第5話 誤解:英雄じゃないです
朝の広場は、噂が速い。
風でも霧でもない。人の口が速い。温度の高い言葉ほど、足より軽く走る。
私は広場を横切るだけのつもりだった。宿へ戻って荷を整えて、仮登録札を鞘に括り直して、ついでにパンを買う。それだけ。
――それだけの予定が、広場に一歩入った瞬間に崩れた。
「おい、あの子だろ?」
「今朝、迷子を助けたって――」
「剣を持ってるって本当?」
声が飛ぶ。視線が集まる。人の流れが、私の進行方向に薄い壁を作る。
反射で肩がすくむ。背中の荷が重くなる。布越しに鞘口が温かい。拍手みたいな熱。
『称賛の視線! よい!』
(よくない)
表情だけは、なるべく穏やかに保つ。怖くない。怖くないふりをすると、怖さは少し小さくなる。
でも、耳に入ってくる言葉が胸をざわつかせた。
「剣が光ったってよ」
「泣いてた子が、剣の声で笑ったとか」
「魔物を追い払ったって話もあるぞ」
――違う。
光ってない。声で笑わせてもない。魔物なんて一度も出てない。
私はただ、手を握って、探しただけだ。
なのに噂は、現実より面白いほうへ寄る。盛られた物語は人を安心させる。安心は、次の一日を回す燃料になる。
分かる。分かるからこそ、困る。
私は小さく息を吸って、人だかりの向こうへ頭を下げた。
「……違います。大したことは、してません」
声は出た。でも弱い。弱い否定は、伝わりにくい。
誰かが笑う。
「照れてるんだよ」
「英雄は皆そう言う」
英雄じゃない。
英雄なんて言葉は、私の背丈には大きすぎる。背負ったら潰れる。
背中の剣が、ここぞとばかりに元気になる。
『謙遜! 美徳! 完璧!』
(完璧なわけあるか)
足を動かそうとした、そのとき――群衆の外側から乾いた声が割り込んだ。
「道を塞がないでください。通行妨害です」
レオンの声だった。
制服コートの青年が人だかりの前に立つ。姿勢がいい。目線が高い。声が低く、よく通る。
規定の言葉は、こういうとき強い。
人だかりが少しだけ割れる。
「なんだよ、役人か」
「役人が英雄を連れてるってことは……本当なんだな」
言葉が勝手に繋がっていく。噂は、繋がりやすいものだけ繋ぐ。
レオンの眉間に浅い皺が寄った。嫌そうな顔。でも仕事の顔。
「本当かどうかではなく業務です。過度な接触は避けてください」
“業務です”は線を引く言葉だ。線が引かれると、人は一歩下がる。その一歩が、こちらの呼吸のスペースになる。
私はその隙間から広場の端へ抜けようとした。
――その隙間に、別の声が飛び込んだ。
「ねえ、お願いがあるんだけど!」
若い女性が前に出てきた。赤い頬。忙しそうな目。焦りが身体から飛び出している。
「うちの猫がいなくなって……昨日から戻ってないの! あなたなら見つけられるんでしょ? 英雄なんでしょ?」
英雄じゃない、と言いかけて、言葉が喉で止まった。
猫がいない。昨日から。戻ってない。
胸の奥が勝手に動く。
――探してあげたい。
でも私は今、未登録呪具を背負っている。仮登録。監督者つき。勝手に動けば面倒が増える。面倒が増えれば、迷惑が増える。
『助けたい心! 行け!』
背中が熱くなる。決断を急かす拍手の温度。
私は一歩出かけて――止まった。
助けたい、だけで動いたら、今度は別の誰かが困る。私が困るのはまだいい。でも私が困ると、レオンが困る。管理局が困る。猫探しより大きい面倒になる。
私は口を開き、慎重に言葉を選んだ。
「……すみません。私、今すぐは――」
「待って」
レオンが横から私の言葉を受け取った。
止める声じゃない。整える声。
レオンは女性に向き直り、淡々と言う。
「依頼は管理局経由です。ここで個別に受けると揉めます。迷子や遺失物には手順があります。窓口へ」
「え……そうなの?」
女性の顔が戸惑う。
「事情を聞いて優先度を判断し、担当を決めます。……あなたの猫も、記録に残ります」
“記録に残る”。それは、頼んだ側にとって救いの言葉だ。流されない。消えない。置いていける。
女性はまだ不満そうだったけれど、制服と声の確かさに押されて頷いた。
「……分かった。行く」
その場の熱が少し落ち着く。
人だかりも、別の興味へ散り始めた。朝の広場は忙しい。噂は速いけど、同じ場所には留まらない。
私は息を吐いた。
吐いた息が少し震えたのが分かる。緊張が遅れて身体に来る。終わってから震えるタイプだ。
レオンが小さく言った。
「……断ろうとしてました?」
「はい。……でも、断るの、苦手で」
口に出してから恥ずかしくなる。苦手、で済ませるのは甘い。弱点だ。
レオンは一瞬だけ視線を逸らし、すぐ戻した。
「苦手でも、やる必要があります」
正しい。正しいから刺さる。
背中の剣が、むずむずと騒ぎ始める。
『断る必要など――』
「黙れ」
レオンが短く言う。
剣の声が、すっと小さくなる。静けさが戻る。その静けさが、私の足元を固くしてくれる。
私は気づく。
レオンが線を引いてくれているのは、剣のためだけじゃない。
私が流されないためだ。
広場の端を歩きながら、胸の奥を見た。
助けたい気持ちは嘘じゃない。でも、それだけで動くと、助けるどころか別の何かを壊すことがある。
私はその“壊す”が怖い。
怖いから動けない。動けないと自己嫌悪になる。自己嫌悪になると、余計に誰かに優しくしたくなる。
……やっぱり厄介だ。
背中の剣が、珍しく短く言った。
『……君は、優しい』
短い褒め言葉は、ずるい。
返事をしたら肯定してしまう。肯定したら背負うものが増える。増えると、また断れなくなる。
私は返事をしなかった。
広場の出口で、レオンが立ち止まる。人通りの少ない場所。空気が少し冷える。
「ユイ」
名前で呼ばれると背筋が伸びる。苗字じゃない呼び方は距離を縮める。
「……このままだと、あなたが潰れます」
規定の声じゃない。現場の声でもない。個人の声だ。
私はすぐ否定できなかった。
潰れた自分を想像してしまう。倒れて、動けなくなって、迷惑をかけて、「すみません」を繰り返して――それでも誰かを助けようとして、また倒れる。
嫌だ。
私は小さく頷いた。
「……どうしたらいいですか」
頼る問いだった。得意じゃないのに、口から出た。
レオンは少し驚いた顔をして、咳払いをしてからいつもの硬さに戻る。
「まず、依頼は管理局経由。個別に受けない」
「……はい」
「それから、受けるかどうかはあなたが決める。あなたの意思です」
意思。
私は普段、意思を意識していない。頼まれたら動く。困ってる人がいたら動く。反射で生活を回してきた。
でも反射で動くと、噂がついてくる。噂がつくと期待がついてくる。期待がつくと、断れなくなる。
この輪を、どこかで切らなきゃいけない。
背中の剣が、ぽつりと言った。
『……意思を持つ者は、強い』
褒め言葉が、珍しく正しい方向に刺さった。
広場の向こうからまた声が聞こえる。誰かが誰かに噂を話している。私のことかもしれないし、違うかもしれない。噂はいつも動いている。
私は広場から少し離れたところで、ようやく深呼吸をした。
パンの匂いがまだどこかに残っている。朝の匂いの中に、ほっとする匂いがあると心は少し戻る。
でも、戻った心の端っこに小さな影ができていた。
――このままじゃ危ない。
誰かのために動く自分が、誰かのために壊れるなら、それは優しさじゃない。
私は背中の重みを確かめて、歩き出した。
歩幅はさっきより少し小さい。慎重で、遅い。遅いのは悪いことじゃない。歩き方を変えるには、まず速度を落とすしかない。
背中から拍手の熱が小さく伝わる。
『持ち主よ』
剣が呼ぶ。
その呼び方が、少しだけ優しく聞こえた。
そして私は、気づいてしまった。
――この剣もまた、“私に期待している”。
期待は、噂より重い。
私はその重さを背負ったまま、宿へ向かった。
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