第47話 初勝利:今日は十分、が広がる瞬間
朝の市場は、人が流れていた。
荷を運ぶ人。売る人。買う人。
声が重なって、足が揃って、町が勝手に速くなる。
合流点の町は、朝から忙しい。
忙しさが当たり前で、忙しさが正しい。
けれど今日の市場は、少しだけ違った。
裏手。水路から離れた場所に、湯気が立っている。
桶がひとつ。椅子が数脚。
その横に、誰かが置いた布が揺れていた。
休憩所が増えている。
支部員だけじゃない。
町の人が、自分で作っている。自分で守っている。
ユイは少し離れた場所から、それを見ていた。
見守る。言わない。指示しない。
ここで言葉を押しつけたら、重くなる。
重くなると嫌われる。
嫌われると、壊れる。
だからユイは、ただ見ている。
桶の横で、誰かが札を貼った。
白い紙に、短い文字。
『今日は十分』
貼ったのは支部員ではなかった。
腕まくりをした若い荷運びだ。指先が荒れている。
若者は貼り終えると、何も言わずに湯を飲んだ。
飲み方が、少しだけ丁寧だった。
ユイの胸が、ゆっくり緩む。
言葉が町のものになる瞬間は派手じゃない。
大声も拍手もいらない。
ただ、自然に出る。
「……今日は、十分だな」
誰かの声がした。
ユイは声の方を見ない。
見たら、その人は照れて引っ込める。
引っ込めたら、せっかく出た言葉が細くなる。
ユイは何も知らない顔で、湯気を見た。
湯気は薄い。
でも、途切れていない。
隣でミドリが息を呑んだ。
目が潤んでいる。
「……置いたんです。町の人が」
泣きそうなのに、笑っている。
ユイは頷いた。
「うん。置いてくれたね」
ミドリは両手を握りしめた。
指が白くなるほど力が入っているのに、その顔は前を向いていた。
レオンは淡々と帳面を開いていた。
紙に線を引き、短い言葉を残していく。
「湯の桶、増加」
「交代札、設置率上昇」
「『今日は十分』の自発発話、複数確認」
ユイは少し笑った。
「記録、好きだね」
レオンは目だけ上げる。
「好きじゃない。必要だ」
「再現するため?」
「そうだ。町が変わる条件を残す」
ユイは頷いた。
条件が残れば、次も守れる。
守れれば、帰れる人が増える。
午前の忙しさが少し落ちた頃だった。
市場の中央で、羽組の売り子が現れた。
上品な笑顔。柔らかい声。
角が丸いほど、こちらの逃げ道を削ってくる。
「頑張れる札、ありますよ」
札束が広がる。文字が短い。
『今だけ』
『今日だけ』
『あと少し』
取りやすい言葉。
刺さらない顔で刺す言葉。
ユイは距離を取った。反論しない。
反論は相手の舞台を大きくする。
売り子は上手かった。
「もちろん、休むのも大事です」
そう言ってから、にこりとする。
「今日は十分。……でも、あと少しだけ」
混ぜる。
混ぜ方がうまい。悪く見えない。
むしろ“優しい提案”に見える。
ミドリが小さく言った。
「……ずるい」
ユイは頷く。
「ずるい。でも上手い」
レオンが帳面に書く。
「混合型。抵抗を減らす誘導」
午後、荷の積み場で声が急に高くなった。
「急げ!」
「今だけだ!」
「あと少しで終わる!」
声が揃い始める。
揃うと危ない。
足が揃って、流れが強くなる。
強い流れは、人を倒す。
ユイは一歩だけ近づいた。
走らない。走れば目立つ。目立てばさらに揃う。
荷の上で若い荷運びが足を滑らせた。
濡れた板。濡れた縄。
足が外へ出る。
落ちる。
背中の剣が熱くなる。
一回で区切りを作りたがる気配が伝わってくる。
けれどユイは叫ばない。
ここで声を荒げたら、誰かが倒れる。
間に合わない――そう思った瞬間。
「息をしろ!」
声が飛んだ。
ユイの声ではない。
積み場の端にいた年配の男だった。
怒鳴る声ではない。助ける声だ。
若い荷運びが、一瞬止まった。
止まって、息を吸った。
息を吸っただけで、足が戻る。
足が戻るだけで、体が戻る。
落ちない。
若い荷運びは荷にしがみつき、膝をついた。
顔が青い。
でも、生きている色だった。
周りの声が止まった。
揃いかけた足が、ほどけた。
沈黙の中で、誰かが短く言う。
「今日は十分だ」
別の誰かが続ける。
「……湯、飲め」
桶の方へ視線が流れた。
湯の場所が、もう“言われて行く場所”じゃなくなっている。
自分で向かう場所になっている。
若い荷運びは誰にも押されずに桶へ行き、湯を飲んだ。
息を吐いて、肩を落とした。
ユイの胸の奥が少し痛くなった。
痛いけれど、嫌な痛さじゃない。
戻れた痛さだ。
ミドリが泣き笑いをした。
「ユイさん……言わなくて済みました」
ユイは頷いた。
「うん。町が言ってくれた」
レオンは淡々と書く。
「危険場面に対し、町側が先に『息をしろ』を発話」
「指示者不在でも機能」
ユイは思った。
守り方は、ひとつじゃない。
守るのは、ひとりじゃない。
ユイは肩の力を落とした。
落としてみて、初めて分かる。
自分はずっと、肩に力を入れていた。
背中の剣が静かに熱い。
熱が怖さじゃなく、落ち着きに近い。
剣が小さく言った。
「……褒める」
大きな音じゃない。
区切りの声。
ユイは小さく笑う。
「うん。褒めて」
それだけで胸が軽くなる。
夕方、湯の桶はさらに増えた。
欠けた桶もある。古い桶もある。
でも湯は温かい。
椅子も増えた。
箱をひっくり返しただけの椅子でも、座れる。
札板には『今日は十分』が並ぶ。
字が上手な人も、震える人もいる。
震えていても読める。
読めればいい。
言葉は上手さじゃない。
使えることが強い。
ユイは湯気を見た。
薄い。
でも途切れない。
そのとき、支部員が小走りでやってきた。顔が硬い。
「上の人たちが動いています」
レオンが目を上げる。
「何を?」
「会談の準備です。『町のため』と言って……管理局を正しく負けさせる形にすると」
ユイは息を吸って吐いた。
柔らかい勝ちは、柔らかい言葉で潰されることがある。
丁寧な顔で。正しい声で。
ミドリが唇を噛む。
「……勝たせてくれない」
ユイは首を振った。
「勝ちは、もうある」
湯の桶を見る。そこに座る人を見る。
『今日は十分』を貼る指を見る。
「町が言った。町が守った。これは消せない」
レオンが帳面を閉じた。
今日は少しだけ、閉じる音を大きくした。
「次は、守りながら進む」
ユイは頷いた。
止めない。
区切る。
帰れる形にする。
その言葉は、ユイだけのものじゃなくなった。
この町の誰かが、もう持っている。
ユイは肩の力を抜いたまま歩き出した。
背中の剣が、静かに熱い。
剣がもう一度言った。
「……褒める」
ユイは笑って答える。
「うん。今日は十分だね」
その言葉が、ユイの口からも自然に出た。
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