第42話 市場:売れる言葉の洪水
市場は、洪水みたいだった。
人が流れる。声が流れる。荷が流れる。
流れが速すぎて、立ち止まると足が取られる。
合流点の町の朝は、湿っているのに喉が渇く。水路の匂いがするのに、息が浅くなる。乾くのは空気じゃない。忙しさが、身体の中を乾かしていく。
ユイは人波の端に立ち、肩をすぼめた。
正面から入っていけば飲まれる。飲まれたまま動けば、周りと同じ速さになる。速さに合わせると判断が遅れる。遅れた判断は事故になる。
だから今日は距離を取る。
見て、掴む。
勝つためじゃない。守るために。
「……多いな」
隣でレオンが短く言った。
声が多い場所では、長い言葉は伸びない。伸びた言葉は途中で切られる。切られた言葉は刺さる。刺さると争いになる。争いは速さをさらに上げる。
市場の入口から、売り声が何本も飛んできた。
「今だけ! 今だけです!」
「今日だけ、軽くなる札!」
「あと少し、あと少しで終わる!」
明るい声。やさしい口調。叱らない。責めない。
だから、手が伸びる。
ユイは目を細めた。
札の束が飛ぶように渡っている。紙片がただの紙じゃないみたいに、人の胸元へ吸い込まれていく。
言葉は揃っていた。
今だけ。今日だけ。あと少し。
短くて、軽くて、止まらない。
止まらない言葉は売れる。
売れる言葉は現場に残る。
市場の真ん中には荷の山がある。木箱、麻袋、紙束、縄。
そこへ荷車が突っ込み、戻り、また突っ込む。
車輪が水気を弾いて、石畳に白い筋を残す。どこかでこぼれた水を踏んで滑りそうになっても、流れは止まらない。
誰も止めない。
止めると損をする町だから。
ユイは背中の剣を意識した。熱は小さい。強くはない。
けれど、目が覚めきらない熱がある。
剣は言葉に敏感だ。人の心が揃う瞬間に反応する。
今だけ、今日だけ、あと少し。
揃いやすい言葉が飛び交う場所ほど、剣は落ち着かない。
「ユイ、見て」
レオンが顎で示した。
売り子たちは声を張っているだけじゃなかった。
札を渡す場所が決まっている。
休憩所の入口。
荷の積み場の角。
賃金の窓口の前。
人が止まるしかない場所に、札が置かれていた。
「売り方より……置き方だな」
レオンが小さく言った。
「うん」
ユイは頷いた。
勝っているのは言葉の強さだけじゃない。流れの要所に“置いてある”ことだ。
ミドリは一歩後ろで別のものを見ていた。
売り子の歩き方。札を補充する手。札束の減り方。
「……あの人たち、倉のほうから出てます」
ミドリが声を落として言う。
「倉?」
「はい。市場の端に小さい門がある。そこを通って札を補充してる。置き場は三つ。補充の道は二つ。……回してる人がいます」
回してる人。
声を出す売り子より、仕組みを作る人のほうが危ない。声は目立つ。仕組みは目立たない。
「よく見てる」
レオンが短く褒めると、ミドリの肩が少し落ちた。
落ちるのはいい。落ちると戻れる。
ユイは市場の中央を避けて歩いた。
荷運びたちの目を見る。
目が乾いている。眠い疲れじゃない。怖い疲れでもない。
次、次、次。ずっと数えている疲れだ。自分が止まると全部が遅れると思い込んでいる。
その思い込みは、悪じゃない。
守りたいものがあるだけだ。
だから言葉が刺さる。
「無料ですよ。今日だけです」
羽組の売り子が若い女に札を差し出す。
女は迷って、取る。取った瞬間、目の端が少し明るくなる。
軽くなったように見えた。
ユイはそれを否定しない。軽くなるのは救いでもある。
ただ、その救いが止まれない方へ繋がるなら危険だ。
救いが刃になると、人は傷つく。
ユイは休憩所の入口を見た。
休む場所のはずなのに入口が狭い。人が詰まる。詰まると声が荒くなる。揉める。余計に疲れる。
入口には札が置かれている。
「あと少し」
「今だけ」
休む前に背中を押される。
休むことが悪いことみたいになる。
「……ここが弱い」
ユイは小さく呟いた。
札に勝つなら、札を貼り返すのが一番早い。
でもそれは貼り合いになる。貼り合いは終わらない。終わらない戦いは人を削る。
だからユイは札で勝たない。
湯だ。
湯があると止まる理由になる。理由があると責められにくい。
ユイは市場の監督を探した。
荷の山の横にいた。太い腕で帳面を押さえ、顎を上げて周囲を見回している。背中が硬い。硬い背中は休めない背中だ。
ユイは距離を保ったまま声をかけた。
「監督さん」
監督が振り向く。目が鋭い。
「なんだ。買い物か?」
ユイは首を振る。
「湯を置きたい。桶ひとつ」
「は?」
監督の声が大きくなる。大きくなると周りが見る。
ユイは声を低くした。
「飲むだけ。ほんの少しでいい」
「休んだら回らない」
監督は即答した。
それがこの町の骨だ。
ユイは反論しない。反論は刺さる。刺さると守れない。
だから短く置く。
「倒れたら、もっと回らない」
監督の眉が動いた。言い返しかけて、飲み込む顔。
そのとき羽組の売り子が近づいてきた。
明るい笑顔。丁寧な声。刺さらない優しさ。
「監督さん。無料で配ってます。頑張れる札」
売り子はユイにも同じ笑顔を向ける。
「お姉さんもどうです? 今だけ、軽くなりますよ」
ユイは札に手を伸ばさない。伸ばすと勝負になる。勝負にすると場が荒れる。
「ありがとう。今日は見に来ただけ」
売り子の笑顔は崩れない。崩れない笑顔ほど厄介だ。否定を受け付けない形だから。
「そうですか。でも助かる札です。ね?」
売り子は監督へ向き直る。
「監督さんも。今日だけ、少し楽になります」
監督の顔が一瞬揺れた。
楽になる。助かる。無料。今日だけ。
今困っている人に効く言葉だ。
ユイは心の中で決める。
この町では「止まれ」は嫌われる。
でも「戻れる」は通る。
止めない。帰れるようにする。
そのための順番を守る。
湯が先。交代が次。札は最後。
その直後、市場の中央で大声が上がった。
「おい、早くしろ! 今だけだぞ!」
声に引っ張られるように流れが偏る。
荷の山の前で若い荷運びが箱を抱え直していた。足が濡れた石に乗り、滑りそうになる。
周りが煽る。
「今だけ! 今だけ行け!」
「今日だけ乗り切れ!」
言葉が飛ぶ。手が速くなる。速くなるほど足元が荒くなる。
荷が揺れた。
箱の角がずれ、縄がきしむ。
若い荷運びの膝が落ちる。
倒れる。
ユイは走らない。走ると人波が動く。動くとさらに危ない。
叫ばない。叫ぶと刺さる。
ユイはただ、短く置いた。
「息をしろ」
若い荷運びの目が一瞬こちらを向く。
息を吸う。胸が膨らむ。足が止まる。
止まったのは一瞬。
でも、その一瞬で荷が助かった。
箱が落ちる前に、隣の男が縄を押さえる。
縄が締まり直り、山が戻る。
ざわっとした波が、ふっと引いた。
市場の空気がほんの少し落ち着く。
「……助かった」
誰かが言った。
拍手は起きない。代わりに肩が落ちる人が増える。
監督はその光景を見て歯を食いしばった。責任の顔だ。
ユイは監督へ向き直り、声を低くする。
「今のが、倒れる前の区切り」
「……区切り?」
「ほんの少し止まれたら、戻れる」
監督は黙ったまま荷を見ている。
流れは止まっていない。回っている。回りながら守る。
それができると分かれば、人は変われる。
「桶ひとつだな」
監督が言った。
「入口の横。邪魔にならない場所だけ」
ユイは小さく頷いた。
「ありがとう」
「礼はいい。止めるなよ」
「止めない。帰れるようにする」
ユイは言い切った。
監督は鼻で息を吐き、背を向けた。
背中が、少しだけ柔らかく見えた。
ミドリがすぐ動いた。
湯屋の手伝いをしている少年が桶を持ってきた。湯は熱すぎない。飲める温度。
桶が置かれると、人がちらりと見る。
見て、迷う。
迷って、近づく。
湯は札ほど速く広がらない。
でも湯は身体に残る。
ユイは湯を見ながら、レオンに言った。
「順番はこれでいい」
「湯が先。交代が次。札は最後」
レオンは頷き、帳面に書きつけた。言葉より先に手順を固定する。
ミドリが戻ってきて小さく言う。
「補充の倉、二つあります。片方は表。もう片方は……地下へ降りる扉がついてる」
ユイとレオンが同時に目を上げた。
地下。
見えないところを通るものほど、速い町では強い。
ユイは背中の剣を意識する。熱はまだ小さい。だが確かに、近い。
レオンが言う。
「市場は入口だ。荷も噂も、ここから流れる」
「うん」
「ここで止めると反発が出る。だから――」
「止めない。帰れるようにする」
ユイが先に言うと、レオンは短く頷いた。
湯の桶の周りに、少しだけ空間ができた。
人が飲み、息を吐き、また動く。
止まっていない。
でも無理に押されてもいない。
その違いは大きい。
夕方、市場を離れようとしたときだった。
背中に柔らかい声が落ちてきた。
耳元の囁き。
「ここは“止まれ”が嫌われる町ですよ」
ユイは振り向きそうになって、止めた。
見て、掴む。今はそれだけ。
声の主は羽組の配り手だった。眩しい笑顔のまま、近づきすぎない距離で立っている。
「止めないよ」
ユイは短く返す。
「区切るだけ」
配り手は笑った。
馬鹿にする笑いじゃない。ただ、やさしい笑いだ。
「それが嫌われるんです。ここでは」
「嫌われても、やる」
ユイの声は静かだった。静かでも揺れていない。
配り手は肩をすくめ、札束をひらりと揺らす。
「じゃあ、また。今日だけは気をつけて」
その優しさが、怖かった。
優しさは刃になりうる。
ユイは背中の剣の熱を確かめる。剣は鳴らない。鳴らないまま、じっと近さを伝えてくる。
ユイは息を吸って吐いた。
止めない。
帰れるようにする。
まず湯。
次に交代。
そして最後に、言葉。
合流点の市場は今日も流れていく。
売れる言葉が洪水みたいに飛び交う中で、湯の桶だけが、ほんの少しの岸になっていた。
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