第41話 合流点:白い水の町
川が三本、ひとつの町で交わる。
地図の上ではただの線なのに、実物はぜんぜん違った。水は広くて、白くて、速い。舟が走り、荷が走り、人が走る。目の前を、休まず流れていく。
紙の束が水面をかすめていった。濡れているはずなのに、空気はどこか乾いている。湿った風が肌に張りつくのに、喉の奥だけが渇く。忙しさが、そのまま渇きになっているような町だった。
「……ここが、合流点」
ユイは息を吸い、ゆっくり吐いた。
息を深くすると、町の速さが少しだけ見えるようになる。焦ると、全部が近すぎて、目が追いつかない。
ここでは「止まれない」より先に、別の気配がある。
止まると損をする。
止まると順番が崩れる。
止まると、誰かの分が減る。
そんな空気が、町全体に薄く張っている。
「ユイ、こっちだ」
レオンが先に歩き出した。
背は高くないのに、歩き方に無駄がない。水たまりも、混み合う曲がり角も、当たり前のように避けていく。慣れというより、決めた動きだった。
ミドリがその後ろにつく。視線が落ち着かない。荷車の車輪、縄の結び目、荷札の位置。倉庫仕事の経験が、勝手に目を働かせてしまう。
ユイは最後に、自分の背中を確かめた。
布に包んだ剣は静かだ。静かすぎるほど、静かだった。けれど、町に入った瞬間から、薄い熱を持っている。
湯気みたいな熱じゃない。石を握ったときの、じわっとした熱だ。忘れたふりができない熱。
支部の仮詰所は、町はずれの古い倉の二階だった。外から見ればただの物置にしか見えない。中に入ると、人が通りやすいように道が作ってある。狭い階段も踏み板が補強され、手すりには新しい縄が巻かれていた。
「ここなら目立たない」
レオンが言って、扉を閉める。
外の湿気が少し薄まり、紙の匂いが落ち着く。町の速さと、この部屋の静けさ。その差が、心臓の音を浮き上がらせた。
ユイは椅子に座らず、窓を少しだけ開けた。外の音を、ほんの少し入れておく。完全に遮ると、町の変化に遅れる。遅れるのは危ない。
「職人さんは?」
ミドリが小声で聞いた。
「別ルートで保護してある。ここには入れない」
レオンは即答した。確認ではない。決定だ。
机の上に地図と帳面が広げられる。水路、市場、倉、橋。何枚も重ねられ、手書きのメモが貼られている。
レオンは指先で線をなぞった。
「まず市場。ここで言葉が売られる」
次に水路。
「水路を通って倉へ。倉で仕分けして――」
指はさらに奥へ移る。
「地下だ。合流点は上が混む。だから下を使う」
「地下……?」
ユイが聞くと、レオンは頷いた。
「倉の奥に階段がある場所がいくつもある。荷の目が届きにくい」
ミドリが地図を覗き込んだ。眉が寄る。
「この倉、表の入口じゃなくて横の搬入口が使えますね。荷車の向きが変えやすい」
「分かるのか」
「倉庫にいたから。荷が嫌がる道ってあるんです。角が狭いとか、段差が多いとか。ここは運ぶ側が楽できる」
ミドリの声には迷いがなかった。身体で覚えた情報は強い。
ユイは窓の外を見た。川沿いを荷車が走っていく。後ろで男が縄を押さえて歩いていた。縄は緩んでいない。荷も崩れていない。それなのに肩が固い。
重いのは荷だけじゃない。
急がされている。
「この町の疲れ方、違う」
ユイが言うと、ミドリが小さく頷く。
「『止まれない』じゃなくて……『止まったら損する』が強いです。怒られるからじゃない。遅れると次が回ってこない。次が回らないと、今日の分が減る」
ミドリはそこで言葉を止めた。
その先は言わなくても分かる。食べ物や家のこと。明日のこと。
レオンが帳面を閉じて、淡々と言った。
「速い町ほど、仕込みも速い。噂も荷も、同じ速度で回る」
その言葉が終わる前に、外で明るい笑い声がした。窓の隙間から、声が入り込む。
「貼るだけで背中が軽くなる札、ありますよ」
売り声だ。やさしい口調。押しつけない笑顔が想像できる声。
ミドリの顔色が変わった。
「……羽組の配り手」
「もういるのか」
レオンが窓に近づき、ほんの少し身をかがめて外を見る。
広場の中央で、数人が札を並べていた。紙は白く、文字は太く、笑顔は眩しい。眩しいほど、裏が見えない。
ユイは背中の剣に意識を向けた。熱が少し跳ねる。反応している。
「気づかれてますか」
ミドリが言う。
「気づかれていないとは思わない方がいい」
レオンは窓から離れた。見続けるのは危ない。町は速い。見ているだけでも、情報は取られる。
ユイは深く息を吸った。
この町は噂が速い。到着しただけで、広がる。余計な行動をすれば、町全体がこちらを知る。知ったあと、町がどう動くかが怖い。
――止めに来た人。
そう思われた瞬間、町は先に敵を作る。
ユイは言葉を飲み込み、代わりに短く言った。
「止めない。区切る」
レオンが頷く。
「仕組みを掴む。守る。広げるのは最後だ」
ミドリが机の端を軽く叩いた。癖みたいな動き。指が小さく震えている。
「荷の動き、見てきます。夕方と夜で変わるはず。運ぶ人は時間帯で癖が出る」
「一人で行くな」
「分かってます」
笑わないまま、ミドリは立ち上がった。
ユイも立つ。
「わたしも歩く。人の目を見る」
「無理はするな」
「無理はしない。区切る」
外へ出ると、町の速さがまともにぶつかってきた。湿った空気。忙しい足音。喉が乾く。
川沿いでは、紙の束を積んだ舟がすれ違う。舟の上で男が札を数え、紙が濡れないよう布をかけていた。丁寧なのに速い。丁寧でなければ危ない。速くなければ遅れる。
矛盾を抱えた町だ。
ユイは歩きながら、人の顔を見る。目が疲れている人が多い。眠い疲れじゃない。考えすぎて乾いた疲れだ。前を見ているのに、ずっと何かを数えているような目。
そのまま広場へ近づくと、羽組の配り手の声がはっきり聞こえた。
「今日だけ、頑張れる札がありますよ」
「今だけ、軽くなる札もあります」
やさしい声。責めない顔。だから手が伸びる。
ユイは一歩手前で止まった。近づけば目立つ。目立てば噂がさらに速くなる。
そのときだった。
町の中央、水門のあたりから――乾いた音がひとつだけ響いた。
ぱん。
拍手。短い。空っぽ。木を叩いたみたいな音。
ユイの背中で剣が熱を跳ねさせた。
身体の奥が一瞬固くなる。抜きたい衝動ではない。反射だ。音に対して、筋肉が勝手に身構える。
ユイは息を吸った。
「……息をしろ」
自分に言う。胸が戻る。
拍手はすぐ消えた。二度目は来ない。来ないのに、町の動きだけが一段速くなる。
荷車の曲がり方が乱暴になる。人と人の間隔が詰まる。声が短くなる。拍手が合図になっている。
合図は短いほど強い。
ユイは背中の剣に触れず、視線だけを水門へ向けた。人影が多く、はっきり見えない。水門の上に、何かを抱えた人がいるようにも見えるが確信が持てない。
情報が多すぎて、掴めない。
背中の剣が、熱の揺れで言った気がした。
「……近い」
ユイは口に出さず頷いた。
ここで会話をすると目立つ。目立つのは危ない。
代わりに足元を見る。濡れた石。滑りやすい板。水路へ落ちれば終わり。
終わりがあるから、人は慎重になれる。
ユイは遠回りをして、湯を売る屋台に寄った。湯気が立っている。湯を受け取る人は、ほんの少しだけ動きが遅くなる。湯を飲むと肩が落ちる。
落ちるのは悪じゃない。
落ちるから、戻れる。
「……湯」
ユイは小さく呟いた。
導線の核はここだ。
仮詰所へ戻ると、レオンとミドリが同時に顔を上げた。
「水門で一回、鳴った」
ユイが言うと、レオンの目が鋭くなる。
「拍手か」
「短い。すぐ消えた。でも町が速くなった」
ミドリが唇を噛む。
「合図ですね……」
レオンは地図の水門に印をつけた。迷いがない。
「刻印板はこの町に入っている。もしくは入る直前だ」
「断定するのか」
「この町は先に空気を作ってから荷が来る。速い町ほど、仕込みも速い」
レオンは帳面を閉じ、別の紙を出した。白い紙に短い箇条書き。
「守る。まず事故を防ぐ」
ユイが頷く。
「湯」
ミドリも続ける。
「交代札。置き場」
レオンは最後に言った。
「鐘は一回だけ。鳴らす場所を固定する」
短い言葉が並ぶだけで、胸が少し落ち着いた。
人は手順があると戻れる。
そのとき、階段の下で足音が鳴った。支部員が息を切らして駆け上がってくる。汗が乾き、粉を吹いている。
「掲示板に……貼られました。今夜、大口荷入れ」
支部員が紙を差し出した。掲示板の写しだ。
ユイは紙を見た。
乱暴な字の告知。
『今夜 大口荷入れ 道をあけろ』
「今夜……」
レオンが紙を押さえ、顔を上げる。
「町が動く」
ミドリが紙の隅をつまんで、目を細くした。
「……これ」
「何だ」
ミドリの声が震える。怖さじゃない。見つけたときの震えだ。
「荷札……この紙の下に、印があります。点みたいな、小さいやつ」
ユイは身を乗り出す。
紙の隅に、見落としそうな小さな点がある。普通なら気にしない。けれどミドリは気づいた。
荷の匂いを知っているから。
背中の剣が、静かに熱を強めた。
「……近い」
また、剣が言った気がした。
ユイは紙をそっと机に置き、息を吸って吐いた。
速い町ほど、仕込みも速い。
だからこちらも速く動く。ただし、押さない。責めない。止めない。
区切る。
「よし」
ユイは短く言った。
「止めない。区切る。今夜までに、湯と交代と鐘を作る」
レオンが頷き、ミドリが頷く。
湿った空気の中で、湯の温かさを思い浮かべた。
明日に渡すための、今日の区切り。
合流点の町は白い水を走らせながら、今夜の荷を待っていた。
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