白鳥
同じ部屋の向かいのベッドからは、毎晩 少女のすすり泣く声が聞こえてくる。
時刻は、午前二時を指しているだろうか。月明かりが窓から差込み、窓辺を青く照らしている。
そっと、彼女のベッドに近づき、少女を優しく抱きしめる。
ダイアナ――
彼女の蜂蜜色の瞳は、誰よりも美しいのに、その目をいつも腫らしている。
ダイアナが、この学院に入学したのは、六歳のときだと聞いている。私よりも一年早くここでの生活を過ごしていた。
幼い子供が、この全寮制の学院で過ごすことは、珍しいことではない。この学院にも、少なからず幼い子供が預けられている。
ダイアナの家は、けしてお金に困る家ではなかった。
母親は、新聞社の女社長であった。若い頃から、優秀な新聞記者として飛び回っていた母親は、二十歳の時に、夢である新聞社を立ち上げたのだった。
父親は、名の知れぬ画家であった。2人がどのようにめぐり逢ったのか、それはダイアナ自身も知らないと言う。母親は、それぞれの夢を大切にし、家庭に縛られないようにとの配慮からか、父の放浪を止めなかった。父は、いつもどこか遠くの国へ行き、作品を産み出し続けている。
母親は、社長と言えど、仕事は大変忙しく、子供の面倒を見るのは難しいようだった。お手伝いを雇えばよいのだが、毎日、自分の帰りを寂しく待つ子供にするよりは、学校に預けてしまった方がよいと考えた結果であったのだろう。
「ママ…」
柔らかな金色の美しい髪を優しく撫でて。
月明かりは、いつも私たちを照らしている。
小さな足音と衣擦れがして、ドアの閉まる音で、目が覚めた。ゆっくり、身を起こすと、しだいに夜の闇に目が慣れて、月明かりで明るくなった部屋が見えてくる。はっと、向かいのベッドを見れば、布団から出た後だけがあり、ダイアナの姿が見えない。
「ダイアナ…」
きっと、さっき出て行った物音は、ダイアナの物であると気がついた。どこへ行ったのだろうか。
ローズは、静かにドアを抜け、暗い廊下を抜けてゆく。
普段なら、一人で暗い廊下を歩くのは、とても怖い。でも、その日は少しも怖くなかった。ダイアナがいないことの方が、何よりも恐ろしかった。
廊下を抜けて、大きな螺旋階段を下っていく。上を見上げれば、天井の絵画を月の光が浮き上がらせている。
どのくらい、階段を下っただろうか。やっと、一番下の階にたどりついた。息がきれている。
暗闇の中に誰かがいる。
白いレースのネグリジェが目にとまる。エントランスへ続く扉を少し開いて、ダイアナはエントランスの大広間を覗いている。
そっと、近づいて、彼女をびっくりさせないよう、小声で名前を呼んだ。
「ダイアナ…?」
彼女は、声に驚いた様子で、肩を震わせ、すぐに振り返った。
「ローズ」
蜂蜜色の瞳を少し大きく見開いて、こちらを見つめ返した。
私は、このとき少し安心した。私が想像していた表情とは違っていたから。私は、ついにダイアナが一人で家に帰ることを決めて、出て行こうとしているのかと思っていた。決心を固めた眼差しでも、何かを諦めた悲しい眼差しでもなかった。
「白鳥」
ダイアナは、確かにそう言った。
「え?」
「しっー、ローズ。白鳥がくるのよ。」
小さな人差し指を口にあてて、そう言った。
私は、小声になった。
「白鳥?」
「そうよ。」
彼女の頬は、きっとうっすらピンク色に染まっていることだろう。
元気そうなその様子に少し安心していた。
今なら、白鳥などいるはずがないことはすぐに分かる。しかし、七歳の私は、その言葉をすっかり信じてしまっていた。ダイアナ自身もそう信じていたのだ。
ダイアナにそっと寄り添って、重い鉄の扉の向こうを覗いてみるが、漆黒の闇があるだけだった。
ダイアナは、私の不思議そうな顔に、微笑みを返す。
どのくらい、二人でそこに立っていただろう。外は雪が降っているというのに、私たちはそのとき微塵の寒さも感じていなかった。お互いの手を握り締めて、けして放さなかった。
ふと、金属がこすれる音がかすかに聞こえるような気がする。
次の瞬間、重い扉がゆっくりと開かれた。
扉の向こうには、しんしんと降る雪が、青い月夜の中に重なり、それはとても美しかった。
漆黒の大理石の床には、真っ白な白鳥がいた。白鳥の回りには、粉雪が散っていた。
暗闇の中で、真っ白な毛皮に包まれた白鳥は、粉雪を散らす。
私は、この瞬間をいつまでも忘れないだろう。
白鳥は、粉雪を散らしながら、ゆっくりとこちらに進んでくる。エントランスの中心にきたくらいだろうか、ふと足を止めた。
こちらを見ている。
お嬢さん方、こんなところに居ては寒いでしょう。こちらへいらっしゃい――
誰の声か、声が頭の中を響いた。
澄んだ空気が、一瞬柔らかくなったように感じた。
白鳥は、扉の奥へ姿を消していった。
私たちは、呆然とその場に立ちつくしていた。
ゆっくりとダイアナの顔を見た。
ダイアナもまた、私の瞳を見つめていた。
私たちは、お互いの手を握り締めて、その夢のような時の中を、しっかりと歩み出した。
私たちは、震える手で、冷たい鉄の扉を開けた。
中には、暗闇の中に、暖炉の火が小さく燃えていた。
このとき、私たちは、身体がすっかり冷え切っていたことに気付いたのだった。
奥の扉の開く音で、我に返った。
暖炉の火は大きくなって、部屋をだいぶ明るく照らしていた。
扉の前には、この学院の学院長が立っていた。このときの彼は、学院長といっても、就任したばかりの二十歳の少年だった。
ときどき、彼を想い出すことがある。
今では、もう、エントランスに飾られている写真の中でしか、彼に逢うことは叶わない。
いつでも、彼は、雪のような白髪に、氷河のような青い瞳を私たちに向けて、優しい微笑を投げかけている。
ダイアナは、糸が切れたように、泣き出した。
私は、今までの緊張が抜けて、そこにぺたりと座り込んでしまった。
彼は、慌てて駆け寄り、私たちを抱きしめてくれた。
それから、彼は私たちに、温かいミルクを入れてくれたのを覚えている。
身体は、暖炉の火で溶けていくようだった。
彼を想うとき、いつも優しいミルクの味と、温かさを思い出す。
美しい白鳥とともに。
そういえば、このころだったかもしれない。
彼女の美しい蜂蜜色の瞳を、涙で腫らすことがなくなったのは――