03 硝子の怪
『かつて――――』
『かつて、人と魔の領域が酷く曖昧だった頃があった』
『鬼や妖怪が当たり前に跋扈し、人は為す術もなく虐げられていた時代』
『神は事あれば地上に降り立ち、
人を浚い食らう大蛇を打ち倒す剣を授け。
龍に奪われた水を取り戻す雨を呼び。
町を追われた罪なき人々の為山を切り崩し田畑とし…』
『人々に力を惜しむことなく貸し与えていた』
『あるとき、巨大な魔物が地上に現れた』
『暗く、深い深い海の底で生まれた魔物だという』
『その力はあまりに強く、人々は勿論のことそれに挑んだ神々も傷つき倒れていった』
『やがて退治の難しさを知った神々は犠牲を払いながらも結界の中に追い込み、その魔物を封じることに成功する』
『魔物を封じた匣<はこ>は神々の住まう天上の世界に於いて厳重に封じられ、今もなお息づいているのだ―――』
/
「ということなんだぜ」
「や…スケールが大きすぎていまいちついていけてないけどね…。
とにかく、その「匣」の中から五十年周期で漏れ出して、地上…僕らの世界に落っこちてくるのが「黒いもの」だということ……で、合ってる?」
「だいたい」
「へ~…」
「あばよ!」
これでもう用が済んだと思ったのか、ヒカリは僕に背中を向けてベッドへ飛び込んでいった。
「待て」
ベッドごと持ち上げてひっくり返す。
ヒカリは重力に従ってぼでっと僕の膝に落ちてきた。
「なんだよーまだあてしは眠いぜー眠いんだぜ!」
「昼間の二時だし、結構元気に見える」
「なんかオリジナル超人考えてたら夜が明けた」
「君いくつ?」
「十八!」
「…どっちの意味でもありえないな」
「十八って言っておくと後々良いことがあるかもしれないんだぜ」
話が大きく脱線してきた。
ヒカリの頬を摘んで左右にごく軽い力で引っ張ってみる。
「いでででででで、でででででッ!死ぬ!死ぬまじで!」
「オーバーなんだよな…眼は覚めたかい」
「おかげさまで…」
頬を擦りながら睨んでくる。
まったく恐ろしくなかった。
「まだ聞きたいことはいくらでもあるんだよ」
「想像でおk」
「いい訳あるかっ」
再び拷問にかける。
「ギャー」
「学習能力ないのか君は」
「うがあああ」
指を振り払って大儀そうに胡座をかいてみせる。
どうやらふざけていてはいつまでも終わらないという単純な事実に気づいたようだ。
「まあ、黒いものがどこから来てるのかは解ったよ。しかしなんでそんなアホな名前?
ヒカリがまさか勝手につけてるんじゃないよね。どうもそれっぽいアホな印象を受けるんだけど」
「あてしがアホって聞こえね?」
「アホ以外の何者でもないよね」
「……」
「アホなんだよ」
「………黒いものが地上に落ちたら、手近なものに取り憑いて活動を始める…」
「それは聞いた」
「その法則性がまるでないからだぜ」
「法則性?」
「取り付いて活動を始める。何に取り付くか解らないしその後どんな活動をするかも解らない。ただ、絶対に「悪い形で」起こる」
「…だから「黒い」「もの」ね…。なんというか命名の放棄って感じがなくもないんだけど。確かにそのままといえばそのままだ」
「あてしじゃないぜ、言っておくけど」
…本当かな。
「それでもう一つ、なんで今回…いや今回に限らず、その五十年周期の時に話に出てきた偉い神様達は手を貸してくれないの?」
「この世界があてしたちの手を離れて独り立ちしたから」
「…うん?」
「もう大蛇とか鬼が出たって人間の勝ちだぜ。いくらだって強い兵器がある。
雨が降らなかったところで泥水からでもなんでも綺麗な水に出来るっていうし。
土地が悪くてもへんてこな機械でガガガーだわさ?」
「ガガガーだね」
「もうあてしたちの手はとっくに離れてるんだぜ。一人前の立派な大人にいつまでも親がよちよちーなんてしないのが普通だろ」
「…なるほどね」
ヒカリが真面目に喋ってると…どうも身体がかゆいな。
真面目に喋らなかったらそれはそれで困るし、体罰も与えるけど。
「天界はもう見守るだけにしようってな決まりが出来てる。
ここだけでうまくいくことなら、わざわざ横槍入れてやることもねーだろーってことだぜ。
元々「海の魔物」もこっちの世界にいたもんだしナー」
「そうか…いつか神様が手を貸してくれるだろーなんて無責任な甘えが出来ても困るもんね」
「うんむ」
「でも黒いものはさすがに僕たちだけじゃ手に負えない…だから…」
だから力を貸し…え?なに?貸し、て…くれた結果がヒカリ…??
…さすがにもう少し、あとちょっと…奮発してくれても良かったです、神様。
「なんだよーその目ー」
「何でもないよ…今聞きたいのはそのくらいかな」
「アふー。ねよ」
のろのろとベッドに登ろうとするヒカリを掴んで、ポケットの中へ押し込む。
「きゃーたすけてー犯されるーう!」
何かコメントしようかとも思ったが、頭痛がしたので放っておいた。
/
「眠いぜっ」
「君はいつもそればっかりなんだね」
「夜寝ると朝眠いから朝寝るだろ。昼間に起きてあきらの作り置きを食べると満腹感で夕方まで寝るだろ。
夜に起きたらあきらのつくった夕飯食べて朝まで寝るだろ。これじゃ眠いのもあたりまえだ」
「論理的な日本語になってない。あと君は僕に対する感謝の気持ちがかなり足りてない」
自転車で町を駆ける。
道行く人々は冷たい風に身を震わせ足早に通り過ぎていく。
木々からは葉がほとんど落ちきって、街中はどこか物悲しい雰囲気に包まれていた。
僕はあまり冬が好きではない。
良いことは埋もれて、嫌なことばかりが目につく。
「どこ行くん」
「んー、目的地はないかな。パトロールしてるんだ。黒いものの気配を感じたらすぐ教えてよ」
「真面目だぜー」
「そりゃもちろんね。僕だけの問題ならともかく、放っておけば社会を巻きこんでの厄災になるんだろう。
真面目にならざるをえないよ。…というか何故使者である君が投げやりなのか理解できないんだけど」
僕だけがそれを阻止できる立場にいる。
彼女は正義感ゆえに選ばれたと初めに言っていた。
僕には神々に認められるだけの心があったということなんだろう。
…正義とか。改まって考えたことはなかったけど。
多分、それは誇らしいことなんだ。
期待に添えるよう頑張ろうと思う。
それに…あんな惨劇を二度と起こしてはならないから。
/
ヒカリは昨晩早寝をしていたらしく、珍しく僕が起きたときにはもう眼を覚ましていた。
「それじゃあヒカリ。僕は学校へ行って来るから、その間悪さしないように」
「いや、するぜ」
ヒカリを掴んでポケットの中へ入れた。
/
「この公式を使うと…こうなるはずだ。あれ、ならねえ。何コレ」
カツカツと小気味良い音を立てて黒板が数字で埋め尽くされていく。
いつものように頭を空っぽにして、ぼんやりとそれをノートに書き写していた。
この先生の課目はノートを百パーセント信じるとまずいことになる。
試験前になったら教科書をみながら修正を加えていかないといけない。
二度手間なんだよね。
もしかしたらそうやって生徒に学習する気を起こさせて…るのかも?
「なんか答えが全然ちがうわ。今期始まって以来のズレっぷりだわ。まず桁が違うのな。うけるホント」
違うか。
「ん」
ふと、ポケットが妙に軽いことに気付く。
血の気が一気に引いていくのがわかった。
恐る恐るポケットの中に手を差し入れて見るが、何の感触もない。
「あの馬鹿…」
脱走したらしい。
気を緩めてしまった僕も大馬鹿だ。
それこそ氷膜の上を歩くように気を巡らせねばならなかったのに。
「………」
まあいいや。
考えてもどうにもならないので、やがて僕は考えるのをやめた。
ヒカリの適当さが伝染っている気がする。
/
もそもそした自作の弁当を平らげてゆく。
基本的にあまりお金をかけていないので全体的に黒に傾いた配色で安っぽい。
…だから、定期的に僕の弁当を盗んでいく春菜の行動を少し不思議に思う。
もしかしたら食べたいのではなくただ嫌がらせがしたいのでは…。
「……む」
箸を止める。
誰か僕を呼んだような気がしたけど…。
「…ヒカリ?」
小声で呼びかけてみる。
すると、こつんこつんと上履きの先に何かがぶつかってきた。
「?」
机の下を覗いて確かめてみる。
五百mlの牛乳パックがごそごそ動いていた。
そっとそれを引き剥がすと、中にはボロボロになったヒカリの姿があった。
「随分世間の荒波にもまれたようだね」
「…ドブネズミと死闘を繰り広げてたぜ…」
「……ネズミは雑食だから、下手すると食べられてしまうよ。ていうかどこまで行ってたんだ君は」
「うう…もうだめだ…甲高い声で」
最後にそれを言い残して、がくりと意識を失ってしまう。
とりあえずこうしてヒカリにとって教訓になったのは良かったということにしておこう。
ポケットの中にねじ込んで静かに食事を続けた。
/
気がつくと胴着を身にまとって一人で武道場の周りをランニングしていた。
変だね、今日は家に帰ってパトロールしようとしていたのにね。
「なんかしょっぱいの落ちてきてんだけど」
「飲むなよ」
「なんで泣いてんの。あーん」
「…飲むなよ!…はあ、自分のノーとはっきり言えない性格に嫌気がさしてるんだ」
「ふーん」
どうでも良さそうにヒカリはポケットの中に潜り込んでいった。
「くせえ!」
「剣道着だしね、そりゃまあ」
「うげ……剣道…剣道ねえ。楽しいのけ。あてしもやろうかな」
「うんムリ。
そうだな…楽しいか楽しくないかで言われれば…あんまり楽しくないよ。僕はね」
楽しくはない。つまらなくはない。
「じゃあブッチして帰ろうぜー。楽しくもないあてしも出来ないじゃ存在する意味がわからないぜ」
「前に退部届を出したんだけど、春菜に後で握りつぶされてしまった。
それ以来主将に目をつけられてしまうし、参ったよ」
「はるな?」
「さっき僕をここに無理矢理連れてきた人…」
「ああいたいた。あのやかましいの」
「…もう少し遠回しな言い方というのをだね」
はあ、本当に僕は…。
どうして今もまだ剣道を続けているんだろう。
今はもう必要なくなったはずなのに。
…それは春菜もか。
彼女は才能があったからいい。
でも僕にはどうもないみたいだ。
ただ惰性で続けても、得るものも、目指すものも特にないと思うけど。
/
手ぬぐいで顔の汗を拭う。
もう十月とはいえ、防具をつけて動いていたのではやはり暑い。
「ふー、動くとやっぱり気持ち良いわねー」
春菜が礼儀もなにもなく、どかっと僕の横に腰を下ろす。
「そりゃ人の頭あんだけボカスカ叩けば気分いいだろうね」
「避けるか受け止めなさいよ」
「ボールを飛ばすにはバットを当てればいいんだみたいなことを言ってるよソレ」
「何か間違ってる?」
「…いや。いいと思うよ」
彼女の二つ名は『豪剣の酒寄』。
まともに受け止めれば両腕がびりびりと痺れ、竹刀が握れなくなる。
その隙に頭やら胴やらを狙ってくるわけだ。
だから言うとおり避けるのが最良の手段なのだが、彼女はとにかく滅茶苦茶な速度で振るってくるため毎回そうするわけにもいかない。
腕はさほど太いわけでもなく、精力的に筋肉をつけようとトレーニングをしている様子もないがそういうことが出来てしまう。
なんというか、こういうのが才能なんだろうなあと思ってしまう。
一度電流でも腕から発しているのではという結論に至ったが、後に竹は絶縁体であることを知った。
「酒寄君。一本ボクとやろうじゃないか」
主将が春菜に詰め寄ってくる。
「いやでーす」
「…む、なら…仕方ない…」
僕を一睨みして別の相手と稽古を始める。
だから、僕を睨んでも仕方ないというのに。
「あいつ、キモすぎ…真剣で勝負なら喜んで受けるわ。木刀でもいい線いけるかもしらないわん」
「サラっと怖い事言わないように。あの人は物心ついたときから剣道やってきて、剣道ラブ剣道フォーエヴァーな人だからね」
「それでなんであたしに付きまとうのよー」
「剣道が強い人はまた愛する対象なんじゃないかな」
「わかんないなー…あたしだったら、あたしより強い相手なんか夜中後ろから殴ってやろうかって思うけど」
こういう思考の人に武道の道を歩ませていいのでしょうか?
「うーん、良い例えが思い浮かばないけど…」
顎先に指を添えて、暫し思索する。
「あー、春菜は結構ゲームセンター行くよね」
「いくいく」
「じゃゲームに例えよう。自分が開発したゲームが売り出されたとする」
「ほうほう」
「自分で作っただけあって、勿論春菜はそのゲームが結構得意だ」
「うん」
「で、あるときであった人が、そのゲームをものすごいやり込んでて自分よりも上手だった」
「ほう」
「それは嬉しくない?」
「嬉しいわね。自分が作ったものだし、それだけやってくれるっていうのはね」
「そういう気持ちに近いんだと思うよ」
「ふーん…?」
解ったような解らないような顔をしている。
「だから、剣道が別段好きでもなくて強くもない僕がこの部に居るのもあんまり気にくわないし、そんな僕と春菜が仲が良いのもまた気に食わないんだろうね」
「結局ちょー自分勝手じゃん。やっちゃう?いつやっちゃう?」
「何をする気だ」
「リンチ」
「…真顔で即答されると本当にやりそうで怖い。でも…僕は、ああいう人はあんまり嫌いじゃないな。
何かこんなにも一つのことにひたむきになれるっていうのは、いいことだよ」
春菜は暫く何か言おうとしていたが、結局口から言葉となって出てくる事は無かった。
/
「あぁぁぁァの日からァァ時はーー♪」
ヒカリの歌には音程とか音階といったものは存在しなかった。
きっと某タケシの歌っていうのはこういうものなんだろうなと身近にイメージ出来てしまう。
しかし本人はとても気持ちよさそうに歌っているので、かわいそうだし触れないでおいた。
ただ僕が歌っているのだと勘違いされても困るため本日のパトロールは人の多い場所を意図的に避けている。
「つつんでェェえええーーー………ふう」
歌い終わったらしい。
偉業を成し遂げたぜといった実に晴れ晴れした顔をしている。
「聞いたことない歌だったね」
「ばった」
「ばった?なに?」
「ところであきら。五分くらい前の地点で黒いものの気配があったわさ」
「いや、なんでそのときに言わないんだ」
「最後まで歌ってからでもいいかなって」
「ねえ、一回。一回でいいから殴っていい?」
「やめて欲しいぜ」
/
街外れにある大きな総合病院。
なんでも十年以上前に市の合併に伴って隣の町からこっちへ移転する予定のものだったらしい。
予定だったというのは実際にその移転が為された訳ではなく、合併そのものが土壇場で頓挫してしまったため開業に至らなかったということだ。
それならこっちはこっちでまた別に病院として使えばいいのにと思うのだけど、どうやらそういう問題でもないそうで。
元々は真っ白だったであろう外壁は黒ずみ、大きなヒビが幾つも幾つも走っている。
以前サスケに他県でも有名な心霊スポットとしてウワサされているのだという話を聞いた。
「…随分公的なお金も入れたって聞いたけど……。ただ作って、ただ朽ちてか…」
「マジやべえよな」
「よく解らない話題なら適当な言葉で参加しようとしないの」
自転車のスタンドを立てる。
「で、感じるのはこの病院?」
「多分」
「うーん…大きいねえ」
入り口には大きな鍵がかけられていて、開きそうもない。
彼方此方の窓はどこかのやんちゃにでもやられたのか、無惨に割られその上からダンボールがガムテープで貼り付けられていた。
「どこから中に入ろう…」
「いいじゃないか、あてしたちも窓割って入れば」
「一応持ち主が居るから、そういうことやると捕まっちゃうの。
見せしめか何か知らないけど、前にわざわざ指紋まで取って一人二人捕まえたって話なんだから」
「みんなやってるから平気だぜ」
「そういう赤信号理論は駄目だよ。というかだね、今平気じゃない理由僕言ったよね」
裏手に回ってみる。
その間幾つかのドアを見る事が出来たが、いずれも頑丈に施錠されていて開きそうもなかった。
ご丁寧に、赤字で立ち入り禁止!とデカデカ看板が架けられている箇所もある。
一時期は暴走族の根城になっていて毎夜騒音が酷かったそうなので、管理が徹底されたのだろう。
もしかすると見えないだけで監視カメラなんかもあるのかもしれない。
「さて、困ったな」
「いいじゃないか、あてしたちも窓割って入れば」
「君痴呆なのか」
少し下がって建物を見上げる。
二階部分にバルコニーがあって、その奥のガラスは割れたまま放置されていた。
なんとかあそこまで上がることが出来ればどこも壊す事なく中へ入れるのだけど。
「ヒカリ。あそこに向けて君を放り投げるから、一人でなんとか本体を探し出して駆除してきてくれない?」
「たぶんあてし投げられた時点で死ぬ。奇跡が起こりまくって本体まで辿りつけても、駆除は十中八九無理だぜ」
「ダメかあ」
家に脚立があるけど、あれじゃとてもじゃないけど届かないな…。
ロープかなにかあれば…。いや、仮にあったとしてもどこにひっかけるんだ。
どうするかな、一応窓ガラスを破壊してでも入ることは出来るんだけど…。
世界の危機に比べればそのくらい………許してもらえ…るかなあ…?
でも…僕も捕まってしまうのは困るから…。
「ふふふ…とうとう、このときがやってきたようだぜ」
僕が義務感と良識の間で揺れ動いていると、ヒカリがポケットから抜け出して僕の肩の上までよじ登ってきた。
「これっぽっちも、それこそ微生物の大きさほども期待していないけど形の上だけ聞いておくかな。何か妙案があるの?」
「なにそのあてしに対する絶大な不信感」
君は自分の普段の行動や言動を理解していない。
「あきら。あてしと会った時に渡したステッキをだしな!」
「ステッキ?あーあー…あったね。天界の代わりに動く事を証明する物だとかなんだとかで…あのオモチャみたいなやつでしょ」
「オモチャどころの話じゃないぜあれは……まあ、アレを出すんだ」
「家だよ」
「ええええ!!!!肌身離さず持っておけって言ったのに!!!!!」
「聞いてない……」
「あーじゃ、言い忘れたかも」
「………」
/
しかし、見れば見るほど不安になってくる物体だ。
全長は五十センチ強ほどだろうか。
白をメインにした筒状の物体だ。
先端に『拙者、イミテーションにござる』と強烈に自己主張しているような、極めてチープな宝石が取り付けられている。
そしてその宝石の両脇からは白い羽がぴょこんと飛び出していてた。
全体的に妙に軽い…中身は空洞であるらしい。
指先でコンコンと叩くと中で音が響いていた。
「それで、この、デパートのワゴンセールにひっそりと置いてありそうなオモチャがなんだって?」
「…実はそれ、変身☆ステッキなんだぜ」
「見れば解る」
「その変身☆ステッキを使って、変身するのよ!!」
「……………」
「早く」
「早くって君」
どこまで本気なんだろう。
「別にそうやってちんたらするのはいいけど、その時間もじわじわ黒いモノは侵食してるんだぜ」
う、歌に夢中で放置した分際で…よくも。
「……う、ううん…変身、ねえ」
「まずそのステッキを空に掲げる…」
「…掲げたよ」
「唱える!」
「何を?」
「あてしの後に続いて言うがいいぜ」
「うん」
「マジカルイリュージョン」
「マジカルイリュージョン………」
「メイク・クロス☆インッ!」
「英語としてまったくおかしい」
「気にしているバアイか!」
僕はヒカリに担がれているんじゃないか。
何度目だろう、そんな事を思うのは。
「じゃあ今の感じで、通して一人でやれば変身できるぜ。感情をこめて、クロス☆インのあたりでステッキをくいっくいっと振るのを忘れないように」
「……………ま、マジカルイリュージョン…」
「駄目駄目、照れがあるぜ」
「………」
空を見上げる。
深くて、吸い込まれそうな空だ。
今日は星が綺麗だな……。
星の輝きは遥か昔のものが今見えているだけだという。
そうだ、星の一生に比べれば僕のこんなものは一瞬だ。
宇宙の広大な歴史から見ればそれこそ埃のようなものだ。
「すぅ……」
大きく息を吸い込む。
「マジカルイリュージョン・メイク・クロス☆インッ!!!」
一息で言い終える。
冷たい空気の中に僕の魂を込めた声が響き渡ってゆく。
これでいいのか、と確認を兼ねてヒカリを見ると、顔を背けて肩を震わせていた。
「お別れだね。短い間だけど、楽しくはなかったよ」
「いや、ま、待て待て待て!ふ、服を見るべき!服を!!」
言われて自分の服を見てみる。
真っ白。
首周りから腹部にかけて、フリルが走っている。
肩からはリボンのような飾りが伸びてそよ風に揺られていた。
腰は締め付けられるようにキュっとフィットする、コルセットのようなパーツが。
極めつけは―――
「……スカート…」
「スカートだぜ!」
あまりの頭痛の酷さに倒れそうになる。
倒れてしまえば今までの事が夢でしたで済みそうな、そんな淡い期待もあった。
額に手を添えると、頭にもなにやら大きな飾りがついていることに気付く。
どうやら白色のリボンであるようだ。
「今ここに、新たな『女装戦士AKIRA』が誕生したのであった…」
「ヒカリ…お願い…ほんと…土下座しろっていうならいくらでもするから一から説明して……」
「うわあ、見たことないくらい切羽詰ってる」
僕の余裕が無い状態を察したのか、ヒカリは手短に説明をしてくれた。
ひとつ、変身してこの服になることでなんか色々強化されて黒いものを駆除しやすくなること。
ふたつ、本来なら天界の代わりに動く役目は女の子が負うものだったのでこういうデザインだということ。
みっつ、暗かったのでヒカリが僕を女の子と間違えたということ。
「ってやっぱり君のせいか!」
「えへへ☆」
かわいく笑ってみせる。
殴りたい…ものすごく殴りたい…。
「大丈夫、こうして改めて見ても女にしか見えないぜ」
「まったくフォローになってないどころか、余計滅入ってくる……。
まあ、いいよ、うう……いいさ…。今回までは僕がやる…。これが終ったら他の女の子にバトンタッチしよう……」
「ああ、一回変身したら確定しちゃって替えらんない」
「うわああああああああ!!?」
/
性能は嫌味なくらい確かだった。
ただの一跳びで身長の数倍の高さに達し、呆気なくバルコニーに着地する事が出来た。
神経にも作用しているのか、月明かりも届かない暗闇でもまるで昼間のように可視出来る。
強度の点でも優秀で、リノリウムの通路には錆びた釘やガラスの破片が滅茶苦茶に広がっていたがエナメルっぽい靴は軽さに反比例してそれらを完全に防いでいる。
「………でも……でも……、なんでっ、なんでこんなデザインなんだよお…!」
「趣味じゃねたぶん」
「神様ってもしかしてみんな君みたいにアホ?」
/
黒いモノはガラスにとりついていた。
普段は透明であるはずのソレはまるで黒い壁でも見ているかのように完全に透明度を失っている。
触れると暖かいような冷たいような、柔らかいような硬いようなとにかく曖昧で奇妙な感触があった。
力を込めて押してみるとぶにゃりと確かに凹んでいるようなのに、見た目にはまったく変化していない。
…相変わらず、怖い。
何から何まで常識を超えている。
「…無生物にもとりつくんだ」
「最初に狩った草もそうだったぜ」
「植物は生物の分類だよ。………さて」
ステッキを握り締めて、ソレへ向けて思い切り叩きつける。
鈍い音がして、ガラスは砕けて外へ向けて飛び散り、同時にそこから黒い光の粒子が舞い上がってゆく…。
ガラスにしてはかなりの強度だった。
このまま日を置けばいずれ鉄板のようになって割ることが出来なくなっていたかもしれない。
早いうちにこれを発見できたのは幸運だったようだ…。
「ふう」
「結局窓ガラス割ることになったわさ」
「……不可抗力だよ。黒いものに取り憑かれたら「破壊することでしか駆除出来ない」んでしょ」
「まあね」
「……とにかく僕は今、何にも優先してこの服を脱ぎたい」
「かわいいのに」
家に着いたらヒカリに徹底的に制裁を加えなければならないと、僕は心に決めた。
そんな気も知らず彼女は能天気にケラケラ笑っている。
…夜はまだ始まったばかりだ。