04 狗の怪
昼食もとうに食べ終え、教科書を読んで余った時間を有意義に消化していると食べかけのパンを片手にサスケが近寄ってきた。
「勉強やめろよ。またアレか。自分だけ良い点とろうとしてんのか。そういうの許せねえよ」
「こんなすごい言い掛かりは聞いた事が無いよ」
教科書を取り上げられた。
「それはそれとして、知ってるか?」
「なにが?」
「朝のHRで、八代が暫く休むって言ってたじゃん」
「言ってたような…どうだったっけ」
「ひどいやつだな」
「そんなこと言われても…」
人の気も知らずに勝手なこと言ってる…。
最近パトロールで睡眠時間が圧迫されていたから、朝は寝ぼけている事が多いのだ。
勿論それを説明するわけにはいかないけれど。
「まあそれはいいや。なんでも八代、通り魔に襲われて入院したからって話らしいぞ」
「……通り魔?」
「鋭いナイフかなんかで身体を数箇所切られたんだと。鋭すぎて逆に痕とかは残らないで綺麗にくっつくらしいけど」
「へえ……物騒だなあ。命に別状はないの?」
「血を流して倒れてるところを見回りのシルバー会が見つけたんだそうだが、あと十分遅かったらヤバかったんじゃないかって噂」
「怖い話だな……確か八代君って地元だったよね、住んでるの」
「あの四丁目のコンビニの先いったとこだな」
「じゃあ僕らも他人事じゃないじゃないか」
「うむ。そこで頼みがあるんだ…倉敷って剣道部だったよな」
「一応ね」
半幽霊部員だけど。
急にモジモジして、斜め下を向く。
「……一緒に帰ってくれないか?」
「君って奴は」
/
「通り魔ー!通り魔ー!」
春菜が通り魔を連呼しながら、竹刀を振り回して歩いている。
その顔は好奇心で輝いていた。
「やめろよ、通り魔って言うと通り魔が寄って来るぞ」
サスケは妙に周りを気にしながら春菜の後ろをついている。
なんだろう、あの二人は僕と同い年じゃなかったっけ…。
彼らの精神年齢がとても心配な僕だ。
/
「ちっ、出なかったわ」
悔しそうに竹刀をばしんと豪快に地面に叩きつける。
剣道家なのに竹刀を大切にしないね。
「八代君が襲われたのだって夜の十時過ぎだっていうし、こんな時間には出ないでしょ」
「ふうん…ま、いっか。じゃ山田、あたしたちここだから」
「あたし…たち?」
「ああ…僕らは住んでるアパート同じなんだ、知らなかった?」
「まじか」
サスケは何か言いたそうにアパートをじろじろと見ていたが、春菜に竹刀で頭を叩かれると足早に逃げていった。
「ま、山田があんな眼で見るのも解るけどね…」
溜息混じりにアパートを見上げる。
二階建ての赤茶色で古びた建物。
階段は錆びだらけで、ところどころに白色のペンキの欠片が剥がれずに残っているのが余計にみすぼらしく見える。
一階の一番端の部屋は窓ガラスが割れていたが、最近入居者がないので新聞紙が張り付けられるだけの処置が為されている。
一言で言ってしまえばあばら家だ。
今時こんな住宅街にここまで露骨なものが残っているのも珍しい。
「でもこれでも、随分綺麗になった方なのよね」
「…昔はもっと酷かったからね」
「そうね…」
懐かしそうに眼を細めた。
そこに何を見ているのか僕には分からない。
きっと僕とは違うものが見えているのだろうし。
/
「さて、どうしよう」
ステッキを前に座り込んで考え込む。
思い出されるのは昼間のサスケの話。
彼は通り魔と言ったけれど、八代君というのはあまり素行の良い方ではなかった。
だからもしかすると喧嘩……つまり、私怨かもしれない。
僕はそんな風に考えていた。
「あきら、パトロール行かないなら眠っていいけ」
「…何か言った?…ごめん、聞こえなかったよ…」
「ごめんなさい」
でももし本当に通り魔だとすると…僕の本来の標的とは異なるが、やっぱり捕まえておきたい。
僕はただの高校生で、もしかするとただの高校生よりもずっと非力かもしれないけれど。
変身さえすれば恐らく簡単に捕まえる事が出来るだろう。
出会ってしまってから変身していては間に合わない。
かといってあんな格好で夜道をうろついていたらえらいことになってしまう。
「うーん…」
………まあ、大丈夫かなあ。
自転車でパトロールしているわけだし、仮に出会ってしまっても撒くことが出来るはずだ。
一端距離をとってから変身して取り押さえて、変身を解く…。
予め「出るかも」という心構えがあるならそう難しいことではない。
ステッキとヒカリを握って、僕はいつものように夜の世界へ足を踏み出した。
/
空気の膜がぬとりと肌に巻きついたようだった。
とても生暖かくて気色悪い。
まるで普段とは全く別の世界に迷い込んだような、馴染まない違和感がある。
「ヒカリ」
「…う?お…お、起きてるぜ!ごめんなさい!」
「そんなにビクビクしなくても。起きてるなら謝る必要ないし。ところで何か…感じない?」
「ん…?」
ヒカリは口を閉ざし、不意に鋭い目になって辺りをきょろきょろと見渡し始めた。
「まだ、特にはなんもないわさ」
「そう?」
…そうか。
気のせいなのかな。
空には大きな大きな満月が浮いていて、青白い光に夜道が満たされていた。
その幻想的な風景が僕をさらに不安にさせる。
……どうもいやだな。
何かが起こりそうな。確信に近いようなざわめき。
/
デジタル時計のディスプレイに緑色の光が浮かび上がる。
もうあと三十分もしないうちに、日付が変わろうかという時間。
「そろそろ今日はお終いにしようか。眠くなってきたし…明日の学校にも響いてしまう」
「そうだな、あてしも寒いし眠かったけど今日は頑張ったわさ」
「君は僕のポケットの中に居るだけで、僕が学校に行っている間は家でグーグー寝ているね」
「それは、あくまで仮にだぜ」
「何をわけのわからないことを言っている」
彼女は日本語を本当に理解しているのか。
時々そんなことを思う。
もし理解していてこれなら頭が心配だし、理解しないで適当に話を合わせているという事なら僕を舐めている。
どちらにせよあまりよろしくない。
「あっ…」
「どうしたの」
ヒカリを見る。
髪の毛の一部がアンテナのように空へ向かって伸びていた。
「…………」
/
「ヒカリ!次は!?」
「右!たぶん!」
付け加えられた多分がものすごく不安だが、気配を感じることの出来ない僕は従うしかない。
指示された通りにハンドルを切り、曲がりきったのと同時にペダルを全体重で踏み込んですぐに最高速度まで達する。
「くうう……急がないと!!」
「学校休めばいいぜ!」
「簡単に言うな!」
真っ白い息を吐き出しながら、ペダルを大急ぎで踏み込む。
これ以上遅くなったら明日がつらい…!
「あ、ああああああああああああ!!!?」
一心不乱にペダルを踏み込んでいると、ヒカリが急にそんな叫び声をあげた。
身体のサイズは特に関係しないらしく声量は人間のそれとほぼ同じであるのでとてもやかましい。
「あああああー……!!?」
「うるさいよ!突然なにを叫んでるのさ!」
ブレーキをかけて一旦停止する。
「消えたぜ」
「なにが?」
「アガリ○ス茸で癌が消えた――!」
「もし本気でそれが用なら君をここに叩き落していかなければならない」
「いや、そのまま言ったら激震が走るから空気を和ませようと思ったんだぜ」
「……和んだ。十分和んだから激震を起こしてよ」
「黒いものの気配が、消えたぜ」
「………」
「………」
「うん」
「激震起これよ。あてしを甘く見てんの?」
「そんなこと言われても……ただひたすら喜ばしいじゃないか。早く帰って寝よう」
「だってだって!黒いものが自然に消えるなんてありえないんだぜ!」
「ありえないたって、じゃあ現……に…………」
突然。
背筋がヒヤリと冷たくなった。
本能に任せるまま咄嗟に身を庇いながら自転車を捨てて横へ大きく跳ぶ。
その衝撃でヒカリがコンクリートにバウンドして遠くへ転がっていったがそれどころではない。
鈍くて重い金属音が周囲に響いた。
見れば、つい一瞬前まで僕が跨っていた自転車が真っ二つに分かれている。
「な、な、な…!?」
考えがまとまらない。
心臓が痛い。
必死に息をしているのに、脳まで酸素が行き渡らなくてくらくらする。
……一瞬飛び退くのが遅れれば、僕もきっと自転車と一緒に真っ二つだった。
だって、だって…それって、死――――――
「なぜ、避けることが出来たの?」
「!?」
声。
すぐに振り向く。
そこには真っ黒いドレスで長い黒髪の、黒で統一されたような少女が夜に溶け込むように立っていた。
手にはなんの飾り気もないすらりと伸びた西洋の剣を握っている。
わけがわからない。
なんだ、このあまりにも非現実的な状況は。
思考が完全に停止している。
「興味が、あるわ」
目を細める。
その奥で冷たい炎が揺らいだ気がした。
「ちょ、ちょまああ!」
金縛りにあったように動けない僕の前にヒカリがすべりこんで来る。
「ちがうぜ!こいつはちがう!」
「……ふうん」
彼女達はそんなわからない言葉を交し合った。
黒いドレスの少女は剣を剥き出しに持ったまま背を向けて、ふらりとどこかへ消えてしまう。
「あ、あぶなかったぜ……」
「…………あ。うん」
僕は、ただそれだけを返すのが精一杯だった。
/
どのくらいの時間が経ったのか。
両断された愛車を前に座り込んでぼうっと月を眺めていた。
人はあまりに常識からかけ離れた事態に遭遇すると冷静さを取り戻すのにかなりの時間を要する。
「というわけで、なんとか少しだけ冷静になったよ」
「おめ~」
「おめ~…じゃない。……さっきのみょうちくりんな黒いドレスを着ていた人は一体…」
「自分だって同じようなの着てるクセに」
「…………やっぱりか」
溜息。
「もしかしたらと思ったけど僕のほかに……。あの人も、天界から選ばれた人なんだね」
「そうだぜ」
「………はあ~~~」
溜息が止まらない。
「君は一体あといくつ、大事なことを僕に言い忘れる気なんだ…」
「わかんない☆」
ウインクしてみせる。
額に向けて指を弾くと、呻き声をあげて数メートル吹っ飛んでいった。
「…うぐ、ぐ……と、とりあえず…これ以上殴られない為にも…思い出した事から言っておくぜ…」
「賢明だね」
「他にもまだ、五人いるぜ」
「僕と、さっきの人と…?」
「あと五人」
全部で七人………ということかな。
そんなにいるんだ……。
「はあ…多い分には助かるし心強いんだけどね」
でも、さっきの黒い人は……。
もしかして彼女は。
剣を持って。
突然切りかかってきた。
あれは…つまり。
…通り魔の正体は。
/
「映。その頬どうしたの?」
「うわっ!」
昨晩の事を考えながらぼうっと窓の外を見ていたら、突然やわらかい手が頬に触れた。
思わず飛び上がってしまう。
「うわって何よ、失礼な」
「…は、春菜か…」
「さっきからずっとここにいたわよ」
春菜は僕の前の席に、後ろ向きでだらしなく座っていた。
まったく気がつかなかった…。
「パンツ見えてるけど」
「この位置だと見えないって」
「見えてるんだってのに」
「それで、頬どうしたの?」
「え……?」
自分の頬に触れてみる。
ざりざりと嫌な感触があった。
春菜に差し出された手鏡を覗くと、真っ赤なかさぶたが幾つかの線になって走っている。
時間が経って腫れてきてしまったらしい。
「ああ…これは昨日、自転車で転んだ時だと思う」
「ふうん……」
パックの牛乳をずるずる吸い込みながら、据わった目で僕の傷跡を見つめてくる。
かなり怖かった。
「…ま、転んだ傷だっつーならいいのよ」
「嘘は言ってないよ」
「でも、いじめられた傷なら正直に言いなさいよ」
「いじめって……僕らもう高二なのに」
「やる奴はまだやってるわ。きっといる。このクラスにも、目立たないだけで…いるはず。
そういう奴らはいなくならない。ゴキブリみたいに、必ずいる」
憎々しげに眉を寄せて、空になった牛乳パックを握りつぶす。
「必ず言いなさいよね。あたしが叩きつぶすわ」
僕の頭の上にぽんと手を置いて、女子のグループの方へ手を振りながら歩いていった。
春菜はまだ過去を引きずっているらしい。
/
「さっきの倉敷と酒寄の会話を盗み聞きしてた」
「しないでよ」
「いやなんつーの。徐々に近くに寄りつつ耳を澄ませてたら聞こえちゃったつーか」
「それは盗み聞きだね」
「いいじゃん」
僕の周りにはこういう奴しかいないのか。
「なにやら只ならぬ会話じゃないか。前々から聞こう聞こうと思いつついざ話すと全部忘れてたから聞けなかったんだけどさ」
「それ若年性痴呆じゃないかな」
「もしかしてお前と、酒寄ってアレなのか」
「……アレじゃないよ」
疲れるなあ。
「今までも何回か聞かれたことあるけどさ。ただ、僕らは協力関係なんだ。それだけ」
「協力関係?」
「そう。小学生の頃のくだらない約束だけど。今は別にそういう機会もまるでなくなったし、僕は自然消滅したものだ……と」
視線が止まる。
「どした?」
「さ、サスケ。あの人のこと知らない?」
「なんだ突然慌てて。どれだ?」
「あそこに今曲がった、長い、あの、黒髪の!」
「んーー……?」
「ああ……もう見えなくなっちゃった」
「見えんかった。そいつがどうかしたのか?」
「ええと」
なんと説明したものか。
「ちょっと、色々……」
「……長い黒髪ね。で、身長は?」
「サスケよりちょっと低いくらい…だと思う」
一目見ただけだからはっきり言えないけど。
「うーむ、じゃ普通だなあ…黒髪ロングは少なくなってきてるけどよ、そんだけじゃな。他になんか特徴あるか」
「…とても奇麗な人だよ」
「珍しい、倉敷のくせにそういうこと言うなんて」
「客観的に見てるだけだよ。それで、心当たりはある?」
「奇麗、黒髪、ロング。これだけじゃ俺にはな…。知り合いに女子データベース作ってる奴が居るから聞いてみるか」
そんな奇人がこの学校には潜んでいるのか。
「普段は週に一回しか聞けない上に一度に一人しか教えてくれない頑固なヤツなんだが、突発イベントだからなんとかなるはずだ」
何を言っているのかまったく解らないけど頼っておこう。
「ああ、でも!」
「うわっ、大声出すなよ!」
「ご、ごめん。もしその人の目星がついても絶対近づかないで。いい、絶対にだよ」
「なんでまた?」
「…もしかすると、ちょ、ちょっと…危険な人かもしれないんだ」
「……??ま、いいけど」
そう、もしかすると。
…通り魔の正体かもしれない。
/
「映。部活行かないの?」
「ちょっと今サスケを待ってるんだ。用事が終ったら追いつくから、先に行ってて。…あー…でも、行かないかもしれないけど」
「ふーん」
春菜は僕の隣の席へ腰を下ろして、勝手に机の中を漁って漫画を読み始めた。
「部活は?」
「一人で行ってもつまんないし」
「武道場行けば一杯いるよ」
「弱いのがねえ」
けたけた笑う。
聞いたらみんな怒るぞ。
/
ヒカリは僕らが選ばれるのは正義感ゆえだ、と言っていた。
ならなぜ彼女は通り魔なんかしているんだろう。
正義の味方のはずなのに。
何か理由があるのか。
それとも僕の考えすぎか。
……昨晩、僕のことを襲ってきた。
彼女とは面識がない。
じゃあそれは理由もないのにやったということになってしまう。
ますます通り魔以外の何者でもない…事になるかな。
だって……避けなければ、死んでいた攻撃だったんだ。
殺す気だったんだ。
迷うこともなく……出会い頭の一撃で。
自分の頬を弄りながら悶々としていると、サスケがスライディングしながら教室に飛び込んできた。
「お帰り」
「うむ。中々有意義な時間だった」
「どうだった?」
「すごかった。少し見ない間にデータが増えてた。全校生徒網羅まであと一息だそうだ」
「ひどいね」
「……なになに?何の話?」
愉快そうな臭いを嗅ぎつけたのか、漫画を顔の上に広げていびきをかいていた春菜が眼を覚まして寄って来る。
「春菜には関係ないよ」
「うむ。これは男同士の話だ」
「…えっち」
ジト目で睨んでくる。
ヘンな勘違いをしてそうだけど、あまりつっこんで嗅ぎ回られても困る。
そのままにしておこう。
「…それで、長い黒髪で、そこそこ見れるレベルつったらこれくらいらしい」
春菜に聞こえないように声を潜めて僕に紙切れを差し出してくる。
受け取って中身を見てみると、顔写真が貼り付けられクラスや名前に加えて他にも細かいデータがびっちり書き込まれていた。
「汚すなよ。後で返すんだ」
「うん…大丈夫。これ作った人、ほんとにひどいね」
「見る事にエクスタシーを感じるタイプの人間だから自分から事は起こさないって言ってた。好きなAVのジャンルは盗撮系らしい」
「盗撮は事を起こしたうちに入らないってことなのかな」
「そうなんじゃねーかな」
「起こしてるからね、それは起こしてるってことだからね」
何か事件にならないことを祈りつつデータに目を通していく。
全部で五人。
三年生に三人、二年生と一年生には一人ずつだ。
全校生徒のほとんどを調べ上げた中でレベルを判断したというのは伊達じゃないらしく、みんな奇麗な人ばかりである。
視線は必ずどこか見当違いの方向を向いていて、表情も自然だった。
許可を取らずにこっそりと撮り集めたんだろうなということがひしひしと伝わってくる。
その中に一枚だけ視線がカメラ目線…つまり、撮られたことに感付いている人物が居た。
慌てて逃げたのかなんなのか唯一写真が少しブレている。
「三年一組…祁答院司…先輩、か」
「そいつが探してた奴?」
「うん……」
本当に同じ学校だったとはね……。
「データがこの人だけいやに少ない…」
「いつも一人で居るから、周りの奴に聞いても知らない尽くしなんだってさ」
「ふうん……部活は未所属なんだね」
「さすがにそれくらいは解るよな」
じゃあ今日はもう帰ったかな…?
いや、三年生だし、図書室で勉強している事もあるかもしれない。
一応行ってみようか……?
…でも、僕は今ステッキを持ってきていないし、もしいきなり襲われたりしたら…。
明日ヒカリも連れてきて、ステッキもちゃんと準備して。
万全の状態で話を聞いてみるべきだろう。
「ありがとう、サスケ。この人にもお礼を言っておいて…」
「お礼なんて言う必要ないって…。こんなん見つかったらこいつ、女子に抹殺くらうわよ」
いつのまにか春菜がサスケの後ろに立ってデータをじろじろと眺めていた。
「…うわ」
「何を見てるのかと思ったら、女の子のデータ?うわ、星五つ~とか書いてある。きも…」
「い、いいだろ。借り物なんだから早く返せよ」
サスケは怯えながらなんとか春菜の手からデータを奪い取った。
「映も偉くなったもんね……あー呆れた」
溜息混じりに僕への悪態をつきつつ、漫画の角でなぜかサスケの頭を小突く。
「どうでもいいけど、山田」
「な、なんだよ…」
「あたしのデータが気になる」
/
荒れ模様だった春菜からようやく解放されて、自宅の床にへたりこむ。
「は~………」
星が四つだったのがよほど気に入らなかったらしい。
なぜか僕までとばっちりを受けてしまった。
いいじゃないか、四つで……。
通知表で言えば『良い』なのだから、喜ぶべきだ。
僕なら最低評価でさえなければなんだっていい。
「ねえ、ヒカリ…」
「ヒカリだぜ」
「疲れてしまったから…夜まで少し寝るよ。起こしてくれる?」
「あてしがそのとき起きてたら」
「僕が帰ってくる今の今まで寝てたクセに……。とにかく、頼んだよ」
着替えもせずにそのまま眼を瞑った。
なんだか最近色んなことがありすぎて……。
全身の力を抜くと、途端に疲れがどっと押し寄せてきた。
/
埃の舞い散る空気の篭った図書準備室。
彼女は正規の図書室ではなく、誰も近寄らないこちらを特に好んで使うのだということを小耳に挟んだ。
積み重なった本に何気なく手を置くとそれだけで指先が真っ黒に染まってしまう。
なるほど、これなら人が来ないのも納得できる…。
「さて…ヒカリ。準備はいい?」
小声で囁く。
ヒカリは返事の代わりにポケットの中で激しく転がって見せた。迷惑だった。
ターゲットは部屋の一番奥で椅子に座ってなにやら読書に耽っているようだ。
本を読んでいるからだろうか、彼女は薄いレンズの眼鏡をつけていた。
「祁答院…先輩ですね」
意を決して、ゆっくり近づきつつ呼びかける。
見たところあの夜のような長い刃物を近くに置いている様子はないけれど、小さなナイフならどこにだって隠せるだろう。
気だるそうな様子で本を閉じて、ハードカバーの上に眼鏡を置きゆっくりと顔をあげた。
昼間、明るいところで改めてこうしてみると本当に奇麗な人だ。
「こんにちは。後輩」
澄んだ鈴のような声だった。
けれど決して心地よくはない。
首を締められているようだと思う。攻撃的だ、と。
「…驚かないんですね」
「この辺りには高校は此処一つしかないから。なら、中学生か、ごく少数の遠方の私立を選ぶかした生徒でなければ同じ学校に居ると思うでしょう。その確率が、一番高い」
僕が言わんとすることもすぐに察したようだ。
頭の回転も速いらしい。飲まれないように、気をつけないと…。
「ただ一つ驚いたことがあるとすれば」
区切って、僕の頭のてっぺんから足先までをじろじろと舐めるように見てくる。
「あなたが男の子だったということかしら」
「だよな!やっぱり男には見えないぜ!あてしの責任じゃないということが今ここに明らかに―――」
ヒカリがもう顔を出していいと勝手に判断したらしく、ポケットから頭を覗かせてゲラゲラ笑い出す。
頭を掴んで再びポケットの中にねじ込んだ。
「おもしろい子ね」
「馬鹿なだけです…。その、先輩もこの、ヒカリに任命を受けて?」
「ええ。多分同じ子だと思うわ」
そうなのか…。
僕とヒカリが出会ってからヒカリが単独でどこかへ行った事はそんなに多くないし、そのいずれも短時間だった。
ということは七人の中で僕が最後だったということになる。
「代行者は女だけと聞いたのだけれど…」
「代行者…ですか」
「私や、貴方のような人のことよ。まさか知らないわけじゃないでしょう」
「ええ……まあ」
代わりに行う者、か。そのまんまだ。
例によってネーミングが安直というか…何も考えていないというかね。
「ヒカリが暗がりだったので間違えて僕を選んだんだそうです」
「ふうん、それで、問題はないの?」
「特には。変身も――――――」
言いかけてやめる。
それはつまり女装をしていますと言うようなものだ。
「…大丈夫よ。貴方の顔で女向けの服を着れば、誰も男の子だとは思わないわ」
余計に落ち込むフォローだった。
「ああ、それからこれ」
彼女は鞄の中から茶封筒を取り出して突き出してくる。
恐る恐る受け取って中身を覗いてみると、数枚の一万円札が入っていた。
「な、なんです、これは」
「私が自転車を壊してしまったでしょう。その弁償金よ。
こんなに早いとは思わなかったけれど、そのうち来るだろうなと思っていたから…」
「ああ」
そうか。
それならわざわざ突き返す理由もない。
ありがたく…というのも変だけど、受け取っておこう。
少し、イメージが変わってくる。
「…それにしても先輩は、なぜあのとき僕を狙ってきたのですか?」
「黒いものの気配と、同じ代行者の気配はとても良く似ていたの。
一度判別したからもう間違えることは無いと思うわ。ごめんなさいね」
「そうだったんですか……」
ほっとする。
杞憂でよかった。
「……ん?…あれ?…先輩は、黒いものの気配が解るんですか?」
「そうだけど?」
それがどうしたと言わんばかりの反応だ。
普通の代行者なら気配を察する事が出来るらしい。
ならなぜ僕には出来ないのかといえば…。
普通じゃないから、だな……。
「そう。男が代行者になるっていうのは、やっぱりイレギュラーなのね」
「そのようです…。あと…もう一ついいでしょうか」
「質問によるわ」
「先輩があの晩持っていた剣は…」
「これよ」
どこからともなく黒い棒を取り出して見せる。
「これは……。先輩の変身ステッキですか?」
全体的にとても質素で、僕のように妙に安っぽい宝石や飾りはついていない。
思い返してみれば先輩は服も僕ほどはピラピラしていなかったし、色もシックだった。
なんなんだろうこの差は。
「そうよ…代行者になると、このステッキが剣の代わりになるの」
「……僕のはそんな風になりませんでした」
「一人一人違うのか…でなければ」
ちらりと僕の顔を眺めて、
「イレギュラーだからでしょうね」
そう締めくくった。
/
「それじゃ私はもう家に帰るわ。こう見えても受験生だから」
「そういえば、もう十月ですしね、時間が…あ」
悪い事を言ってしまった。
「…いいわ。そんな顔をしないでも。一応勉強はするときにしているから」
「申し訳ないです」
「いや、腹を切らなきゃだめだぜ」
ポケットに押し込んだ。
「ああ、先輩」
「…?」
「良かったら協力しませんか。担当を決めてその、パトロールをしたり。お互いに情報を交換したり…」
下唇に人差し指を添えて、考える素振りを見せる。
「…私は私でやるわ」
「……そ、そうですか」
まさか断られるとは思わなかった。
同じ目的をもっているのだから、組んだところで別に不利益をもたらすようなことは何もないのに…。
「でも、一つ貴方に教えてあげる」
「はい」
「今黒いものが取り付いているのは、犬よ」
「犬……、ですか?」
「ええ。それももう、かなり感染が広がっている。早いところ本体を見つけ出さないと、いずれ街が犬に喰らい尽くされるわ」
「か、感染って…一体どういう…!?」
「…呆れた。貴方、ほんとに何も知らないのね」
「う…」
ポケットの中のヒカリを軽く叩く。
自分の所為じゃないとでも言わんばかりに、激しく中で暴れていた。
ヒカリの所為じゃないなら誰の所為だよという話なんだけど。
「黒いものは単体では何も出来ない。だから、手当たり次第に取り付いて活動をするの。…流石に、ここまでは解るわよね」
「はい」
「取り付いている間黒いものは徐々に増え続けるのよ。
やがて、その固体に入りきる限界まで増えれば、外へ漏れ出して、同種のモノに取り付くわ。
犬なら犬に。猫なら猫に、という形で…。そうして、被害が拡大していくの」
「……!!」
そんな、滅茶苦茶…。
「但し、増やす性質を持つのは最初の一体だけよ。
……だからそれを探して駆除すれば、増えた犬は今までどおり暴れているとしても、少なくともそれ以上数が増えることはない…。
黒いものとの戦いは、時間との戦いでもあるということね」
握り締めた手が汗をかいていた。
「あと、そんなに何も知らないなら納得だけれど…。貴方、夜警をしているなら代行者の服を着てからになさい」
「…なぜ、でしょうか」
「取り憑いた犬は、人を襲うわよ。もう何人もが犠牲になって病院に入院しているでしょう…?」
通り魔……。
そうか、黒いものが取り憑いた犬がその正体だったのか!
「貴方もし夜警中にそれに出会って…そのままの状態で、駆除ができるの?…犬の脚力から逃げ切れるの?」
答えられない僕を蔑むように見下ろして、彼女は廊下を去っていった。
/
「…こんなに重い事態になっているのに、僕はあまりにものん気だったな…先輩に一人でやるって言われるわけだよ…」
「ださいぜ」
「返す言葉も無い」
ヒカリはつまらなそうに口を尖らせた。
彼女はもしかすると構って欲しくていつもヘンな事を言うのかな。
「…変身を、しよう」
ステッキを握り締める。
八代君とは話したこともないけれど、襲われて大怪我をしたのはかわいそうだと思う。
先輩の話によれば他にも何人もの人が同じ目に遭っているのだという。
そしてこれからもまだまだ起きるだろう。
でもそれは…僕が一人、ちょっと恥ずかしい思いを我慢すれば未然に防げるかもしれない…!
「………マジカルイリュー!!」
ヒカリが両の目をこれでもかと言わんばかりに見開いて、僕の様子を観察している。
何の嫌がらせだこれは。
僕は無言で近くの布切れを手にして、ヒカリの目と耳を同時に塞いでから変身を終らせた。
/
夜の街を駆ける。
身体中に力がみなぎっていて、景色が今まで体験したこともないような速度で後ろへ流れていく。
もしかすると自転車で全力疾走をしていたときよりも早いかもしれない。
何より疲れがほとんど無いのだ。
「…デザインがこうじゃなければ、これ以上便利なものはないのに…」
「むが、もがあ」
「…ああ、ふさいだままだった」
走りながら片手間で巻きつけた布を外す。
ヒカリは何か僕に対して文句を叫んでいるようだったけど風の音が耳を切って何も聞こえなかった。
/
「きーたーぜー」
「きたか!」
ヒカリの髪が鋭く空めがけて突き立っている。
「ヒカリ、どっち!?」
「あっち」
指差された方向には民家があった。
「この中…!?」
「いや、ずっと先だぜ」
「……っ」
駆除は、時間との戦い―――。
回り道をしている暇などない!
「…よし!」
僕は数度アスファルトの感触を確かめて軽く跳んだ。
ブロック塀の上に着地し、勢いが死なないうちに更に大きく跳躍をする。
僕の身体はみるみるうちに地面から距離を離して、音もなく瓦の屋根に着地を果たした。
「おお、世界忍者戦」
「この上なく気分がいいよ…。こんなときじゃなければね」
浸っている場合ではない。
屋根の上で助走をつけて、再び空へ向けて駆ける。
屋根から屋根へ。
空を飛ぶように。
/
飛び掛る犬の鼻頭を掴んで地面に叩きつける。
鳴き声をあげるどころか、怯むことすらなしに僕の手を跳ね除けて犬は再び襲い掛かってきた。
慌てて飛び退いて振るわれる前足の鋭い爪を避ける。
犬の吐き出す、言葉では言い表せないようなひどく臭い息が通り過ぎてゆく。
「っ…!」
犬の顔面に足の底を叩きつけて反動ついでに更に距離をとる。
犬はぶつけられた衝撃で後ろに吹き飛んではいたけれど、やはり怯んではいないようだった。
「……まずいね、あれは。痛覚がないみたいだ」
それの姿を改めて見る。
頭から尾の先までが漆黒に染まっていて、元の犬種がなんだったのかも解らない。
まるで影絵のような平面的な黒さ。
その中で爪と牙だけが薄らと銀色の光を放っている。
見るだけでその鋭さが常軌を逸していることが解る。
あんなもので切り裂かれたら、ひとたまりもない―――。
「あきら」
「ん。ヒカリか。ごめん、今はちょっとマジだよ。冗談に付き合ってる余裕はあんまりない……!」
言い終わると同時に駆けて、大きく開かれた口を避けつつ眼球へ向けて親指を差し入れる。
視力を奪ってしまえばかなり無力化できるはず……!
しかしそこには何の感触もなく、ずるりと中へ指がただ滑り込むだけだ。
恐ろしくなってすぐに引き抜いたけれど、その一瞬の隙を突かれて二の腕を切られてしまう。
「いつ……」
血が染み出してくる。
一緒に服も切れてしまったが性能に問題はないようだ。
もしこの服の恩恵が突然途切れてしまったらと思うと、ゾっとする。
「今のでわかっただろ」
「つ……何が?」
「あれはもう犬じゃないわさ。犬の形をした何かってだけだぜ。眼は腐り落ちてるけど、そんなのなくても見えてる」
「…………」
「遠慮をするな。もっかい言うけど、黒いものに取り憑かれたらそれを駆除するしか、道は無いぜ」
「……解っ…てる!」
飛び掛られる寸前で頭の横から思い切り蹴りを叩き込む。
ボールのように大きく軌道を描いて遥か遠くにぐしゃりと落ちた。
それでもなお立ち上がって、こちらへ一直線に駆けてくる…。
…そう、あんなのはもう犬じゃない…。
そんなことは解っている。
「はあ…ふ……う。…なんだか走り方が不自然だね」
「今ので足が折れたんじゃね?」
「……ということは、骨はあるわけだ」
ベルトに挟んだステッキを引き抜いて正眼に構える。
犬の動きは単純だった。
殴られようが、叩きつけられようが、吹き飛ばされようが、
兎に角起き上がって一直線に標的…つまり僕へ駆けてきて噛み付こうと口を開くか引っかこうと腕を伸ばすかしかない。
でなければいくら変身によって僕の能力が向上しているとはいえ、ベースはただの高校生でしかない僕がここまで対応できるわけがない。
「……ふう」
深呼吸を一つ。
……ごめんよ。
ステッキの感触を確かめつつ、足をじりじりと開いていく。
土を蹴って勢い良く迫ってくる音が響く。
黒い影の前脚が、凄まじいスピードで迫ってくる…。
「一、二…」
口が大きく開かれた。
僕の喉元へ向けて距離を詰めてくる。
ほんの少しだけ軸をずらしてそれを避け…首の根元へ向けて――――ステッキを叩き込む!
「三!」
重々しい感触が腕を伝わる。
犬は地面に思い切り叩きつけられてひくひくと暫く痙攣を続けていたが…、
一分もしないうちに完全に停止してしまった。
すう、と、口から抜け出た黒い光が渦を巻き空へ登っていく。
後には苦悶の表情を浮かべたまま横たわる茶色い犬の屍体が残された。
「…あきら…え…なに?なにした?」
「首の骨を折らせてもらった。これでもまだ動かれたらどうしようと思ったけど、よかった…かな。
これはもう死んでしまったからあまり適切な言葉じゃないけどね」
本当は心臓を潰すのが一番確実なんだろうけど、僕は先輩のように刃物を持っていない。
「驚いたぜ、あきらって強かったのな…あてしにやるなよそれ」
「…つっこむことしかしないからだよ。パターンさえ解ってしまえば、あとは誰にだって出来る」
「ほー…」
春菜から一本取るよりはずっと楽な相手だ。
まさか剣道をこんな形で使うことになるとは思わなかったけれど、芸は身を助けるものだな…。
「これは首輪をしているね。飼い犬みたいだ」
「どうも、これは本体じゃないみたいだぜ」
ということは根本的な解決にはならない。
「…そっか。どう、ヒカリ。近くにまだ居そう?」
「ああ。あの林の向こうあたりに。二十くらい居るけど、徐々に減ってる。多分、外道院がやってるんだろ」
「外道じゃなくて祁答だよって、そうじゃない。先輩が来ているの!?」
「多分」
「い、急いで援護に行こう!」
/
舞でも踊っているようだと思った。
青白い輝きを放つ刀身が暗闇の中に揺れる。
次の瞬間には先輩から何メートルも離れた犬の首がごろんと落ちて、黒い粒子が抜け落ちてゆく。
その隙を狙って近づいた犬には返す刀で直接切り裂いて絶命させる。
飛び退いて再び剣を振るうと、先輩へ向かって駆けていた犬の首が空へ跳ねた。
次々に、剣を一振りさせる度に確実に数を減らしていく。
辺りには生首と胴体が離れた夥しい数の犬の屍体が散らばっていた。
「……は、離れた相手を斬ってる…!?」
「あれはきっと…魔○剣だぜ」
「そんなものが使えるんだ!!?」
自分のステッキを見る。
試しに犬の一匹へ向けて振りぬいてみたけれど、離れた相手を殴ることは出来ないようだった。
剣にならないのも、あんなオプションがつかないのも、僕が男だからなのか…。
「…なんて不公平なんだ」
「ところで助けに入らなくていいのけ」
「そ、そうだった」
駆けて、手近な一匹の胴を真横から蹴り上げる。
浮いた身体が地面に触れる寸前に、バットをスイングする要領でステッキをぶち当てた。
「オッスオラあきら!助けに来たぜ、外道院!」
「今の発言は僕ではないです!」
先輩は冷たい目で僕らを見たが、何も言わずに目を逸らしてしまう。
のん気に喋っている暇はないってことだな。
「ヒカリ、落ちないようにしがみついてるんだよ」
「わかった」
もうコツは掴んだ。
その生物の構造的に絶命してしまうような衝撃を与えれば黒いものも同時に駆除が出来る。はずだ。
ステッキを正眼に構え勢い良く駆けてくる犬を待つ。
「あきら!横からきてるぜ!」
「!?」
慌てて飛び退く。
一瞬前まで僕が立っていた場所に牙を剥き出しにした犬が通り過ぎていった。
「…あ、あぶな…!」
「あきらー!!まえーーー!!!」
「!!」
今度はさっきまで僕が相手にしようとしていた犬だった。
慌ててステッキを薙いで、犬を遠くまで吹き飛ばす。
あんなものじゃ絶命どころか骨の一本も折れていないだろう。
「あきら、どうしたさっきの勢いは!」
「い、いや…剣道は対多数なんてやらないものだから…」
…これはまずいな。
首の骨を一撃で折るにはタイミングを合わせるのに相当意識を集中しなければならない。
だのに、これじゃあ……。
「あきら!」
「解ってる!」
向かってくる犬の顔面を蹴り飛ばす。
続けざまに背後から迫っていた犬にステッキを叩きつけて距離を図る。
でもこれじゃあいつまで経っても同じことの繰り返しだ。
「ど、どうしよう…」
「マリオネットから水鳥剣とかやればいいぜ」
「できない!」
再び駆けてきた犬へステッキを叩きつけようと身構えたが、その前に犬の首は地面に転がり落ちた。
「……あ」
「何も出来ないのなら、下がっていなさい」
「……す、すみません…」
僕はすごすごと引き下がった。
/
手際よく駆除されていく犬の群れを、離れた木の上からぼーっと眺める。
先輩の動きは洗練されていて無駄らしき無駄がまるでなかった。
まるでよく練習した殺陣を見ているような気分だ。
犬が「斬られるために」飛び込んでいくような印象さえ、受ける。
その中にまごつく僕という異分子が入り込むのは、そのまま劇の破綻に繋がるのだろう。
「ヒカリ……僕にはああいうの、出来ないのかな」
「やって出来なかったなら無理ってことじゃね」
「んな無責任な…」
「ワニワニパニック!」
「どうしてそんなに緊張感がないの……」
ああ…もどかしい。
「……ん!」
「どうしたの?」
「来たぜ、大本が」
「ど、どれ?」
「あれ」
ヒカリの小さな手が指した相手を目で追う……。
「あれか」
見た目は他の犬と変わらない影絵のような姿をしていたけれど、その存在感は確かに異なっていた。
その証拠というべきか、他の犬がただ突っ込むだけなのを止め様子を見るように先輩の周りをぐるぐる回り始めている。
「なにしてんだあいつら。ばかなの?」
「……犬は、元々は群れを作る動物なんだ。群れを作るってことは、リーダーが居るわけ」
「じゃ、あれが同時にリーダーになってるってことか」
「たぶん………。これからチームワークを活かしてくると思うんだけど、先輩は大丈夫かな」
残りの犬はあと五…いや、六か。
黒いものが取り付いた大本を含めれば七匹。
僕がここに駆けつけた時と比較すれば半分以下に減っているけれど…。
もしかすると戦略的になった分その強さは半分に減る前よりも上回るかもしれない。
「……」
『遠当て』も射程範囲外なのか先輩は動かずに犬の出方を窺っていた。
どちら側も自ら仕掛けない、さながら西部劇のような緊迫した空気が流れている。
僕らには聞こえない犬同士の会話で、作戦を練っているのかもしれない。
それが終る前に駆除できるのが一番いい……。
「よし……。僕が、あの親玉を仕留めよう」
「まじか」
「うん。親玉に僕が飛び掛れば親玉は僕の相手で精一杯になってまともに指示を出せないと思うんだ」
「でも、そしたら他の犬が邪魔しにくるぜ。二匹以上いたら出来ないんじゃないのけ」
「そっちは先輩に遠当てで切り裂いてもらおう」
「だせえー」
「うるさい。これも戦略なの」
親玉さえ倒せば、残りはただ突っ込むしか能がない雑兵が残るのみだ。
木の上から飛び降りて一気に加速する。
俄かにざわめく犬の群れの中を突っ切り、親玉へ向けてさらに加速を重ねる。
途中周りの犬が飛び掛ってきたが、牙が僕の身体に届く前に首を無くし、落ちた。
先輩は僕の狙いを読んでくれたらしい。
「……」
親玉が身構える。
もし元のままであったなら僕に向けて威嚇の唸り声をあげていたろうか。
飛び掛かるつもりだろう、一瞬身を沈ませたところを狙って上から左手で地面に抑えつける。
そして右手で、予めへし折っておいた木の枝の先端を思い切り振り下ろす――!
生暖かい感触があった。
真っ黒い血が噴き出して純白の服を染め上げていく。
犬はもがいていたが、僕の突き刺した太い杭は犬の身体を貫通して地面まで達している。
抜け出す事も出来ないまま、情けなくただ痙攣を続けるしかない。
「ち、血GYAAAAAAAAーー!」
ヒカリが頭から返り血を浴びてヒステリックな叫び声を上げていた。
意外に神経が細いのかもしれない。
先輩の様子を窺うと、最後の一匹の首を直接の斬撃で刎ね飛ばしているところだった。
/
「春菜、今日は部活に行きたいんだけど付き合ってくれない?」
「おや、めずらし」
口に咥えた煎餅を折って、目を瞬かせる。
「どんな気まぐれ?」
「なんとなく」
「ま、断る理由は別にないわー」
「うん、ありがとう。それじゃあ、放課後に」
「……ふう」
自分の席へ戻って、溜息を吐く。
……昨晩。
『はっきり言って足手纏いだったけれど、最後の働きに免じて許してあげる』
そんなことを言って、先輩はクールに去っていってしまった。
一応僕はプラスマイナスで言えばギリギリでプラスの活躍だったみたいだけど、『ギリギリで』程度でしかないのだ。
とても自分を不甲斐なく思う。
もっと技術を鍛える必要がある。そう痛感した。
僕には先輩みたいな殺傷能力の高い武器はないし、魔法じみた技を使うことはできない。
それでも剣道をもっともっと極めていれば、襲い来る犬を片っ端から一撃で仕留めるくらいは出来たはずだ。
それが出来なかったのは完全な僕の努力不足といわざるをえない。
それに実に奇妙だが…あの変身ステッキ。
長さも丁度良くて、まるで羽のように軽いのに思い切り叩きつけても折れることがない。その気配さえ。
相手にも軽さの割りにそこそこの衝撃が通っているようだ。
だから武器に関しては先輩に比べれば大きく見劣りはするけど、決して悪くはない。
後は、技術が伴えばいいだけだ。
「何を難しい顔して考え込んでんだ?」
「ん、ヒカリ…?」
「は?光?」
「あ、いや。ごめん。寝ぼけてた」
ヒカリは家に置いて来たんだった。
「なあなあ、帰りに市境の原っぱ行こうぜ」
「え!な、なんで!?」
心臓が跳ねる。
「なんでも、今朝すげー数の犬が首と胴体に分かれて死んでたんだって。詳しくは知らんが四十…五十とか、そんくらい居たらしい。
あんまりにもすごいんで今日マスコミが押しかけて取材してるんだってさ。行こうぜ、テレビに映れるかもしらん。インタビューされるかも?
『えー、驚きました。まさか僕らの町でこんなことが…』」
サスケは目を手で隠して、喉を叩きながら演技くさく喋り出す。
良かった、僕らのことがバレたわけじゃないみたいだ。
「やめとくよ…。近くにそんなことしでかした犯人が居たら、怖いじゃない」
「む、そ、そうか。そうだな。怖いのはイヤだな。やめておこう」
こういうときにサスケの性格は便利だなと思う。
「あ、そうそう。それと、今朝がっこ向かってたら八代のダチに話し掛けられたんだけどさ」
「なんでまた?」
「八代とは別に親しくないんだが、そいつとは前クラスが同じだったからたまに話すんだよ。それで」
「ふうん…そろそろ退院だって?」
「ああそれもそうだけど、そいつらが病院に見舞いに行った時の話を聞いたんだよ」
「どんな話?」
「ほら、こないだ話した通り魔の話。八代が教えてくれたんだって」
「ああ……」
正体は犬…なんだよね。
「なんでも上から下まで真っ黒で…」
そう、影絵みたいな…。
「長い刃物を持った、女らしい」
「………………え?」
「あぶねーよなあ、季節の変わり目になると変なのが沸いてくるな。気をつけような、お互い」
……サスケはまだ何か喋っていたけれど、僕の耳には届かなかった。
/
「祁答院……先輩」
「いらっしゃい」
僕が来ることが解っていたのか。
今日は本も手にせず、最初からこちらを向いて足を組んでいた。
「…………あ、あの………」
「あの?」
「せ、先輩は……」
「先輩は?」
冷たい声で鸚鵡返しに聞き返してくる。
彼女の声はまるで僕の皮膚を貫いて心臓を突いているようだった。
「……それで?」
椅子から立ち上がって、静かにこちらへ歩み寄ってくる。
足が僕の意思を無視して逃げるように勝手に後じさりを始めた。
「なぜ、逃げるの?」
気がつけば壁際に追い詰められていた。
気道になにか詰まったようだ。
必死に息を吸おうとしているのに、呼吸が出来ない。
冷たくて、白い手のひらが僕の頬に触れる。
そのまま僕の身体は凍り付いてしまうのではないかという錯覚を覚えた。
「それで…?」
「………う」
声が出ない。
あまりに、恐ろしくて。
「何か 用事が あったのでは ……ないの?」
区切って、一つ一つ確実に言葉を僕の中に埋め込んでくる。
瞳の奥に青色の炎が揺らいでいた。
――――この人は、変だ。
絶対に普通じゃない。
僕が、僕なんかが相手に出来る人じゃない。
僕の理性が、本能が、全力をあげて警告していた。
このまま僕は、喰い千切られてしまう…。
/
どのくらいの時間が経ったのか。
昼休みの終わりを告げる鐘の音がスピーカーから流れ出していた。
「…っ!!」
その音で、金縛りが解けたように我に返る。
慌てて僕の頬に触れる手を弾いて、先輩から距離を取った。
「…タイムリミットね」
僕に叩かれた手を逆の手でそっと撫ぜながら、口の端を吊り上げて笑ってみせる。
獰猛な肉食獣が獲物を追い詰めたようなそんな笑みだった。
「少しいじめすぎたようね。…さ、急がないと。
午後の授業に間に合わないわ。倉敷くんのクラスは遠いでしょう?」
「…な…なぜ…知っているんですか」
名前も、クラスも…彼女の前で口にしたことはないのに。
「…なぜ私が知らないと思うの?」
答える事が出来ない僕の顔を見て、彼女は最後にもう一度微笑んで見せた。