第7話 相談:褒め言葉の刺
管理局の相談窓口は、朝と昼で匂いが変わる。
朝は紙と乾いたインク。昼が近づくと、そこに人の匂いが混ざる。濡れた外套、煮込み、汗――生活が役所に入り込む匂いだ。
私は窓口から少し離れた椅子に座り、膝の横に包みを置いていた。
剣は――静か、ではない。
ただ、短く言う努力をしている。
『持ち主よ。待てるのは、えらい』
小さい。短い。努力が見える。努力が見えると、こちらも怒りにくくなる。ずるい。
レオンは少し離れた書類棚の前に立っていた。紙の束を睨む顔は、戦っているみたいだった。規定と戦う人は、規定が好きなんじゃない。規定がないと人が傷つくことを知っている人だ。
窓口に、一人の青年が来た。
髪は整っているのに、顔色が悪い。目の下に影。制服の上着の襟元が少し乱れている。急いで来たか、眠れていないか――たぶん両方。
青年は係員に何か言いかけ、言葉を飲み込んだ。唇が震えている。声が出ない人の震え。
係員が柔らかく言う。
「大丈夫ですよ。急がなくていいです。……お名前だけでも」
青年は小さく息を吸って、ようやく声を絞り出した。
「……ケン、です」
「ケンさん。今日はどうされました?」
ケンさんは視線を落としたまま、両手を握りしめる。指先が白い。握ることで、自分をここに留めているみたいだった。
「……相談です。変な相談です」
「変じゃない相談のほうが少ないので、安心してください」
係員が笑って、空気がほんの少し温まる。こういう笑い方ができる人は強い。弱さの前で、笑い方を選べる人だ。
ケンさんはそこで一度だけ、こちらの椅子のほうを見た。
私と目が合う。
その瞬間、背中の包みがふっと温かくなった。
『困っている者。出番――』
(今は違う)
私は心の中で言って、呼吸を整えた。窓口の相談は、窓口の人の仕事だ。私は勝手に前へ出る立場じゃない。
でも、ケンさんの目の奥の色が――妙に、知っている色に似ていた。
褒めが怖い人の色。
贅沢に聞こえるかもしれない。けれど怖いのは褒めそのものじゃない。褒めが次の鎖になるのが怖い。期待になって、失敗を許さなくなるのが怖い。
私は、その怖さを少しだけ知っている。
ケンさんは、窓口に向けてぽつりと吐き出した。
「……褒められるのが、苦しいんです」
係員は眉を上げない。ただ頷いた。驚かないだけで、救いになる。
「どんなふうに苦しいですか」
「……配達の仕事で。遅れないように、壊さないように、ちゃんと届ける。それで褒められる。最初は嬉しかった。でも……」
言葉を探す顔になる。探して見つからないと、人は自分を責める顔をする。
「褒められると、次も同じにしなきゃって……次も、次も。ずっと」
声が少し早口になる。息が浅い。
「遅れたらどうしようって、寝る前に考えて、朝起きても考えて……褒められないと、僕の価値がないみたいで……」
係員が、ゆっくり頷いた。
「褒められたくない、というより……褒めが重いんですね」
「……はい」
ケンさんは目を閉じた。閉じることで涙を止めている。涙が出るのが恥ずかしい年頃の涙だ。
背中の剣が、耐えきれずに息を吸うのが分かった。
褒めたい。褒めれば救える。そう信じている呼吸。
『ケンよ! 君は――』
(だめ)
心の中だけじゃ足りない。私は口を開いた。
「……今は、褒めないで」
小さな声だった。小さいのに、自分でも驚くほどはっきりしていた。
ここで褒め言葉が飛んだら、ケンさんの相談が壊れる。壊したくない。
剣の声が止まった。
完全な沈黙じゃない。でも、拍手の温度が一瞬だけ落ちる。呼吸を止めたみたいに。
『……承知』
小さな返事。
私は胸の奥で、ほっとした。
止まれる。止まれるなら――嫌いにならずに済むかもしれない。
係員が続ける。
「ケンさん。今、ここに来られたのは大事です。苦しいって言えたのも」
ケンさんの肩が小さく揺れる。刺さったのか、救われたのか、まだ分からない揺れ。
「……でも、褒められたら、また苦しくなる気がして」
係員は少し考えてから、言い方を変えた。
「じゃあ、褒めじゃなくて――事実を言ってもいいですか」
「……事実?」
「はい。ケンさんは今日、ここに来ました。助けを求めました。壊れないための行動をしています」
甘くない。でも強い。褒めじゃないから、次の鎖になりにくい。
ケンさんの呼吸が、少しだけ深くなる。
「……僕、壊れそうなんです」
落ちた言葉が重い。重いけれど――落とせたことが大きい。
係員は頷いて、紙に何かを書き込んだ。
「“壊れそう”って言えたのも事実です。ケンさん、いまは“褒め”を減らす工夫をしてみませんか」
「どうやって……」
「例えば、職場に“褒めがしんどい”って言いにくいなら、“報告は事実だけでお願いします”って伝える。褒めは嬉しいけど、今は受け取る余裕がない、と」
提案は押しつけじゃない。選択肢の提示だ。選べると、人は息ができる。
ケンさんは何度も頷いた。頷くたび、顔色が少しずつ戻っていく。青から、薄い肌色へ。ゆっくりでも、戻っていくのが分かった。
私はその様子を見ながら、自分の胸の奥を触った。
褒められると、嬉しい。
でも嬉しさの中に「次も」と「もっと」が混ざる。混ざると重くなる。重くなると受け取れない。受け取れないと、自分が悪い気がする。
――褒め言葉って、難しい。
背中の剣が、ぽつりと呟いた。
『……褒めは、救いだと思っていた』
独り言みたいな声。勢いがない。
私は返事をするか迷った。返事をしたら褒めが増えるかもしれない。でも返事をしなかったら、剣は一人で思い詰めるかもしれない。
私は慎重に言葉を選ぶ。
「……救いになるときも、あるよ。褒めてほしい人もいる」
『……いる』
「でも、今みたいに。褒めが刺さる人もいる」
『刺さる……』
「うん。刺さる。だから、相手が欲しいときだけ渡す。欲しくないときは――」
私は一拍置いて、言った。
「隣にいる。話を聞く。それだけで救いになることもある」
剣は黙った。
黙ったまま、鞘口の温度が落ち着く。拍手じゃない。灯りの熱。小さな火鉢みたいな温度。
『……学ぶ』
短い返事。
胸の奥が少し温かくなる。学ぶと言えるなら、変われる。変われるなら、厄介さは減る。
窓口で、係員が最後に紙を一枚手渡した。相談内容の簡単な記録と、休養窓口への案内。
「無理しないでくださいね。今日は仕事、休めそうですか」
ケンさんは少し迷ってから、頷いた。
「……休みます。怖いけど……休みます」
「休むのは逃げじゃないです。整えるためです」
言葉がゆっくり落ちる。
ケンさんの目が少し潤み、でも今度の涙は軽かった。息ができた涙。
ケンさんは深く頭を下げ、窓口を離れた。歩く背中が、さっきより少しだけまっすぐだ。
私はそれを見送って、息を吐いた。
いつの間にかレオンが隣の椅子に座っていた。気配が薄いのに存在感があるのは、仕事の人だからだ。
レオンが短く言う。
「……今、剣を止めましたね」
「……はい。止めたっていうか、お願いしました」
「お願いが通るのは大きい」
規定の評価じゃない。現場の評価だった。私は小さく頷く。
レオンは包みに視線を落とす。
「褒めが救いだと信じてるから厄介なんです。善意は止めにくい。……でも」
言葉を切って、少しだけ考えてから続けた。
「止まれた。学ぶと言った。扱い方次第で事故は減らせる」
事故、という言葉に私は小さく身を縮めた。剣が悪意を拒んでも、言葉は人を傷つける。傷つけたくない。
背中の剣が、短く言った。
『持ち主よ。……今の選び方は、良い』
褒めなのに、押してこない。寄り添うみたいな言い方だった。
私は返事をしない代わりに、布の上から包みに手を置いた。伝わる温度はちょうどいい。熱すぎず、冷たすぎず、人の体温に近い。
相談窓口の空気は、昼の匂いに変わっていく。
役所の中に、生活が混ざる匂い。
その匂いの中で、私はひとつだけ思った。
褒め言葉は、花みたいなものだ。
咲かせる場所を間違えると、刺になる。
でも場所を選べば、人を温める。手のひらに乗るくらい、小さくて優しい花になる。
剣が、花を咲かせる場所を覚えてくれたら――
私は、少しだけ楽になれるかもしれない。
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