第45話 刻印板:運ばれる“源”の気配
夜明け前の町は、音が少ない。
水路の水音。縄の擦れる音。木のきしむ音。
昼より小さな音が、逆にはっきり聞こえる。
合流点の町はいつも湿っている。
なのに、こんな時間はその湿り気が冷たさに変わる。息を吸うと喉の奥が乾く。
ユイは息を吸って吐いた。吐いた息が薄く白い。
背中の剣が、じっと熱い。
鳴らない。褒めない。
ただ、目を覚ましている。
仮詰所の裏口が小さく開いて、ミドリが顔を出した。
「動きました」
声は小さい。けれど言い切る声だった。
「倉の奥です。荷車が出ます」
レオンがすぐ立ち上がる。帳面を閉じる音も立てない。靴紐を結ぶ音も抑える。
この町では音が噂になる。
「点印か」
レオンが確認する。
ミドリは頷いた。
「はい。荷札に極小の点。見落とすくらい小さい。でも……これが“源”の荷です」
断言。迷いがないと、足が迷わない。
ユイは背中の剣を意識した。熱が少し増した。
剣は何も言わない。けれど反応は嘘をつかない。
「行こう」
ユイの言葉に、レオンが頷いた。
「尾行はユイ。俺は支部員を動かす」
役割が決まるのは速い。速い決断はこの町では強い。
「目立たない歩き方で行く」
「頼む」
ミドリが手を挙げた。
「裏道、あります。先回りできます」
ユイはミドリを見る。冴えた目。怖さがないわけじゃない。でも逃げない目だ。
「先回りは危ない」
ユイが言うと、ミドリは小さく笑った。
「倉庫仕事は、暗い道のほうが得意です」
得意と言えるのは、少しずつ自分の居場所を作っている証拠だ。
レオンが支部員へ短く指示を出す。
「出口ごとに手順を置く。湯、交代、鐘一回。事故が起きる前に区切る」
区切る。
その言葉が、ユイの胸を落ち着かせた。
ユイは外へ出る。
夜明け前の道は白い。灯りが少ないのに、石畳の湿り気が光を返す。
滑る。水の町だ。転ぶと終わる。
ユイは速く歩かない。歩幅を小さくして確かめて進む。
急がないようで遅れない歩き方。目立たない歩き方。
倉の裏手に近づくと木の匂いが濃くなる。紙の匂いも混じる。
そして、静かなのに急いでいる気配があった。言葉が少ないのに手だけが忙しい。
倉の奥で荷車が動いた。
ぎい、と木が鳴る。
押される音じゃない。隠れるように動く音だった。
ユイは陰に身を置き、目を細める。
荷車は一台。引き手は二人。
荷を護る影が三つ。歩き方が慣れている。現場の人じゃない。警備だ。
荷は布で覆われている。覆いの下は見えない。
それでも背中が熱い。剣が「そこだ」と言っている。
ユイは距離を取って尾行する。
近すぎると気づかれる。遠すぎると見失う。
薄い闇の中で目立つのは、灯りより人の目だ。
市場の端を回り、倉と倉の間の細道へ入る。
石畳は濡れている。水路が近い。冷たい匂いが強くなる。
ユイは足の裏で確認しながら進む。滑る石と滑らない石がある。滑らないほうを踏む。
上のほうで、かさ、と紙が擦れる音がした。
ユイは顔を上げない。見上げる動きは目立つ。
耳だけで拾う。
次に聞こえたのは、巡回の足音だった。揃っていない。警備がいる。
この荷は普通じゃない。
荷車は水路沿いへ向かう。暗い。滑る。落ちると終わる。
ユイは壁に指先をつけて進む。冷たい石の感触が頭を冴えさせる。
前方で荷車が止まった。
引き手が覆いを直す。護る影が周りを見回す。
検査をするふり。
その瞬間――乾いた拍手が一度鳴った。
かん、という軽い音。
手の拍手じゃない。木がぶつかる音。
ユイの背中が跳ねる。剣の熱が増す。引っ張られるような感覚。
音は短いのに、空気が変わる。
路地から人が出てくる。歩幅が速くなる。呼吸も速くなる。
足が揃い始めた。
揃うと流れになる。
流れになると、追っている影が埋もれる。
荷車が、人の影に溶けそうになる。
ユイは叫ばない。叫べば刺さる。刺されば揉める。揉めれば見失う。
ユイは小さく置いた。
「一回で終わり」
声は小さい。けれど、落ちた場所が良かった。
荷車の横を通った若い男の耳に届く。男が一瞬止まる。
止まると、後ろの人がぶつかりそうになる。ぶつかりそうになって、周りも足を止める。
一瞬だけ。
その一瞬で、揃いかけた足がほどけた。
同時に遠くで鐘が一回鳴った。
ちん。
丸い音が町に落ちる。命令じゃない。怒鳴り声でもない。
ただの区切り。
人の足が、それぞれの速さに戻る。
流れが、流れになりきらない。
ユイは息を吐いた。
途切れない。見失わない。
荷車は再び動き出す。護る影が少し焦った歩き方をした。
誘導が効かなかったからだ。
ユイは距離を保ったまま追う。確かめる歩き方を崩さない。
水路沿いの道を抜けると小さな橋が出る。
橋の下の水は暗いのに、流れが白い。紙を運ぶ町の水だ。
荷車は橋を渡らず、橋の下へ降りる坂道へ入った。
背中の熱が増す。
地下へ向かっている。
坂は滑る。壁も濡れている。足を置く場所を間違えたら終わりだ。
ユイは焦りを落とす。焦ると足が乱れる。
歩幅をさらに小さくして追う。
曲がり角の先に細い通路があった。奥に扉がある。
護る影が立ち、鍵を回す乾いた音がした。
扉が開き、荷車が吸い込まれる。
暗い口。地下の口。
ユイは柱の陰へ寄った。扉の前までは行かない。行けば見つかる。
それでも、手がかりが欲しい。
扉が閉まる直前、荷車の後ろが少し見えた。
車輪の裏に木屑が付いている。
ただの木屑じゃない。削れた線が混じっている。
波みたいな細い線。羽みたいな細い線。
ユイの胸が冷えた。背中の剣が熱くなる。
剣が低く言う。
「……本物だ」
ユイは頷きたい衝動を抑え、息を吐いた。
息を吐くと判断が戻る。
扉が閉まった。
荷は地下へ入った。
ユイは来た道をゆっくり引く。速くしない。音を立てない。
角を曲がったところで、ミドリが現れた。
暗がりからぬっと出てくる。けれどミドリの歩き方は落ち着いている。
「入りました?」
ユイは頷く。
「地下へ。扉がある」
ミドリが即答する。
「合流点の地下ですね」
迷わない声。
ユイは木屑の話を足す。
「荷車の後ろの木屑に、刻印の線が混じってた。波と羽」
ミドリの目が大きくなる。
「証拠です」
そのとき背後からレオンが来た。
疲れているが目が冴えている。
「合流点の地下で間違いない。出口には手順を置いた。鐘も一回。事故は防げる」
ユイは頷いた。
「追跡は続けられる」
レオンは木屑を見る。
「それが刻印の線か」
「波と羽」
「源の刻印板だ」
レオンが言い切る。
ユイは背中の剣に触れずに、熱を感じた。
剣は震えそうで震えない。抜けとも押せとも言わない。
ただ、近いと言う。
ユイは息を吸って吐いた。
止めない。
区切る。
帰れる形にする。
そのために、今は追う。
ユイは短く言った。
「追跡を続ける」
レオンが頷く。
「今夜、動く」
ミドリも頷く。
「動線は見えました。迷いません」
地下の扉の向こうで、“源”が息をしている。増える準備をしている。
なら、その前に。
ユイは背中の剣に心の中で言った。
まだ鳴らさない。
一回だけを守るために。
剣が低く返す。
「……終わりを褒める」
その声が、ユイの背中を少しだけ軽くした。
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