真実の泉
ホルツ村は、深い森に囲まれた辺鄙な村だ。
村人のほとんどが林業に携わり、森と共に生きている。
村はずれに住むカールも、代々きこりの家系だ。
父親も祖父もそのずっとずっと祖先も、木を切り倒して暮らしてきた。
だから、森には深い感謝と信仰を抱いているし、糧を生む『道具』は命の次に大切なものだ。
実直な性格のカールは、今は亡き父親から譲り受けた道具を毎日磨いていたので、斧も刀も鉄製だが錆びひとつない。
それが彼の細やかな誇りであった。
* * *
ある日のこと。
独り暮らしのカールは、いつものように道具と弁当を持って、森に入った。
この森は村の共有財産で、切り倒した木材は村の組合に持ち込むことになっている。
組合が販売した金額から一定の手数料を差し引いて、カールたち『きこり』に収入が手渡されるのだ。
朝から数本切り出したので、頃合いを見て昼食を取った。
木漏れ日の加減で時間を計る。切り株から腰を上げ、さぁもう一仕事――とカールはブナの大木に斧を入れる。
――カーン……コーン……カーン……コーン……
リズム良く幹に楔が入る。
――カーン……コーン……カーン……コーン……
気分良く斧を奮っていたカールだが、汗が額から零れた拍子に――ちょっと油断した。
スルリと斧の柄が、掌からすり抜けた。
「……しまった!!」
咄嗟に叫んだが、斧はクルクル弧を描いて、森の奥に姿を消した。
重い斧のことだ、すぐに見つかるだろう――簡単に考えていたカールだが、見失った方向をいくら探しても見つからない。
斧がなければ仕事にならない。何としても見つけなくては。
途方に暮れて、それでも辺りを探し歩いていると――不意に木立が開け、茂みに隠された小さな泉が現れた。
こんな所に、泉なんてあったのか? 知らぬ間に湧いたのだろうか……?
この森は、子どもの時から祖父や親父に連れられて、既知の庭のような場所だ。
いぶかしみながら、泉に近づく。
暗い森の中に沈む水面は、不思議なことに鮮やかなエメラルド色に輝いていた。
カールが木陰から、更に一歩、踏み出した時――。
……ザザーーッ……!
風もないのに、俄に波立ち、中央からボコボコと大きく水面が盛り上がった。
「――?!」
そして――目映い輝きと共に、澄んだガラスのような半透明の女性が水上に現れた。
ドレープがたっぷり入った、古代の神々のような衣装。髪も長く、足元まで緩くウェーブしている。
泉と同じ、淡いエメラルドグリーンの全身は、森の精霊をイメージさせた。
驚いたカールは、泉の畔にヘタヘタと座り込んでしまった。
「――そこの者」
静かなハープの音色のような、しかしはっきりと言語と理解できる『声』が、カールを捕らえる。
恐怖は感じなかったが、祖先から叩き込まれてきた自然に対する畏敬の念が、カールを震えさせた。
「……恐れる必要はありません。私は、この泉の主です。お前は、先刻、泉に斧を投げ入れましたね?」
カールは首をブンブンと振り、
「すみません! わざとじゃなかったんです! 手が……滑ってしまって」
と、その場で平伏した。
泉の主は、しばらくカールを眺めていたが、再びハープのような声で語りかけてきた。
「――わかりました。では、尋ねます。お前が落とした斧は、これですか?」
顔を上げたカールの目に、泉の主が腕に抱えた、キラキラ輝く黄金の斧が飛び込んだ。
「め、め、滅相もない! そんなお宝は、見たこともないです」
カールの狼狽え振りに、泉の主は、エメラルドの宝石に似た瞳を細めた。
「では――この斧ですか?」
泉の主の腕の中に抱えていた黄金の斧は、煙のように消え、瞬時にピカピカ輝く銀色の斧が現れた。
カールは再び、首を大きく横に振った。
「それも、違います。そんな立派な斧じゃなくて……」
「それなら、」
カールの言葉を遮ると、泉の主は、銀の斧も消し、粗末な鉄の斧を取り出してみせた。
「お前が落としたのは、この鉄の斧ですか――?」
「あっ、それです! 俺の大切な斧です!」
泉の主は、はっきりと笑みを浮かべると、スッ……と音もなく、カールがいる畔に近づいてきた。
「……お前は正直者ですね。斧は返してあげましょう」
「ありがとうございます!!」
カールは喜んで、恭しく頭を下げた。
「……これ、顔を上げなさい」
促されて泉の主を見上げると、その腕には金銀の斧と、カールの斧、3本が抱えられている。
「お前は正直者なので、この金の斧と銀の斧も差し上げましょう。これからも、真面目に励むのですよ」
目を丸くしていると、泉の主はパア……ッと緑の輝きに包まれ、余りの眩しさに、思わずカールは瞼を閉じた。
――遠くで鳥の声がする。
木々の葉擦れがサワサワと耳をくすぐる。
カールは恐る恐る目を開けて、辺りの様子を伺った。
泉は、確かにあるが、もはや水面に輝きはない。
時折、木漏れ日を受けてチラチラ反射するが、深く重い色を湛えている。
既に『泉の主』の姿もなく、ただ一点を除けば、先程までの出来事は白昼夢とさえ思えた。
それは、カールの前に揃って置かれた3本の斧だ。
泉の主から与えられた金銀の斧、そして父親から譲り受けた大切な鉄の斧――。
物言わぬ斧たちが、現実であったことを揺るぎなく語っていた。
* * *
正直者のカールは、この出来事を村長に『正直に』報告した。
直ちに、カールが手に入れた金銀の斧の鑑定が行われ、それらが純金と純銀であることが確認された。
村は、大騒ぎになった。
長年、森に生かされてきた村人たちは、森に対する感謝や畏敬の念は、カール同様抱いていたが、しかしこの村は決して豊かではなかったのだ。
村の有力者たちが何度も会議を重ねた結果、泉の主が再び現れるものか、試みようという結論に達した。
だが、カールの件を受けて直ぐというのもあからさま過ぎる……と年配者たちが慎重になったため、決行は3ヶ月後、という意見でまとまった。
更に、泉の主の言葉に従い、これまでと変わらぬ勤労の精神で過ごすよう、カールに指示が下った。
元より真面目な性分だ。
カールは大量の金銀を得て、巨万の富が転がり込んだとはいえ、生活を変えることはなかった。
斧や道具を磨き、他のきこり同様、数本の大木を切り出す毎日だ。
唯一、変わったことと言えば、弁当を自分で作らなくてもよくなったことだ。
それというのもカールは、とある有力者の1人娘と結婚し、所帯を持てたのだ。
新妻との幸せな日々に、カールは益々森に感謝して暮らしていた。
* * *
カールが泉の主に遭遇してから、3ヶ月が経ち――ついに、決行の時が来た。
村人の中から、ミハエルという若者が選ばれた。
ミハエルもまた、嘘の付けない男だったが、彼はカールの幸せな結婚を羨み、この『試み』が成功した果ての幸せな人生を思い描いていた。
実際――独身の村の男たちで、カールの人生を羨まない者は皆無だった。
普段使っている斧は刃こぼれや錆があったので、泉の主に失礼がないように、ミハエルは真新しい斧を持参した。
村役場で地図を前に、カールから入念に泉の位置を確認する。
村と独身男たちの夢を背負って、ミハエルは森に向かった。
しかし、彼が村に戻ることはなかった。
* * *
翌日、話し合いの末、数人の男たちが、ミハエルを探しに森に入った。
カールを道案内にしたので、直ぐに泉にたどり着くことができた。
泉の畔に、人影が見える。
「――おーい、ミハエルかー?!」
返事はない。
村人たちが泉の前に来ると、驚愕した表情のまま、両腕で光を遮ろうとした姿勢で石化した、ミハエルの姿があった。
彼の足元には、持って行った鉄の斧だけが転がっていた。
【了】
意味が分かると怖い話です。
ミハエルはなぜ、このような結末を迎えたのでしょうか……?
(答えは、リクエストがあれば、書きますm(__)m)