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朗読を前提とした作品で、そんなに長くはしないつもりです。もし完結までかければ動画作ってうpすると思います。
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そこでは、藍錆色が今日も放課後の教室を包んでいた。
僕はせっかく日直が締め切ってい行ったその窓を少し開き、乾いた夜の風をほんのり素肌にあびせた。
音も無しに、生徒の吐いた体温は窓の外へと逃げてゆく。
寒いだとか暑いだとか、不快に思うときに一番季節感をとらえる僕にとって、放課後の教室で過ごすこの時間だけはそう、肌をつく10度以下もどこか心地良かった。
嫌いなものが愛おしいことって、あると思う。
目がくらんだ。
暗いままの室内に並ぶ机たちが、薄い斜光を集めては鏡の真似事をするのだ。
僕はその中で一番親しい机に軽く左手を乗せて、遠巻きに窓の外を見る。
そうして愉悦に浸っていると、左腕の袖の上からはめた腕時計が僕に最終下校時刻を思い出させる。
僕は窓を閉めて、教室を後にした。
好きなものが何もないって嫌だよね。
僕らはみんな好きなものをもちたがる。好きな色を決めたがったり、好きな音楽に聴き入ったり、好きな人を探して歩いたり。
でも、好きっていうのはやっぱり、嫌いであることとは切り離せない。
高い山に登ってしまえばそれ以外が低く見えるし、逆に海に潜れば陸は頭の上だ。
反対なもの同士が表裏一体でひとりの人間を表す。それって不思議だけど当たり前で、論理的だけど情緒的だと思う。
そして、人の生きると死ぬもその例外じゃないと思うんだ。
下駄箱に向かうと嫌いな冬が僕に身を当てる。
生き方を苦悶の表情で探す旅人たちは、死ぬことに関しては目を背けがちだ。
自分がどんな死に方をしたいか、どんな死に方をさせられるかが、つまり真逆にストレートに答えの的を射ていたりするって話さ。
だから僕は、ある人が死ぬまでを妄想して楽しんだりする。
趣味が悪いと思われるかもしれないけど、もしひとりの人の生き様を考えるなら、それは死に至る経緯を考えることと同義じゃないかな?と言い訳もちゃんと用意してある。
下駄箱に後から来た女子生徒が、寒さのせいか小走りで通り過ぎていった。
それにいつもじゃない。一時の暇つぶし。きっと次の遊びが見つかればそちらに精を出す日々になるんだ。
自分用に、身近な人たちの死に至る空想を綴ってブログに書いてみたりと、陰気な日課が意外とやめられないから困る。
それに、今回の遊びはちょっと長引きそうなんだ。
校門をでると、制服の裾が羽ばたいて、マフラーが宙を泳いだ。
手加減のない風だ。
僕は身を縮めてひとり帰路を歩きながら、一か月前の出来事を思い出していた。
ちょうど一か月前――――学校の女子生徒が一人死んだ。
ありがとうございました。
感想まってます。