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第43話 配り方:札より先に湯を回せ

 市場の裏は、表より静かなはずなのに、静かじゃなかった。


 声が薄くなる代わりに、息が荒い。

 荷の音が遠のく代わりに、肩の音がする。


 合流点の町は、止まる場所が少ない。

 止まれる場所がないから、止まることが怖くなる。


 ユイは市場の裏手にある小さな空き地を見回した。

 白い壁。湿った床。半分だけの屋根。雨が降れば濡れるし、風が吹けば冷える。


 それでも、ここなら作れる。


 休むための場所。


「ここでいい」


 ユイが言うと、レオンが頷いた。


「目立ちすぎない。だけど人が通る」


 目立ちすぎないのが大事だった。立派にすると噂になる。噂になると邪魔が入る。邪魔が入れば、守りたいものが壊れる。


 だから小さく、必要なものだけ。


 湯と椅子だけ。


 支部員たちが動く。

 桶を運ぶ。椅子を並べる。木の札を削る。縄を結ぶ。


 やることは単純だ。単純にしないと、この町では回らない。


 ミドリが先に動線を引いた。

 椅子の置き方、桶の置き方、入る人と出る人の向き。

 荷が通る道とぶつからない角度。


「ここを入口にすると、出る人とぶつかりません」


 ミドリは床に指で線を引く。線は見えないのに、頭の中で道になる。


「椅子はこっち。湯はここ。交代札は……この柱」


 柱に縄を巻き、木札を掛ける場所を作る。

 木札の数は多すぎない。多すぎると迷う。迷うと詰まる。詰まると揉める。


 ユイはミドリの手元を見て、小さく頷いた。


「置き場所が決まると、迷わない」


 ミドリが目を上げる。

 ほんの少し安心した顔になって、すぐに視線を落とした。褒められるのが苦手な人の照れ方だった。


 それでも肩が落ちる。

 落ちるのはいい。落ちると戻れる。


 レオンは名簿を開いていた。立派な冊子じゃない。紙の端に名前が並んでいるだけだ。


「鐘は誰が鳴らす」


「俺がやる」


「あなたは誘導に回って」


「じゃあ……私」


 支部員が手を上げる。声は小さい。でも目が真剣だ。


「一回だけね」


 ユイが言うと、支部員は深く頷いた。


「一回だけ。鳴らしすぎない」


 鐘を鳴らす音は合図になる。合図は人を動かす。動かしすぎると、また危なくなる。


 だから一回。

 剣の拍手と同じ。


 ユイは椅子のひとつに座り、息を吸った。

 湯気が上がる桶が近い。ほんの少し甘い匂いがする。


 ここへ来た人が、まず湯を飲めるようにする。

 湯が先。言葉は最後。


 ユイは立ち上がり、支部員たちへ向き直った。


「ルールを言うね。四つだけ」


 全員が顔を上げる。


 ユイは指を一本ずつ立てた。


「一、湯を飲む」

「二、名前札を置いて交代」

「三、鐘は一回」

「四、札は最後。“今日は十分”」


 短く。間違えにくく。


 ユイは息を吐いて続けた。


「大事なのは、言い方」


 支部員の何人かが緊張した顔になる。言葉は難しい。間違うと刺さる。刺さると反発される。


 ユイは笑わない。軽く見えるから。

 怖い顔もしない。固まるから。


 ただ、柔らかく。


「『休め』って言わない。責めるから」


 支部員が頷く。


「代わりに『湯、あるよ』」


 湯の桶を軽く叩く。小さな音。空っぽの拍手じゃない。木の音だ。


「『やめろ』って言わない。止められたって思うから」


 ユイは自分の胸に手を置いた。


「代わりに『ここで区切る』」


 区切る。

 区切ると戻れる。止めるより戻りやすい。


 レオンが横で頷いた。


「説明は短く。言い返さない」


「うん。言い返すと刺さる」


 市場の声は遠い。けれど消えてはいない。

 この休憩所は、市場とつながっている。つながっているから回る。回るから守れる。


 ミドリが小さく手を挙げた。


「配り方……どうしますか」


 ユイは即答した。


「札を配らない。貼るのは最後。まず湯」


 そして、はっきり言う。


「札より先に湯」


 その言葉が、休憩所の空気に落ちて、残った。


 最初の人が来たのは、準備が整った直後だった。


 荷運びの男。肩が硬い。足が速い。目が落ち着かない。

 仕事の途中で立ち寄った顔だ。


「……ここ、何だ」


 疑っている。でも怒ってはいない。

 ユイは説明を長くしない。長いと疑いが増える。


「湯、あるよ」


 男は一瞬だけ止まった。

 その一瞬が、もう区切りだ。


「湯……?」


「飲んでいい。椅子もある」


 男は周りを見る。椅子を見る。桶を見る。

 そして少しだけ近づき、湯を飲んだ。


 肩が落ちた。


 落ちた肩は、戻る肩だ。


 ユイは木札を示した。


「名前札、置いて。交代の印になる」


「交代……?」


「順番が見えると揉めない」


 男は木札を取り、自分の名を書いた札を掛けた。字が乱れている。急いでいる字。それでもちゃんと書いてある。


 鐘が一回鳴る。


 ちん。


 小さな音。

 でも確かに届く音。


 男は顔を上げて息を吐いた。


「……これ、戻れるな」


 誰に言うでもなく呟いた。


 ユイは頷く。

 言葉を増やさない。増やすと押しつけになる。


 次の人が来る。

 また次も来る。


 湯を飲んで、木札を置いて、椅子に座って、立ち上がって戻る。

 それを繰り返す。


 止まっていない。流れは続いている。

 けれど事故の匂いが減っていく。


 休憩所が動き出したころ、羽組の売り子が現れた。


 眩しい笑顔。丁寧な声。

 市場で見たのと同じ顔。


「ここにも置かせてください。元気が出る札。無料です」


 売り子は札束を出し、椅子の横に置こうとする。

 支部員が焦った顔でユイを見る。


 止めたら揉める。揉めたら休憩所が壊れる。


 ユイは売り子を睨まない。追い払わない。

 ただ、柔らかく言う。


「持っていっていい。湯も飲んで」


 売り子の手が一瞬止まった。


「え……?」


「札は持っていっていいよ。ここは湯が先」


 押し返されないと、戦えない。

 戦えないと、勝ち負けが作れない。


 勝ち負けが作れないから、場が壊れない。


 売り子は札を置いた。

 置いてすぐ、札が取られていく。


 取るのは休憩所に来た人たちだ。


 湯を飲んでから取る人もいる。

 湯を飲まずに取る人もいる。


 札が消える速度は速い。

 置いたそばから消える。


 支部員が悔しそうな顔をした。


 ユイはその顔を見て、短く言う。


「責めない」


 支部員が息を吸う。


「奪い合いにすると、場が壊れる。湯の場所が残れば勝ち」


 悔しさを飲み込むのは苦しい。

 でも飲み込めたぶん、場が守られる。


 売り子は湯を見た。椅子に座る人を見た。鐘の音を聞いた。


 そして、湯を飲んだ。


 ほんの少しだけ。

 でも確かに飲んだ。


「……なるほど」


 売り子が呟く。

 笑顔のままでも、声が柔らかくなっていた。


 売り子は札束を持ち直し、去っていく。

 去り際にユイへ視線を落とす。


 敵意じゃない。

 興味でもない。

 怖さが混じった、慎重な目。


 ユイは見返さない。

 見返すと勝負になる。


 背中の剣が、熱を小さく揺らした。


「……いい」


 褒めではない。拍手でもない。

 確認の声だった。


 ユイは心の中で頷く。


 ここは守れる。

 守れたら広げられる。


 夕方、休憩所は混乱なく回っていた。


 湯は減り、足される。

 椅子は埋まり、空く。

 木札は揺れ、戻る。


 怒鳴り声が上がらない。

 押し返しが起きない。


 それだけで、空気が柔らかい。


 市場監督が来たのは、そのころだった。

 腕組みをして休憩所をじっと見る。


「……回ってるな」


 監督の声は低い。


「止まってない」


 ユイは頷いた。


「止めない。帰れるようにする」


 監督は鼻で息を吐いた。

 でも硬い背中が少しだけ緩んでいる。


「これなら現場が文句言わない。やれ」


 短い許可。

 でも現場にとっては大きい。


 夜。


 市場の灯りが弱くなるころ、ミドリが戻ってきた。

 顔が硬い。目が鋭い。


「……荷札、増えてます」


 ユイとレオンが同時に見る。


「点印。昨日より多い」


 ミドリは小さな荷札を机に置いた。

 紙の隅に、極小の点がある。見落としそうな点。けれど確かに増えている。


 レオンが帳面を開き、言った。


「刻印板が動く準備だ」


「今夜?」


「今夜か、明日。速い町は準備も速い」


 ユイは背中の剣を意識した。

 熱が少し強くなっている。近さが濃くなっている。


 ユイは息を吸って吐いた。


 札より先に湯。

 言葉より先に手順。


 それが、この町での戦い方だ。


 ユイは短く言った。


「守る準備を続ける」


 ミドリが頷く。


「置き場所が決まると、迷わない」


 レオンが頷く。


「迷わなければ、事故は減る」


 休憩所の外では、川が白く流れている。

 その流れに乗って噂も荷も動く。


 なら、こちらも流す。


 湯と、交代と、一区切り。


 “帰れる型”を、町に流す。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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