第38話 血の流れる大陸
“何もない”世界に飛ばされた。生物も魔素も光も、あらゆる物質、概念が存在しない。物質が存在しないから、おれの全ての感覚も存在しない。
……いや、そもそもおれの精神だけがここに飛ばされている可能性もあるのだが……どちらにしたって何もできないな。しばらく待ってる必要があるかもしれない。
真っ暗な世界で、途方もないほどの時間が経った。それなのに、これは感覚というか、勘でしかないけれど、恐らく現世ではほんの1秒か2秒しか経っていないだろう。
精神が狂いそうだ。それなのにおれは何もできない。ただ残されている思考能力で、なんとか精神を保つことしかできなかった。
***
「お、おい……。エスト……だよな……?」
「………………?」
アスタロトが解放した空間から出てきた男に、グラが呼びかけた。間違いなくエストではある。見た目も、魔力を持っていないという点も。
けれど何かが変だった。雰囲気が違うというかなんというか……確かなのは虚ろな目をしていた、ということだ。
「ふっふっふっ……はっはっ!! 精神時間にして何十万年もの時間を過ごしたはずだ! 狂っちまうのも当然だ!!」
エストを解放してしまい半ば焦っていたアスタロトは、時間の流れを遅くし、己を加速させてエストに殴りかかった。心が壊れたのならば、警戒する必要はない。そう考えての攻撃だった。
「ッ……!?」
が、拳は簡単にいなされ、恐ろしい速さで地面に投げつけられた。いや、速いというのも少し違う。何かこう……アスタロトが強制的に動きを加速させられ、反応が遅れたようだった。アスタロトは血を拭い、冷静に思考した。
「……あの異様な反応速度……感覚が鋭くなったか? いや、それ以上に……まさか……ッ!?」
「……眩……しい……な」
久しぶりな気がする、エストはそう呟いた。雨の降る薄暗い空気だというのに、眩しいというのはそれだけ今まで刺激がなかったということだろう。
相変わらず何も感じていなさそうな瞳で、どこかを見つめている。隙だらけのように見える。だからアスタロトは再び攻撃を仕掛けるものの、やはり届くことはない。
「くッ……。なるほど、生来の魔眼が開眼したようだな。魔素の支配、“闇の王”の力を完璧にモノにするか……」
「………………」
エストに対して敵対心を見せたアスタロトは、能力はおろか、魔力操作さえもまともに扱えなくなっていた。身体の内側に手を入れられ、直接弄られているような感覚であった。
膨大な魔力であれば抗うことはできるが、エストは無限の魔素を扱っている。個人で扱える魔素の量には限界があるだろうけれど、並の、というよりアスタロトほどの魔力ではそう簡単には抵抗できない。
「…………いや、撤退するとしよう。またな、エスト」
「………………」
アスタロトは獄現門を開き、獄境へと帰っていった。今の状況ではエストに勝てないと感じたのだろう。無駄に力を使うよりは、撤退して策を講じようとするのは当然か。
敵の撤退を見届けたグラは、足元をふらつかせながらエストの元へと駆け寄った。
「おい、エスト! 意識はあるのか!? 儂が分かるか!?」
「…………えーっと……」
さっきまでよりはいくらか人間らしい顔をして、エストは記憶を辿った。
あの空間で過ごしている間、エストは精神を保つために本能的に記憶に蓋をしていた。いずれ解放されたときに正気に戻れるように。
ただあまりにも長い間蓋をしていたために、その蓋を外すのはなかなかに難しいことであった。あまりに重く、見当たらないところに……。
「エスト!! しっかりしろ! 分かるじゃろう! 向こうでセリアの魔力が小さくなっていってる!」
「…………」
「儂やジルアードの力じゃ向かうこともできん! なぁ、セリアが危ないんじゃ!! 分かるじゃろ!!」
「ッ…………!!!」
数秒、エストがグラの言葉を噛み砕いていると、彼の瞳には再び光が宿り始めた。見慣れた顔に戻った。そのとき、みんなが知ってるエストに戻ったのだ。
「……悪いッ!! お前らの治療は後回しだ! おれはセリアを助けてくる!!」
「おう、そうしてくれ……」
エストが森の奥へと飛んでいくのを見ると、グラはそのまま倒れ込んだ。傷が深い……というよりは身体の限界がきたという方が正しい。魔力も底をつき、力は入らなかった。
***
「……毒の霧……? ……アスモデウスの能力か! くそッ!!」
おれは森の中を突き進みながら、片手間に毒を浄化した。能力で作られたものは大抵、魔力を分解する反魔法で消滅させられる。奥に行けば行くほど毒は濃くなっているようだった。
こんなところにいては……思ったよりもセリアは危ない状況かもしれない。おれは出せる最高速度で飛んでいった。
***
「全く……死にかけとは思えねぇ暴れっぷりだったぜ……。我の腕を奪いやがって……代わりにお前の腕は貰っておくぞ」
「ッ———!!!」
何本もの槍が地面に突き刺さり、そしてその槍はセリアを貫いていた。ベルゼブブは身動きの取れないセリアに一本の槍を振り下ろし、彼女の右腕を斬り落とした。セリアは声にもならない悲鳴を上げながら、槍に含まれた毒に侵されていった。
「流石、現・人類最強ね。ねぇ、セルセリアちゃん、これも飲みなさい」
「んぐッ……!!」
そしてアスモデウスはセリアの口に指を突っ込み、そこから特殊な毒を流しこんだ。これはここ一帯に充満している毒霧と同じものだ。
「これね、微量だと神経を麻痺させる毒でしかないんだけど、長い間、大量に摂取すると中毒になっちゃうのよね。ちょっと違うけど、簡単に言えばあなたの身体にとってはこれが酸素になっちゃうの」
「……?」
「ほら、アスタロトが逃げたのか殺されたのか……いなくなったでしょ? でも向こうの人間は死んでないようだし、っていうことは彼が解放されたんでしょ?」
アスモデウスは揚々とそう話した。その隣ではベルゼブブがセリアの右腕……だったものを食している。
「…………じゃあ……あなた達…………殺され……がはッ……! ……ハァ……ハァ………………るわね……」
「そうね。でもそうならないかも。彼は毒を浄化するだろうから……」
「? ……ッ!! 殺……せ……ッ! 私を……今すぐッ……!!」
「嫌よ。……ほら、噂をすれば、じゃない」
アスモデウスはニッコリと笑いながら話していた。そして、彼女の言った通りエストは近づいてきて、毒霧は晴れていった。充満していた毒が、浄化されていった。
「あッ…………はッ……!!」
セリアは槍に刺されたまま、口から、目から、全身から大量の血を流していた。力が完全に抜け、重力に従った左腕を伝って、その下には赤い水たまりができている。




