えばいい。知っていて黙っているならあたしも荷担したのと同じでしょ」

「ばかな。どうしておまえが」

 琴花は破顔する。

「あたしだけで足りなければ三人で背負いましょ。ね、夏美、あなただって誰にも言わないわよね」

「な、なんでそこでわたしがでてくるのよ」

「この間うやむやになっちゃったサンドイッチ&デザートビュッフェ、お一人様二千五百円也、それで手を打ってよ」

 しかし簡単に夏美を出し抜けるわけはない。

「わたしだってそんなにおしゃべりじゃないんだけどねぇ。ま、あんたから一回、珠子から一回ってとこで手打ちにするわ」

「よくばりねー」

「そうでもないわよぅ? 結構サービスいいんだから、わたし」

 そう言うと、夏美はバッグから一冊のファイルを取りだし、珠子に差し出した。

「ほら」

「なんだこれ」

「引っ越し先で利用できるスポーツジムの資料を集めてみたわ」

「スポーツジム?」

「走るのはだめでも泳いだりエアロバイクくらいなら怪しまれないんじゃないの? 多少けがしてたって」

「夏美!」

 琴花と珠子の声がそろった。


   ***


「ねー、ホントに走るのー?」

 夏美が聞いてくる。今日は珠子が走らないのに、という意味だろう。

 珠子が当たり前だという顔で号令をかける。

「位置について、用意、どん」

 迷わずスタートを切った。

 なぜなら、それは一歩踏み出すための合図なのだから。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ○同じ作者様の作品である「二つの夏期休暇」の前日譚。 ○青春小説ではあるものの、序盤から衝撃的な展開です。 ○若く、そして痛いほどの友情が繊細な文体で紡がれた作品です。 ○登場人物各人の…
[良い点] よかったです。 一生懸命でみずみずしい感じが伝わってきます。 前向きでさわやかな気持ちになれる短編でした。
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