檸檬果汁100%
こいつはただ可愛げがなく、ただただ馬鹿な女だと、竹井宗太はそう思っている。
どれだけ勉強ができようと、難関大学にストレートで合格しようと、良い就職をしようと、こいつはただの『可愛いげのない馬鹿な女』だと。
馬鹿な女―― 北内久美は宗太と同じ二十七歳。H大学付属薬学研究センターに勤務しており、IT企業勤めの宗太には意味が分からないナノバイオの研究をしている。
久美の学歴や職業を知る人間ならば、大抵は彼女のことを才女と評価するだろう。そしてそれが大げさではないことは、彼女の経歴を見れば明らかだ。
しかし久美の外側など関係なく、宗太は久美を馬鹿だと評している。
宗太が久美に初めて会ったのは、高校一年生の秋だった。クラスが違い、教室も離れていたため二学期も半ばになるまで、彼女の存在に気づかないでいた。
その存在に気づいたとき、彼女は人目につきにくい渡り廊下の片隅で、声を殺して泣いていた。
二年生になり同じクラスになって、彼女の名前を知った。クラスメイトだった一年間で四回、久美が泣いている現場に出くわした。
堪らなかった。
どうしようもないほど不愉快だった。
泣く彼女をなぐさめる自分自身も、どうしようもなく不愉快だった。
久美はその内泣かなくなった。不機嫌に怒るようになった。そして、酒を飲んでごまかすことを覚えた。
宗太はそれらに暗い苛立ちを覚えながらも、何度だって付き合った。
苛立ちは今現在も続いている。
飾り気のない黒色のローテーブルの上には、ビールの空き缶が縦に積み上げられている。
飲み終えた空き缶を積んでいくのは久美の癖だ。そんなことはもう何年も前から宗太は知っている。重ねそこねて崩れたことも一度や二度じゃない。やめれと言っても直らないので、最近は放置している。
宗太は苛ただしい想いを飲み込み、せんべいをつまみに缶ビールをあおる久美をみやる。
長いまっすぐな黒髪。化粧は出勤前にしたきりなのだろう、ほとんど剥がれている。着ているものは、白いシャツに膝丈のタイトスカート。素足のように見えるストッキングの足先が、妙に目に焼きついた。
宗太は腹にたまった何かを吐き出すかわりにため息をついた。
それを耳ざとく聞きつけ、久美は不満を口にした。
「ちょっと! なによそのため息!」
突っかかられた宗太は、眉を寄せて久美をみた。
「ため息も出るっつーの。おまえ飲みすぎだって。ほどほどって言葉知らないのかよ」
「知ってますぅ。知ってますぅ。竹井のお説教聞きたくない~」
「若くもないんだから語尾伸ばしてしゃべんな。馬鹿みたいぞ」
何気にそう返し、宗太はつまみに手を伸ばす。咀嚼し、また苦味のある酒を飲む。
ビールはあとどれだけ残っていたかと、宗太は単身向けの小型のツードア冷蔵庫に視線を向けた。その時、ぼそりと沈んだ声が耳に入った。
「―― かな」
意識が別にむいていた為、久美の呟きを聞きのがしたようだ。
「あ? なに?」
聞き返す宗太に、久美はくすりと自嘲気味に笑う。
「ん、やっぱ若い子のほうがいいのかなって。やっぱり私、馬鹿なのかな」
(むかつく)
久美の言いように宗太の苛立ちがつのる。一重の、もともとあまりよくない目つきは、半眼になると剣呑さが増す。宗太は仄暗い視線を、落ち込み気味の久美に向ける。
両手でビールの缶を握りしめ、飲み口を見つめる久美は、暗い視線に気づかず言葉を続けた。
「長く付き合ってたら離れたくなる時がある? 好きなままでも? 私が」
「都合いいからだろ」
宗太の剣のある声音に久美はうつ向いていた顔をあげ、傷ついたように唇を引き結んだ。
「だいだい何度めだよ」
―― 浮気されるの。声にせず久美をにらむ。
渡り廊下で泣いていた。あの涙が、嗚咽をこらえて震わせていた肩が、背中が、忘れられない。
むかつく。苛々する。
「いい加減分かれよ馬鹿女」
むかつく? だれが?
「キープされてるだけだろうが」
苛々する? 何にたいして?
「わ、私が一番あいつのことわかってるっ! 私のところに結局は、ぜったい帰ってくるのも」
宗太は飲み干した缶ビールを、力任せに握りつぶした。
いつから久美が裏切られる度に、なぐさめるようになった?
放課後、誰もいない教室で泣いていた久美。抱きしめて、髪をなでた。泣き止むまで、ずっと。
宗太は震えながら深く息を吸い込み吐く。
「それが馬鹿だろ」
「―― に、よ。なによ。なん、で今日、そんな、ぅっ……おこって、ぅうっ……」
むかつくむかつくむかつくむかつく!
宗太は苛立ちを隠すことなく乱暴にローテーブルを蹴って部屋のすみへと追いやる。
突然の暴力に久美は、びくりと肩をあげ体をこわばらせる。
少し怯えを含んだ久美の目を、宗太はじっと見やり、手を伸ばした。
どこにでもあるような八畳のワンルーム。
シングルのパイプベッドに、テレビ台代わりに横に倒した三段ボックス。プラスチックの整理ケース。CDラック。小型の冷蔵庫と、その上に置かれた電子レンジ。
そして、部屋のすみに蹴り寄せられたらローテーブル。
一人暮らしを始めた時に買いそろえた、もう見飽きてしまった家具。
同じように見飽きたフローリングの床と、見慣れた長い黒髪。
「…………」
床に散った長い髪を、宗太はつっと指先でなぞった。
「……。もう、泣くなよ」
もういい加減――。
「な、いてないよ。もう泣いてない。ほんとよ? ただ、どうしようもないの」
涙をこぼしながら、泣いていないと我をはる女を、宗太は腕の中に閉じ込める。
体のどこも床にぶつけていないだろうか? と、今さらなことを心配した。
「好きだったの。初めてのカレシで、他なんかいらなかった。好きだったから、ゆるす以外の選択が出来なかった」
「さらっと酷いこと言うな。かわいくねえな」
「なにがよ? ちょっ、重い。ずれてよ」
苦しげに言われ、宗太は足を久美の体の横にし、上半身の体重は肘で支え「だった。だったから? 過去形かよ」と、不機嫌に言い捨てる。
「あたま、ではね。わかってるの。でも、でも……。初恋を捨てようとしたら、いたいの」
両手を左胸に重ね、久美はぽろぽろと涙をこぼす。
「痛くて、すくんで、動けなくなる」
目じりを流れ耳や髪まで濡らす涙。宗太はそれに、そっと舌先を這わした。
「本当に、馬鹿な女だな」
だから、もういい加減――。
「俺にしとけよ」
食むようにキスをした。
初めて触れた惚れた女の唇は、壊してしまいたくなるほど……いとおしく感じた。
久美はくたりと体の力を抜き、宗太に女を委ね男をねだる。
「もっと、酷くして。やさしさに流されたと思いたくないから。仕方ないって思わせて」
「素直に甘えろ馬鹿」
「っう」
宗太は久美に舌を絡ませ、力任せに吸った。
穏やかさのない乱暴なキス。でも、久美の髪をなでる指は、とても優しかった。
***
朝、目が覚めたときに最初に宗太が思ったことは、床の上で何度もヤるもんじゃないということと、休日で助かった。という二点だ。
宗太は赤くなった両膝を手のひらでさすり、いまだぐったりと眠っている久美の顔を覗き込んだ。
馬鹿女。と吐息まじりに言う。
「馬鹿女。俺以外の誰がお前をこんなに好きだっていうんだよ」
(もう誰が待つか) ありったけの熱を込め、眠る久美にキスをする。
「さっさと俺の嫁さんになれよ」
宗太は一晩で肌に馴染んだ体をぎゅっと抱きしめた。
*2014.5.2 誤字修正