第8話 初任務:呪具は日常に潜む
呪具は、派手じゃない。
火を吐く剣や雷を落とす杖なら、見れば分かる。避けられる。距離も取れる。
厄介なのは――危険に見えないものだ。
たとえば、箒。
ただの箒が、ただの箒じゃなくなると、生活が削れる。
管理局の廊下を歩きながら、私はその言葉を頭の中で転がしていた。木の床はきしみ、紙と墨の匂いが薄く漂う。役所の光はいつも淡い。淡い光は、心を落ち着かせることもある。
前を歩くレオンの歩幅は一定だった。迷いがない。目的地が決まっている人の歩き方。
「今日の案件」
歩きながら、レオンが言った。
「危険度は低い。けど、放置すると生活が壊れます」
「……生活が壊れる」
怪我より怖い言葉だ。じわじわ壊れるものは、気づいたときには戻せない。
レオンは頷いた。
「対象は箒。夜間に勝手に動いて、物を移動させる。意思はない。目的が偏ってる」
偏り。
また、その言葉。相談窓口で聞いたばかりの、呪いの正体。
背中の包みが、ほんのり温かい。剣は今日は静かだ。完全に黙ってはいないが、短く抑えている。
『持ち主よ。聞く姿勢、良い』
短い。助かる。
レオンがこちらをちらりと見た。
「無理に喋らせないでください」
「……はい」
「あなたが一人で解決しようとしないでください」
「……はい」
念押しが多いのは、私の信用が薄いからだろう。薄いのは当然だ。私は規定の人間じゃない。断れない癖も自覚がある。
胸の奥が少し痛む。
でも、必要な痛さだ。痛みは、線を教えてくれる。
建物の外へ出ると、空気が湿っていた。雨の手前の匂い。石畳が冷たく、外套の裾が風で揺れる。
目的地は宿だった。
旅人向けの大きな宿ではなく、町の端の小さな宿。裏庭があり、洗濯物が干せるような、生活の場所。こういう場所に呪具が紛れると、厄介さは増える。
裏口を叩く前に、扉が開いた。
「すみません! 本当にすみません! 昨夜も、また……!」
飛び出してきたのは女将らしき女性だった。目が赤い。眠れていない目。責められる前に謝る目。
私はその目を見るだけで、胸がきゅっとなる。
女将は私の背中の包みを見て、わずかに身を引いた。
「……それ、もしかして」
「違います」
レオンが即答した。
「今回の対象は箒です。こちらは別件の携行物。関係ありません」
女将がほっと息を吐く。
その反応に、私は少しだけ苦くなる。剣を背負っていると、人が怯える。怯えるのは当然だ。呪いの道具なんて、普通は関わりたくない。
レオンは淡々と話を進めた。
「状況を確認します。箒はどこに」
「裏庭です。掃除用の……いつもは壁に立てかけてるだけなのに、夜になると……」
女将の手が握りしめられる。指先に木屑がついていた。何度も探して、触って、戻している指先。
裏庭へ案内される。
狭い庭に、井戸と木箱。壁際に掃除道具が並び、その中に一本の箒が立っていた。
見た目は普通だ。木の柄、束ねられた藁。少し古いが手入れはされている。呪いの気配なんて、私には分からない。
レオンが封具箱を地面に置き、符を取り出した。手早い。正確。指先が迷わない。
「まず、動きを止める」
符を地面に置き、短い言葉を唱える。空気がふっと締まる。箒の周りに見えない輪ができるような感覚。
……その輪を、箒が“避けた”。
すっと壁から離れ、自然に柄が浮く。藁が地面を擦る、ざり、と乾いた音。
「……逃げますね」
レオンの声は落ち着いている。だが目が鋭い。
箒は庭の端へ滑るように動き、木箱の陰に潜り込もうとする。意思がないはずなのに、動きが妙に生き物っぽい。
女将が青ざめた。
「ほら! こうやって勝手に……!」
「大丈夫です」
レオンの短さが頼もしい。
私は一歩出しかけて、止めた。勝手に動くな、と言われた。監督下だ。混乱を増やしたくない。
――そのとき。
「あっ!」
女将が叫ぶ。
「そこ、今朝まとめたばかりの――!」
木箱の隙間。洗濯物の束。整えて並べたばかりの生活。
生活が壊れる。
その言葉が、頭の中で鳴った瞬間。
私は、動いていた。
箒の柄を、素手で掴む。
掴んだ瞬間、箒がぐいっと引いた。びっくりするほど強い。手が滑る――と思った。
……滑らなかった。
靴底が湿った石畳に食いつき、指が柄を離さない。背中がほんのり熱くなる。拍手の温度が、背中から腕へ伝わった気がした。
『咄嗟の判断。守る心――良い』
剣の声が短い。短いのに、確かに支えられた感じがある。
助けられた、と言ってしまうと、また頼りたくなるから嫌なのに。
私は箒を引き戻し、地面へ押さえつける。箒がじたばたする。じたばたする箒は、本当に生き物みたいで少し怖い。
「ユイ!」
レオンの声が飛ぶ。叱る声じゃない。位置を合わせる声。
「離さないで。今、封を重ねる」
「……はい!」
私は返事をして、押さえ方を変えた。力任せに押すと折れる。折れたら危険だ。
だから、圧を分散する。藁束は踏まない。柄の根元を押さえる。
レオンが符を二枚、三枚と置く。輪が重なり、空気が硬くなる。箒の動きが鈍り――最後に、ぴたりと止まった。
静けさが落ちる。
女将が息を呑み、へたりそうになる。その膝が崩れないように、私は視線だけで支える。“大丈夫”を送る。
レオンが箒を見下ろして言った。
「捕縛完了。……動機を確認します」
動機。箒に動機。
レオンは手袋越しに箒の柄へ触れ、薄い紙札を当てた。紙札が淡く光り、文字が浮かぶ。
「……『片づけ』」
レオンが読み上げる。
「片づけ……?」
女将が呟いた。
レオンは頷いた。
「片づけたい、という偏りです。誰かが強く願った。強く願いすぎた」
女将の肩が小さく震える。
「……私です」
声が小さい。恥ずかしさと疲れが混ざった声。
「宿はいつも散らかるし、お客さんが来ると焦るし……ちゃんとしてないと、って思って……片づけなきゃ、片づけなきゃって……」
言葉が途切れ、息が詰まる。
胸の奥が痛む。分かるからだ。
“ちゃんとしてないと”が強くなるほど、ちゃんとしてる自分しか許せなくなる。許せなくなると眠れない。眠れないと心が削れる。
箒は、その削れた心の代わりに動いてしまったのかもしれない。
レオンが女将に向けて言った。
「呪具を封じるだけでは再発します。偏りを薄める必要がある」
女将が顔を上げる。責められると思っている顔。
レオンは責めない。作業の声で言った。
「今日、全部片づけなくていい。今夜は寝てください」
女将の目が瞬いた。寝てください、という言葉に、人は一瞬戸惑う。寝るのは怠けだと信じている人ほど。
私は口を挟みたくなる。責めないで、と言いたくなる。守りたくなる。
背中の剣が、息を吸う気配を見せた。
『女将よ。努力――』
(だめ)
私は心の中で言い、同時に包みにそっと手を当てた。止める合図。
今、褒めが刺さったら、女将はまた「ちゃんとしなきゃ」で縛られる。
『……承知』
短い。今日はよく止まる。
私は女将に向けて、褒めではなく“事実”を言う。
「女将さん。……今、こうして相談してくれました。困ってるって言ってくれました。そこが、まず大事です」
女将の肩が少し落ちる。力が抜ける。
「……私、ほんと、だめで」
「だめじゃないです」
言い切った自分に、私が驚いた。言い切ると責任が生まれる気がして、私はいつも避けてきたのに。
でも今は、言い切りたかった。
「だめじゃない。……疲れてるだけです。疲れてると、心が一つのことだけに寄ります」
女将の目が潤む。ほどける涙だ。
レオンが封具箱から別の札を取り出した。淡い灰色。角が丸い。
「偏りを薄める封をかけます。箒を“ただの箒”に近づける」
札を箒の柄に巻き、短い言葉を唱える。空気がふわりと緩む。締めすぎない輪へ変わる。箒の藁がただの藁に戻っていくように見えた。
箒は動かない。
動かない箒は、ただの道具だ。道具は、使う人が休んでも怒らない。
女将が深く息を吐いた。
「……ありがとうございます……」
震える声。ようやく安全になった震え。
しばらくして、女将は台所から温かいお茶を持ってきた。草茶の匂い。湯気が指先を温める。心臓が少しだけ遅くなる。
「よかったら……飲んでください」
私は両手で受け取った。
レオンも一口飲み、短く頷く。
「報告書を出します。再発したらすぐ連絡を」
「はい……はい」
女将は何度も頷いた。頷けるのは、今はまだ壊れていない証拠だ。
私は壁に立てかけられた箒を見た。普通に見える。普通に見えるのに、昨夜は勝手に走り回っていた。
普通だからこそ、厄介だった。
背中の剣が、ぽつりと言った。
『持ち主よ。……褒めなかった。良い』
褒めなかったことを褒めるのは、変だ。変だけど――少し嬉しい。
(うん。良かった)
私は心の中で返す。
剣はそれ以上言わない。言わない努力をしている。努力が見えると、こちらも一緒に頑張ろうと思える。
帰り道。町の端の道を歩きながら、私は思った。
呪具は特別な誰かの手元にだけあるものじゃない。
生活の中にある。
疲れた心が強く願うと、ただの箒が走り出す。
だから呪いをほどくには、道具だけじゃなく――人の心も少しだけほどく必要がある。
派手な戦いよりずっと難しくて。
それでも、ずっと優しい仕事だった。
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