第9話 手紙:鍛冶町からの呼び声
管理局の伝言板に、私の名前が貼られていた。
――ユイ 様。
木目の乾いた板。黄ばんだ紙。丸い釘の頭。誰かが貼って、誰かが剥がして、また貼る。新しさじゃなく、継続の色。ここはいつも、淡々と人を呼び止める。
私は、その紙の前で足を止めた。
背中の包みはいつも通り重い。けれど今日は、重さが布の中ではなく胸の奥にあった。宿の裏庭で、箒が走り出した光景がまだ残っている。
生活を削る呪い。
偏り。
他人事じゃない。誰かの「ちゃんとしなきゃ」が染みて、道具が形になってしまう。そう思うと、背中の剣の褒め言葉だって、ただの騒音じゃなく――どこかの誰かの強すぎる願い、なのかもしれない。
……誰の?
考えかけたところで、私は紙をそっと剥がした。
端がざらりと指に触れる。急いで切った紙じゃない。丁寧に切られた紙だ。
封はない。伝言板に貼るための簡易封筒。中に折りたたまれた手紙が一枚だけ入っている。
折り目を伸ばした瞬間、匂いが立った。
金属と煤の匂い。
火の匂いに似ていて、火そのものではない匂い。
鍛冶場の匂いだった。
胸の奥が、きゅっと鳴った。私は息を整えて、差出人の印を確かめる。
――工房の印。
手紙の文字を追う指先が、少しだけ硬くなる。
⸻
ユイへ
工房で小さな事故が増えている。
道具が勝手に動く。釘が折れる。火がいつもより荒れる。
それと――変な褒め声が聞こえると言う者がいる。
お前が何かしたのかと、皆が勝手に言っている。
そうじゃないなら、帰ってこい。
ジル
⸻
最後の署名だけが短い。短いのに、重い。
ジルの文字はいつもこうだった。余計なことを書かない。必要なことだけを書く。火の前の人間の文字。
私は手紙を握りしめた。
事故が増えている。
道具が勝手に動く。火が荒れる。
そして――褒め声。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
私が――原因?
そんなわけがない。私は町を離れている。ここにいる。
なのに、町で「褒め声」が?
背中の包みが、ふっと温かくなった。
いつもの拍手の温度ではない。もっと、焦げた鉄に近い熱。
『……火の匂い』
剣の声が、珍しく小さい。褒めではなく、懐かしむような音だった。
私は背中の包みに手を当てた。
「……知ってるの?」
『……知っている。……いや、覚えている、かもしれない』
曖昧な言い方。
剣が“曖昧”を口にしたこと自体が、胸に引っかかった。いつもは断言ばかりなのに。
私は伝言板の前で、しばらく動けなかった。
帰ってこい。
それは命令じゃない。お願いでもない。
呼び声だ。火の前で働く人間の、ぶっきらぼうな呼び声。
私はその呼び声に弱い。
そこで育ったから。そこで手を動かすことを覚えたから。そこに、まだ自分の居場所があるから。
足音が近づいた。
レオンが書類束を抱えてこちらへ来る。眉が少し寄っている。紙の束を抱えているときの彼は、いつもより疲れて見える。
「何かありましたか」
私は言葉にする前に、手紙を差し出した。説明するより早い。
レオンは受け取り、視線だけで読む。読む速度が速い。必要なところだけ拾う目。
読み終えた瞬間、眉間に深い皺ができた。
「……事故増加。褒め声。あなたの出身地?」
「はい。鍛冶町です」
喉の奥が少し熱くなる。懐かしさと不安が混ざる熱。
レオンは一度息を吐き、手紙を丁寧に折り直した。
「状況としては、調査案件です」
「調査……」
「呪具の偏りが連鎖している可能性がある。あるいは、同系統の呪具が複数。……どちらにせよ放置は危ない」
レオンの「危ない」は大げさじゃない。規定の人の危険は、現実につながっている。
私は手紙を受け取り、署名を指でなぞった。
ジルの文字が、ざらっと指に触れる。
「……帰らないと」
つい口に出た。
義務みたいな音になってしまうのに、私の中では義務と願いが混ざっている。
レオンが頷いた。
「同行します」
即答だった。
「え……」
「監督者としての責任もあります。あなた一人で行かせられない」
硬い言い方。なのに、その硬さの奥に、ひとつだけ柔らかいものが混じっている。
心配、という柔らかさ。直接言わない種類の心配。
背中の剣が小さく熱を持った。
『……行く』
短い。決意みたいな一言。
私は頷く前に、不安をひとつ言葉にしてしまった。
「……もし、町で起きてることが、私のせいだったら」
言った瞬間、喉が締まる。
言わなければよかった。自分で自分を追い詰める言葉だ。
レオンは、すぐには否定しなかった。
否定の代わりに、落ち着いた声で言う。
「原因はまだ分かりません。分からない段階で罪悪感を引き受けないでください」
止める言葉だった。
私が勝手に背負おうとする荷を、手で押し返す言葉。
「……はい」
小さく頷くと、レオンは続けた。
「ただ、あなたが行く理由はあります。手紙が届いた。状況を知っている。……そして、あなた自身が気にしている」
的確すぎて、少し笑いそうになる。私は気にしている。いつだって気にしすぎる。それで自分がしんどくなるのに。
レオンは窓口の方へ視線を向けた。
「旅程の書類を整えます。移動許可、携行物の申請、宿の紹介状……」
「そんなに……」
「規定です」
言い切ってから、声を少し落とす。
「……規定を通しておけば、いざというとき動きやすい」
彼のやり方だ。面倒を先に飲み込んで、事故を減らす。
面倒は嫌いなのに、必要な面倒は引き受ける。
私はその背中を見て、胸の奥が少し軽くなった。
窓口からミレイが顔を出した。手元の仕事を止めないまま、視線だけを寄こす。視線だけで状況を読む目。
「手紙?」
「鍛冶町で事故増加。褒め声も」
レオンが答える。
ミレイは一瞬だけ、嫌そうな顔をしてから、仕事の顔に戻った。
「……あー。嫌な匂い」
匂い、という言い方が現場っぽくて少し可笑しい。役所の人なのに、現場の匂いで判断する。
ミレイは引き出しから紙束を取り出し、手早く準備を始めた。
「許可証、こっちで作る。宿の紹介状も。ユイ、無理しないこと」
命令じゃないのに、命令みたいに胸に残る。
無理しないで済む人間なら、そもそもこういう状況に巻き込まれていない。
それでも、言われると嬉しい。気にかけられると、呼吸が少し深くなる。
「……はい」
私は返事をしながら、手紙を胸に抱えた。
鍛冶町の匂いがする紙。そこには「帰ってこい」という短い呼び声がある。
背中の剣は、珍しく静かだった。褒めも拍手もない。
ただ、鞘口の熱が火の匂いに反応して、脈打っている。
その静けさの中で、私は気づいた。
剣の褒め言葉は、いつも“前へ”だった。
前へ。進め。大丈夫。立派だ。
でも今、剣は“戻る”に反応している。
戻る、は逃げじゃない。
確かめるためだ。自分の始まりを。自分の居場所を。背負ってしまった面倒の正体を。
怖さと一緒に、覚悟が生まれた。
帰る。
帰って、見て、聞いて、整える。
そしてできれば、誰も壊れない形にする。
手紙の端が指に触れて、ざらっと鳴った。
そのざらつきが、現実だった。
――鍛冶町が、私を呼んでいる。
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