16、往診カバン一つだけで
疲れ切ったクラウドはエリーの薬を服用して眠りについた。普段は胃の痛みで眠れないことも多かったが、ここ最近はぐっすり快眠できている。それはよいことなのだが、今回ばかりは災いした。
「侯爵……この話をどうしますか?」
クラウドが朝に遭遇したのは、意地悪な笑顔で侯爵に詰め寄るレイバンだった。侯爵のいつもの穏やかな笑みが引きつっているので、レイバンが無茶を言っていることはすぐに予想できる。
「レイバン様、朝から何をしているのですか?」
「んっ? 珍しく遅いな……恋煩いか」
「レイバン様!」
茶化してくるレイバンにクラウドが大声で抗議するが、言われている本人はまったく気にした様子を見せず涼しい顔をしている。
「何と言われても、本来の目的を話していただけだ。侯爵も理解してくれると思うぞ? なぁ?」
強引に了承をとろうとするレイバンは、さすが威厳があって侯爵もはっきりと断りを入れられないようだ。
「いつまでもこのままでいいとは思いませんが……」
「なら、出てくればいいだろう。これは命令だ、と言ってもいいのだぞ」
さすがに目の前にいる王子の命令を侯爵も無視できないだろう。
「良い結果になるかはわからないですよ」
侯爵の言い方は、令嬢の登場を約束したも同然だ。
「それでもいい」
満足そうなレイバンを見て、クラウドは自分がなしえなかったことを簡単にやってのける目の前の男にため息を漏らす。
「なんだ? クラウドは乗り気じゃないのか?」
「いや、そういう訳では……」
「クラウド様には熱心に説得していただいたのに応えられず……すみません」
侯爵はクラウドの脱力の理由を理解して気遣わしげな目線を向けてくる。
「なんだ、自分の不甲斐なさを悩んでいたのか? 気にするな、気にするな」
「……気にしていませんよ」
無神経なレイバンには慣れているので、クラウドは適当にあしらうように返す。
「なら、誰も文句はないな。そうと決まればすぐに準備にかかってくれ」
良く言えば行動的、悪く言えば強引だが方針は固まってしまった。侯爵は軽く礼をしてどこかへ去っていく、居場所がわからないと言っていたのは嘘ではないだろうからこれから捜索がはじまるのだろう。
(一体どんな娘が出てくるのか……)
クラウドはようやくの対面が近くに迫っていることを実感した。
「どこにもいないのです!」
侍女のリズが大声で叫んでいるとき、クラウドは何があったかわからなかった。
「どうしたのです?」
尋ねてみても、周囲までもが慌てていて情報が入ってこない。
「一体何の騒ぎだ?」
ついにはレイバンまでが現れて、ようやくクラウドは騒ぎの現況を知ることとなる。
「妹がいなくなったらしい」
現在の状況を教えてくれたのは門番の格好をしているものの、今は真剣な表情をしているユアンだった。
「いなくなった? 元々、いなかったのでは?」
「いないというわけではなく、ふらりと戻ってはふらりと出掛ける。そんな感じだったのです。だから、大抵誰かは居場所を知っていました」
クラウドが使用人に令嬢の居場所を尋ねて回っていたときも、誰かしら情報は持っていたらしいし、邸へ戻っていた時間帯もあったらしい。
「エアリル様は、すぐに戻ってくると森へ出かけたのです」
「なら、そのうち戻ってくるかも……」
楽観的な見解はすぐに否定される。
「ウェズは会っていないって!」
「はい……ですが入れ違いになった可能性もあります」
泣きそうなリズをウェズは宥めながら報告する。
「エリーにも聞けばいいんじゃないか?」
ウェズに会っていなくても、エリーに会っている可能性もある。クラウドは当然のことと提案したのだが、皆に怪訝な視線を向けられてしまう。
(何だ、この反応は?)
戸惑うクラウドに、ようやく落ち着いた侯爵がそれでも優れない顔色で呟く。
「エアリルがいなければ、エリーもいません」
「エリーもいない?」
予想外のことにクラウドは令嬢がいないと知らされた以上に驚いてしまう。
(二人で逃げるほど王子とのことが嫌だったの……?)
クラウドは思ってもみなかった結末に胃を押さえる。
「そんな……イテテテテ」
「どうした、この騒ぎは?」
クラウドの悲痛な叫びが響き渡ったところで、森で診療所を営む男アーヴィンが現れる。
「あぁ、ちょうどよかった! エリーがいなくなったのです!」
侯爵は娘のことではなく、真っ先にエリーの心配をする。だが、クラウドは平静ではなかったため、このことを気にも留めなかった。
「うむ。診療所にこんな置手紙があったぞ。それに、往診かばんがなくなっていた」
アーヴィンは懐から一枚の紙を取り出す。
“隣の国へ行ってきます。心配しないでください”
簡潔に書かれた文章は急いでいたのか字が乱れている。
「これは本当にエリーが書いたのだろうか?」
エリーの文字を見たことがないクラウドは判断に迷うが、他の者も同じらしい。同様に首を傾げている。
「もっと上手な字を書くが……よほど急いでいたか……」
「もしくは、無理矢理書かせたかだろうな」
クラウドの横でレイバンが不吉なことを口にする。
「む、無理矢理! それは誘拐ということか!」
今にも卒倒しそうな侯爵は、落ち着きなくその場で足踏みをする。
「こらっ! しっかりせんか」
「は、はい」
アーヴィンの一喝に侯爵は冷静さを少し取り戻す。指揮を取るべき人間は落ち着いていなければいけない。
「さすが、前侯爵アージェントヴィル。すごい迫力だ」
「へっ?」
レイバンの感心した言葉にクラウドはとんでもない事実を見つけてしまう。
「侯爵を息子に譲って森で診療所を開き隠居生活。長年、その行方を追ってようやく最近掴んだ情報だ」
「彼が……伝説的な」
クラウドはアーヴィン、いやアージェントヴィルを見上げてこの非常事態にもかかわらず思ってしまった。
やはり、侯爵家は変わり者ばかりだと。
だが、たとえアーヴィンがアージェントヴィルで前侯爵だったとしてもエリーとエアリル侯爵家令嬢の危機には変わらない。クラウドは一刻も早く二人を救い出さねばと気合いを入れ直そうとして、ようやく違和感に気が付く。
(あれ……どうしてみな、エリーの心配ばかりでエアリル嬢の心配はしていない?)
「どうして?」
呟きの答えは意外と簡単なのだが、クラウドはまだそれに気付いていない。




