第44話 抵抗:善意の怒りは止めにくい
休憩所は、小さい。
屋根は半分。椅子は数脚。湯の桶がひとつ。
それだけの場所が、合流点の町ではすぐ噂になる。
この町では、噂が水路より速い。
朝。市場へ向かう途中で、ユイはもう耳にした。
「管理局が怠けさせる場所を作ったらしい」
「休んでたら仕事が回らないだろ」
「働く気がないやつが得するのか」
怒鳴り声じゃない。けれど、湿った空気みたいにまとわりつく。
善意の形をした言葉ほど、人の心に残る。
ユイは息を吸って吐く。
背中の剣がほんの少し熱い。拍手はしない。
ただ、近くにいるみたいな気配がある。
休憩所に着くと、支部員が駆け寄ってきた。
「剥がされてます」
短い報告。
ユイは頷いた。予想はしていた。速い町ほど反応も速い。
入口の板を見る。
昨夜貼った「今日は十分」が、半分ほど消えている。
剥がされた跡だけが白く残って、そこだけ冷たく見えた。
床にも紙片が落ちていた。
踏まれて、湿って、文字が滲んでいる。
ユイはしゃがんで拾った。
指に湿り気がくっつく。軽いのに、胸が重くなる。
レオンが横で言った。
「剥がし合戦は避ける」
声は低い。迷いがない。
「消耗戦は負ける」
ユイは頷く。
貼れば剥がされる。剥がされれば貼り返したくなる。
貼り返せば目立つ。目立てば揉める。揉めれば壊れる。
壊したくないのは札じゃない。
ここだ。
湯と椅子の場所。
戻れる場所。
「貼る場所を変える」
ユイが言うと、支部員たちが顔を上げた。
「札が目立つところには貼らない」
ユイは湯の桶を見る。湯気がゆっくり立っている。
湯の匂いがするだけで、胸が少し緩む。
「湯の横」
次に交代札の柱。
木札が揺れている。揺れは、人が出入りした証拠だ。
「交代札の横」
最後に出口の札板。
外へ戻る人が必ず目にする場所。
「出口の板」
札は手順と一緒に置く。
言葉だけで勝たない。場所と手順で守る。
ユイは支部員たちに言った。
「札は最後。湯が先。交代が先。札は、その横」
みんなが頷いた。
昨日のやり方が“回った”からだ。回ったものは信じられる。
ユイは札束を持ち、桶の横に貼る。
目立たない。けれど、ここに来た人だけが見る。
柱の横にも貼る。
木札を掛ける手が止まる瞬間に、目に入る。
出口の板にも一枚。
外へ戻る直前に、肩を落とせるように。
貼り終えたころ、ミドリが戻ってきた。
早足で、目が鋭い。
「剥がしてる人、見ました」
ユイが尋ねる。
「どんな人?」
ミドリは迷ってから答えた。
「怒ってる人じゃないです」
ユイは頷く。
「……怖い人?」
「はい。怖い人です」
レオンが短く続ける。
「怒りは、怖さの裏返しです」
ミドリが息を整えて言った。
「荷運びの人と、帳場の人でした。目がずっと周りを見てて……止まるのが怖いって顔でした」
止まったら置いていかれる。
止まったら家が困る。
この町の怖さは、そこにある。
怖い人は止まれない。
止まれない人に「止まれ」は届かない。
午前中、休憩所は回った。
湯を飲む人がいる。椅子に座る人がいる。木札を掛ける人がいる。
それだけで空気は少し柔らかくなる。
それでも剥がしは続いた。
貼ったそばから剥がされる。
剥がす手は丁寧だった。乱暴じゃない。
丁寧な剥がしは、善意の形をしている。
昼前。市場の裏に人が集まり始めた。
声が増える。視線が増える。
視線が増えると呼吸が浅くなる。
支部員が不安そうにユイを見る。
ユイは頷いた。
「出る。逃げない」
逃げると噂が強くなる。
強い噂は、怖い人を増やす。
ユイは休憩所の入口へ出た。
そこにいたのは怒っている人たちだった。
怒っている。けれど怒鳴ってはいない。
怒鳴れないほど疲れている。
「ここが、休ませる場所か」
年配の男が言った。手が荒れている。現場の人だ。
「管理局は楽でいいな。座って湯なんか飲んで」
笑っていない。刺すための言葉じゃない。
自分の怖さを押さえるための言葉だ。
別の女が言う。
「休んでる間に誰が荷を運ぶの」
「交代って言うけど、交代できない人がいる」
「止まったら置いていかれる」
声が重なる。重なるほど空気が固くなる。
その輪に、羽組の売り子が混じっていた。
混じり方が上手い。前へ出ない。背中を押さない。
ただ寄り添う。
「大丈夫ですよ」
やさしい声。
「今だけ頑張れば、どうにかなる」
短くて軽い言葉。
叱らない顔で、背中を押す。
ユイは反論しない。
反論は怒りを燃やす。燃えた怒りは止まらない。
ユイは一歩だけ前に出る。
詰めすぎない。けれど逃げない距離。
年配の男が言った。
「お前らは、町を止めるのか」
ユイは受け止める。
受け止めて、削る。
「止めない」
声は大きくない。
でも消えない声。
「区切るだけ」
男の眉が動いた。
「区切る?」
「倒れる前に戻れるようにする」
ユイは湯の桶を示した。湯気は薄くなっている。
減っているのは使われた証拠だ。
「湯を飲むと、息が戻る」
ユイは自分の胸に手を置く。
「息が戻ると、足が戻る」
足が戻ると転ばない。
転ばないと荷が落ちない。
荷が落ちないと、みんなが困らない。
言葉を短くつなげる。押しつけない。
ただ道を置く。
女が言った。
「でも、休んだら遅れる」
ユイは頷く。
「遅れるのが怖いのは分かる」
ここで「大丈夫」と言ったら、刺さる。
だからユイは続けた。
「だから交代にする」
柱の木札を示す。
「名前札を置いて、次の人が入る。順番が見えると揉めない」
男が鼻で笑った。
「順番なんて守れない。守ったら損だ」
損。
この町の芯。
ユイは反論しない。
反論は刺さる。刺さると固くなる。
ユイは短く言った。
「あなたを責めない」
男の目が、わずかに揺れた。
責められるのが怖い人ほど、この言葉に弱い。
弱いのは悪いことじゃない。守ってきた証拠だ。
男の手が札板へ伸びる。
剥がそうとしていた手。
その手が止まる。
震えた。怒りじゃない。
怖さがほどけたときの震えだ。
「……俺だって休みたい」
男が絞り出すように言う。
声が小さくて、周りが静かになった。
「休んだら終わりだと思ってた」
女が口を押さえた。
涙が出そうになって、出ないようにする顔。
ユイは頷くだけにした。
慰めは今は重い。優しさが刺さることがある。
ユイは短く置く。
「帰っていい形にする」
帰る。休む。戻る。
それをつなげる形。
羽組の売り子が、少しだけ口を開いた。
でも言葉が出なかった。戦いにならないからだ。
人たちは完全には納得しない。
剥がしは止まらない。怖さが一日で消えるわけがない。
それでも、休憩所は壊されなかった。
椅子はそのまま。桶もそのまま。
交代札も揺れている。
夕方、レオンがユイの隣に立つ。
「敵にしない。これでいい」
ユイは頷く。
「善意の怒りは、悪意じゃない」
「はい」
「だから壊れない形にする」
湯の桶を見る。湯気がまた少し上がっている。
支部員が足してくれたらしい。
湯は減る。
でも足される。
休みも同じだ。
減るんじゃない。戻る。
夜。
市場の灯りが落ちて、水路の音だけが残るころ。
見張りの支部員が駆け込んできた。
息が切れている。でも声ははっきりしていた。
「荷が動きました。点印の荷札です」
ユイの背中で、剣が少し熱を上げる。
拍手はしない。ただ近いと告げる。
レオンが帳面を開いて短く言う。
「動き始めた」
ミドリが歯を噛み、頷く。
「今夜です」
ユイは息を吸って吐いた。
怖さはある。けれど怖さがあるから、守る順番が必要だ。
ユイは短く言った。
「行く」
止めない。区切る。
帰れる形にする。
善意の怒りを敵にしないまま、前へ進むために。
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