5.退院で出発
晴れないクラウドの心とは裏腹に清々しい朝が訪れる。窓から差し込む光は輝いているし、小鳥の囀りは耳に優しい。
「よく眠れましたか?」
朝の光にも負けない眩しい笑顔と心地よい声に、クラウドはぼんやりとしていた意識をしっかりと覚醒させた。
「気持ちの良い朝だ」
天気が良いだけでは決して出なかった言葉がクラウドの口から自然に出る。
「えぇ、絶好の旅立ち日和ですね」
「まぁ、うん、そうだな」
侯爵邸へ行くことにあまり乗り気ではないクラウドはつい曖昧に答えてしまう。
「大丈夫ですか? もしかして具合が悪いのですか?」
すぐさまクラウドの異変に気が付くエリーはさすが薬師だ。
「いや、大丈夫……というかむしろ調子が良い。いつも朝は胃が痛くなるのに……」
「空腹時は痛くなりやすいですからね。ですが今は痛まないなら良い傾向ですね。さぁ、朝食にしましょう」
クラウドのいつもの朝は、一日どうやって王子に振り回されるのか心配し胃が痛くなるか、もしくは夜に王子が起こした問題の処理のため叩き起こされ胃が痛くなるかのどちらかだ。
「こんな落ち着いた朝は久しぶりだ」
クラウドは素晴らしい朝を噛み締めるように呟いて、エリーの用意する朝食を食べるため食卓に移動した。
「おはようございます……あれ?」
誰もいない食卓にクラウドは首を傾げる。
「あぁ、二人は食材を取りに行っていますけどすぐに戻って――あっ、帰ってきましたよ」
「エリー、今日は卵が多かったぞ」
籠に卵と野菜を詰めて戻ってきたアーヴィンとウェズが食卓につく。
「じゃあ、野菜を洗って……すぐできますから」
昨日同様、てきぱきと動き回るエリーをクラウドがじっと見つめていると横から声がかかる。
「働き者でしょう?」
娘を自慢するようなアーヴィンの言葉にクラウドは頷く。
エリーはアーヴィンを先生と慕っているし、アーヴィンはエリーを可愛がっている。
(理想の上司と部下……)
クラウドは自分にはない二人の関係を少しだけ羨んだ。
「胃は? どうですか?」
「あっ、えっと、かなり良いです」
まさかウェズに話し掛けられるとは思わず、クラウドはつっかえながら返事をする。
「薬、よく効くから……よかった」
「そうだな。エリーの薬はよく効く」
「褒めても朝食の内容は変わらないですよ」
サラダと目玉焼きを運んできたエリーは、自分のことを話題にされていると知ってうっすら頬を赤く染めている。
「それは残念だ」
笑いの絶えない食事が居心地良くて、クラウドは診療所を離れ難い心境にまでなった。
「クラウド様、これを」
食事の後にエリーがクラウドに何かを渡してくる。
「これは……薬ですか?」
「はい。こちらが昨日と同じもので、こっちは種類の違うものです」
小瓶に入れられた薬と薄紙に包まれた薬の二種類がクラウドの手に収まる。
「日持ちしないのでは?」
昨日の落胆を思い出してクラウドはエリーに尋ねる。
「二日ほどなら大丈夫でしょう。そちらの粉薬なら長く保ちますよ」
「昨夜、一生懸命何かしていると思ったらこれか」
アーヴィンが納得したと頷いたに対してエリーは余計なことを言わないでと怒っている。
「わざわざ夜に作ってくれたのか……」
「よく効くって褒めてくれたから……それに、お花のお礼です!」
慌てて食器を片付けるエリーにまだ礼を言っていないと気が付いたクラウドは、布巾をせわしなく動かすエリーの手を掴み、顔を覗き込む。
「ありがとう、エリー。俺が残念がっていたから無理をしてくれたんだな」
「無理なんて……必要とされるのは嬉しいことですから」
クラウドはエリーの用意してくれた薬を大事に荷物の中へしまった。
「エリーの調合した薬を飲めば、もうこの旅路では倒れないだろう!」
出発前、エリーが馬を連れてきてくれるのを待っているときにクラウドは胃痛で倒れたことを思い出した。それほどまでに痛みは消えていたのだ。
「情けない姿をお見せすることにはなりましたが、そのおかげでここに来られてよかった」
エリーが連れて歩いてくるクラウドの愛馬は心なしか昨日よりも元気で、毛並みも艶やかに見える。
「薬とエリー、どちらに出会えて良かったと思いますかな?」
「はい?」
「いや、エリーがいれば薬も手に入るか……。エリーを嫁に欲しいだろう!」
「えっ、えっ――――!」
アーヴィンが紡いだ衝撃的な言葉にクラウドは叫び声を上げてしまう。
「た、確かに薬は欲しいが結婚とはそういうものではなく……いや、決してエリーがダメというわけでは……あっ、だからと言って結婚したいと言っているわけではなく……」
否定すればアーヴィンがエリーのどこに不満があると睨んでくる。かといって肯定するわけにはいかず、クラウドはオロオロと視線を動かす。
「うっ……」
アーヴィンからの圧力だけでなく、ウェズの視線もあるようでクラウドに逃げ場はない。
こんな状況なら、クラウドの胃は痛くなりそうなものだが、エリー特製の薬の効果は抜群でまったく痛まない。
「どうしたのですか?」
様子がおかしいクラウドに馬の手綱を引いてきたエリーが尋ねてくる。
「エリーの嫁入りの話だ。クラウド殿なんてどうだ?」
「私の?」
大きな瑠璃色の瞳をぱちくりさせたエリーだが、すぐににっこりと笑みを浮かべる。その意味するところがわからず、クラウドは益々慌てる。
「ふむ、ドンとした心構えが足りないな!」
アーヴィンはクラウドの背中を強く叩いて笑ってくる。もはや、クラウドのことを高位貴族だとは思っていない振る舞いだ。
別段そこは気にしないクラウドだが、エリーの反応は気になるところ。ちらりとエリーの表情を窺う。
「あら、不遜で偉そうな方よりよっぽど好きですよ」
「おおおっ……えっ――――?」
言葉にならない声がクラウドの口から漏れる。
「穏やかなだけじゃ、満足できないでしょうに……」
「ふふっ、一番の条件よ」
混乱の中にいるクラウドはエリーとウェズの会話まで耳に入らない。
「そう取り乱すな。やらんから!」
「もう、クラウド様だっていらないと思っていますよ。だから困っているじゃないですか」
自分から言い出したくせにちょっとだけ不機嫌になったアーヴィンを軽くエリーが諫める。
クラウドはいらないなどとは思っていないと否定すべきかどうか悩む。
(だが、そうするとまたややこしいことになりそうだし……)
悩みに悩んで、クラウドが口を開きかけたときアーヴィンが噴き出した。
「クラウド殿は真面目だな。考えすぎは良くない、考えない方が悪いがな」
豪快に笑うアーヴィンの横でエリーとウェズも表情を崩している。ここでクラウドは一連のやりとりがすべて冗談だったとわかる。
ほっとしたのか残念なのか、クラウドは肩の力を抜く。
これはアーヴィンなりに考えたリラックス方法だったらしい。
「こんなところですが、薬が気に入ればまたいつでもおいでになってください」
エリーがすかさず気を遣ってくれて暖かい言葉をクラウドにかけてくれる。これでクラウドは、からかわれたと腹を立てることなどできない。
「あぁ、帰りに――は無理か。休みをとってかならずまた来たい」
仕事の途中に私用で寄り道したと知られたら面倒になるとクラウドは思い留まり休みをとってから来ることを決める。
「仕事も上手くいき、ストレスも減るといいですね。旅の無事を祈っています」
エリーの見送りに気分良く、クラウドは侯爵邸へと出発した。
「この仕事を無事にまとめたら、自分もあぁいう妻を迎えればいいのか……心が安らぎ、胃に平和を与えてくれるような……だが、そんな令嬢はいないか」
あぁいうのではなく、エリーがいいとはっきり言えるほどクラウドはエリーのことを知らないが、他に良いと思える令嬢はいない。
「つまりこれは……そういうことなのか。だが、周囲のことを考えると無理か……」
クラウドは一人何かを理解しかけて、また何かを諦める。愛馬の歩みはいつもより早く、侯爵邸には考えていたよりも早い到着となりそうだ。
「まぁ、この仕事がすんなりと進むとはとても思えないしな。自分のことはまだいいか」
深く考え過ぎても駄目だと言っていたアーヴィンの言葉を思い出し、クラウドはまず目の前の仕事から片付けることに専念することにした。




