6話 避難
自衛隊が動き出したのは今朝のことだった。町への立ち入りは一切禁止され、また、町の住民たちにも避難命令が課されていた。
現場に居合わせた者たちが少なかったせいか、それとも信じられていないだけなのか、昨日のことはあまり噂にはなっていなかった。そのせいか、住民たちの危機感は薄く、避難命令に従わない者もいれば、興味本位でどこからか忍び込むような人もいる始末だった。
クロエから現状についての説明を受け終えた二人は、避難する準備を始めていた。
「ねえ、七海」
「ん、何?」
「バナナはおやつに入る?」
「遠足じゃないんだから、好きなだけ持って行って良いよ」
「本当!? やった!」
一花は嬉しそうにバナナ一房を手に取り、リュックの中に入れた。クロエが横で「一本じゃなくて一房かよ……」と呆れていたが、視線に気付いた一花にバナナを一本渡され、嬉しそうに頬張る。
「ねえクロエ」
「はむっ、なんだ?」
七海に声をかけられ、クロエがバナナを頬張りながら振り向いた。
「町の外に避難しちゃったら、戦えないんじゃない? 自衛隊の警戒線を強行突破するわけにもいかないし」
「むぐむぐ……ふぅ。それなら問題はないぞ。後でやり方を教えるが、ギアには飛行機能もあるからな」
「飛べるの!?」
横でお菓子をリュックに出来るだけ詰め込もうと格闘していた一花が、飛べると聞くと、準備を放り出してやってきた。
「ああ。最終的には空を飛ぶイーターも現れるからな、対抗できるだけの飛行能力は欲しい」
「かなり大変そうだね」
「未来でも、人間で勝てるのは犬型が限界だからな。それですら、犬型の死骸が手に入らなかったら時間稼ぎすら出来ない状況だったし」
「うわぁ……そんな状況で、未来ではどうやって暮らしていたの?」
「とにかく逃げ回ったな。基地が見つからないように地下に作って、それでも見つかった場合は核兵器やそれに近い威力の兵器を使って、ギアの開発を急いだんだ」
クロエの話を聞いて、二人は未来がどれだけ大変だったのか、ギアにどれだけの人の命がつぎ込まれたのかを思い知った。
責任の重さに、二人は自分の体が重くなってしまったかのように思えた。そんな二人の顔を見て、クロエは口を開いた。
「まあ、あれだ。重く考えすぎても息が詰まるだけだし、もう少し気を楽にしてくれ」
「でも、未来の人たちの努力が台無しになっちゃったらどうしよう」
狼狽える一花をクロエが励ます。
「大丈夫だ。お前たちなら出来る。それに、そのために俺が補佐役としているんだ。俺は猫だし、頼りないかもしれないが、信頼してくれ」
「クロエ……うん、わかったよ!」
一花が親指を立て、クロエに突き出す。ビシッという擬音が聞こえてきそうな動作と、笑顔を見せる一花を見て、クロエは目にうっすらと涙を浮かべる。七海に目線を移すと、彼女も「任せて」という意味を込めて頷いた。
「二人とも……ありがとな」
クロエが目にうっすらと涙を浮かべながら礼を言う。
しばらくして準備が終わり、二人は七海の母親とともに家を出た。一花の両親と七海の父親は隣町で働いているため、そこで落ち合うことになっている。
一花も本来は自分の家にいるはずなのだが、駅での事件のこともあり、一緒にいた方が安心だろうとのことで七海の家に泊めてもらっていた。
避難命令が出たために、町は慌ただしく、いつもと違いぴりぴりとした空気に包まれていた。非常事態を前に平然としていられる人は早々いないだろう。
クロエは一花の胸に抱かれながら大人しくしていた。
「二人とも無事でよかったわ。駅に行くって聞いてたから、何かあったらどうしようって、私焦っちゃって」
本当に無事でよかった、七海の母親が言う。それから七海の頭を優しく撫でた。
「だ、大丈夫だって! 私だって子供じゃないんだからさ」
鬱陶しそうに眉を顰める七海だが、その声色はまんざらでもなさそうだった。その微笑ましい光景を見つめる一花とクロエの視線に頬を赤らめる。
「そ、そんなことよりさ。町の外に出たらどこで寝泊まりするの?」
恥ずかしさを誤魔化すように、七海が母親に尋ねる。
「自衛隊の人たちが避難民用にキャンプを造っているらしいわ。全員が入れるそうよ」
「へぇ、自衛隊も頑張るもんだな」
「ん、今の誰の声かしら?」
クロエの呟きが聞こえ、七海の母親が辺りを見回す。マズい、そう思った七海は頭を働かせる。
「一花ったら、先生のモノマネはお母さんには伝わらないよ」
「ふぇ!?」
自分のせいにされて戸惑う一花だったが、七海の視線から伝わる圧力に負けてしまう。
「そ、そうだよね! 先生のモノマネは伝わらないよね! あ、あはははは」
「一花ちゃんだったのね。ごめんなさいね、分からなくて」
「大丈夫ですよ!」
一花は自棄になって、勢いでどうにかごまかす。
クロエを抱く一花の腕に力が込められているのは、仕方のないことだろう。
数分ほど歩いたあたりで自衛隊の警戒線が見えてきた。人が行列を作り、軽いチェックを受けてから通っていく。
三人とクロエも列に並んだ。
「駅で放火があったんだって」
「いや、熊がたくさんでたって聞いたんだけどな」
「そんなこと無いわ、あれはテロよ」
「新種のウイルスが検知されたらしいぞ」
並んでいる人々の話題は全て、昨日の事件のことだったが、どれも正確なものではなかった。
二人は七海の母親が余所を向いている内にクロエに尋ねる。
「ねえ、クロエ。なんでイーターのことが正確に伝わってないの?」
「本当のことを言っても信じてもらえないからだろうな。化け物が出たなんて聞いたって、普通は信じないだろう」
「そうなの!?」
「ああ、例外もいたな……」
クロエが疲れたようにため息を吐いた。
「自衛隊としても、その方が混乱を抑えられて都合がいいんだろうな。必要以上の混乱は避けるべきだからな、機密レベルの情報として処理されるだろう」
「うーん、そうなのかなぁ」
「まあ、知らぬが仏って言うくらいだからな。少しでも混乱を抑えられるなら、そうした方が良いだろう。混乱が大きくなれば、余計に面倒になるだろうしな」
クロエの言葉に、なるほどと二人は頷く。確かに、周囲を見た限りではあまり混乱は起きていなかった。大抵の人は日常会話で暇つぶしをして、順番が回ってくるのを気楽に待っていた。
知らされていないことに疑問を抱く者も少数いたが、それ以上の様子はなく、特に問題はなさそうだった。
「さて、そろそろ順番が回ってくるぞ」
クロエに言われて顔を上げると、順番がもうすぐそこにまで迫っていた。隊員たちの明るい表情からは非常事態ということを感じることが出来ない。おそらく、そうするように命令がでているのだろうとクロエは思った。
「お次の方、どうぞ」
自衛隊の人に促され、一花が先に荷物チェックを済ませる。思っていたよりも簡単なもので、軽く鞄の中を覗いただけで終わってしまった。
一花のリュックの中身がお菓子だらけだったことに隊員は苦笑いしていたが、一花がそれに気付くことはなかった。
「……あれは」
荷物チェックを終えて七海たちを待っていると、クロエが一点を凝視して呟いた。
「どうしたの?」
「ああ、いや。見知った顔があったんだ」
「白ネコとか?」
「違うわっ! 確かにそう思われても仕方ないけどなっ!」
否定した後に、自分がネコだと言うことを思い出してクロエが自虐的に言う。
「じゃなくてだな、あそこを見てみろ」
「ん、どれどれ」
クロエの指さす方向に視線を向けると、そこには白ネコがいた。まだ若い、品のある顔立ちの白ネコで、よく手入れのされた艶やかな毛は、白ネコの家の裕福さを――
「だから白ネコじゃねえ! もうちょい左だ!」
そう言われて一花は視線を左に移す。そこには三十半ばほどの自衛隊の男がいた。身長は百九十を少し超えているくらいで、鍛え上げられたしなやかな筋肉は男の努力を物語っていた。
日本人にしては大きな体躯の男はどうやら高い役職に就いているらしく、部下にあれこれと指示を出していた。
「あの人がどうかしたの?」
そう尋ねたのは七海だ。母親の先に荷物チェックを済ませた七海が一花に合流する。
「クロエの知り合いなんだって」
「へぇ、どんな繋がりなの?」
「未来では、あいつが相棒だったんだ」
「あの人ってクロエの婚約者だったの!?」
「オイ、お前なんか違うこと考えてないだろうな」
「大丈夫だよ! お幸せに!」
「やっぱり考えてるじゃねえか!」
クロエは一花のボケの連打に心が折れそうになるが、なんとか立ち直り、説明を再開する。
「アイツは高城剛毅。未来では壊滅した自衛隊の唯一の生き残りで、研究者のためにサンプルを取る役割を任されていた」
「サンプル?」
「ああ。ギアの性能のチェックだ」
「そうなの!?」
一花が顔を青くして体をガタガタと震わせる。というより、ガタガタと声に出して震えていた。
「まさか、あの人があんな格好をするなんて……」
「違うわ! 武器の性能を試すだけだっての!」
「なんだ、よかったぁ」
「はあ……」
クロエがため息を吐く。毎回こんなやりとりをしなければならないのかと思い、気が重くなっていた。
「まさかアイツが来るとはな。前回は町の方には来てなかったはずなんだがな……」
クロエは腕を組んで考えこむ。
(おそらく、情報を公開しないようにしているのもアイツなんだろうな。悪い訳じゃないんだが、極端すぎる気もするな。でも……)
クロエの結論が出る前に七海の母親がチェックを済ませてきた。
「さて、行くわよ。一花ちゃんのお友達やご両親はもうキャンプにいるらしいから、私たちも急ぎましょう」
「はーい」
「うん」
三人はキャンプに向かって歩き出す。キャンプは警戒線から少し離れた国立公園に作られている。簡素な作りの仮設住宅が幾つも並んでおり、避難しているという実感がわいてきた。
慌ただしく荷物を運び入れている様子は事態の重さを感じさせるが、事情の説明が成されていないために恐怖でパニックが起こるというのは避けられているようだ。
「たくさん人がいるね」
「そうねぇ、町だけで二十万人はいたはずだから、この公園以外にも幾つか避難所があるでしょうね」
「結構大変なんだね」
遠くから眺めていると、一花がふと一点を見つめ、顔を明るくする。
「お父さんとお母さんだ!」
その声を聞いて一花の両親がこちらを向く。一花がいることに気付き、慌てて走ってきた。勢いをそのままに二人は一花を抱きしめる。
「ああ、一花! 無事でよかったわ!」
「お父さん、本当に、心配したんだからな。お前が駅にいるときに事件があったって聞いて、心臓が止まるかと思った」
「えへへ、大丈夫だよ」
頭をなで回されて一花は嬉しそうに口元をゆるめる。
一花の両親は再会を喜んだ後、七海の母親に向き直って礼をする。
「蒼井さん、娘がお世話になりました」
「いえいえ、こちらこそお嬢さんに娘がお世話になって」
そんなやりとりが数分続いた後、親たちが二人に向き直る。
「さて、そろそろ仮設住宅の方へいこうか。二人とも疲れているだろう?」
「うん、もうクタクタだよ……」
「私も結構疲れたかな」
「慣れないことが続いて大変だったろうけど、もう大丈夫だ。あとは自衛隊の皆さんがどうにかしてくれるだろうからね」
「そうよ。自衛隊があれだけの数がいるんだもの、何も心配はいらないわ」
大人たちの会話からは安堵の色が見て取れた。これだけたくさんの自衛隊が動くほど大規模で深刻な事態なのだが、二人の親と同様に周囲の人たちは自衛隊という強い存在がいることに安心し、心配してはいないようだった。
クロエは周りの楽観的すぎる状況を見て、首を振る。
(パニックが起こらないのは良いが、これはさすがに楽観的に捉えすぎていないか?)
緊張感のない状況にクロエは危機感を覚える。
(過剰な恐怖は行動を阻害するが、適度な恐怖があった方がいざというときに行動しやすい。この安心が崩れた途端にパニックが起きるかもしれないな)
ある程度は情報を出した方が良いのではないだろうか。クロエが考えるも、手段が無かった。
(そうならないようにするのが俺の役目なんだろうけどな。いざとなったら高城に助けを求めるか。アイツなら分かってくれるだろう)
クロエは考えを纏める。顔を上げると、ちょうど自分たちに割り振られた仮設住宅に着いたところだった。
「七海、私はお父さんと一緒に隣の仮設住宅にいるわ。一花ちゃんのご両親も反対側にいるから、何かあったらすぐ来なさい」
「え? 私はお母さんたちと一緒じゃないの?」
「私もそうしたいけれど、こんな時だからこそ、お友達と一緒にいた方が安心するでしょう?」
そう言われて横にいる一花を見る。七海に視線を向けられた一花は首を傾げた。
「……まあ、気は楽かな」
安心出来るわけではないという意味を込めたつもりなのだが、一花には伝わっていないようだった。
親たちと別れ、二人は仮設住宅の中に入っていった。