第40話 逃走:白い水路、線を運ぶ
警報の音は、頭の中まで追ってくる。
カン、カン、カン。
地下を出ても鳴っている気がして、私は一度だけ息を止めた。
息を止めると音が残る。だからすぐに吐く。
追手の足音が近い。
鉄の階段を踏む音。木の床を蹴る音。
地下の空気が揺れる。
レオンが淡々と判断した。
「右です。裏水路へ回ります」
裏水路。紙の町の裏側を走る細い運河。
紙を流すための道。人が目立たず動くための道。
ミドリは職人の肩を支えながら、歯を食いしばっている。
職人は足が弱い。膝が笑っている。
それでも歩いているのは、倒れたら終わると分かっているからだ。
「……すみません、私が……」
ミドリが掠れた声で言いかける。
「謝らない」
私は短く返した。
謝ると心が縮む。
縮むと足が止まる。
今、止まると危ない。
レオンが先に扉を押し開けた。
外の空気が流れ込む。
冷たい。
冷たいけれど、地下の冷たさとは違う。
生きている冷たさだ。
路地は狭く、壁が高い。
昼の明るい売り場とは別の町が、ここにある。
追手の声が聞こえた。
「止まれ! 管理局の暴挙だぞ!」
暴挙。
その言葉は強い。強い言葉は人を動かす。
「町を止めるつもりか!」
止める。
止めると言われると怖い。
怖いから反射で反対したくなる。
反対したくなると声が大きくなる。
声が大きくなると刺さる。
刺さる言葉は、群れを作る。
私は返さず、走った。
足元を見る。
足元を見ないと転ぶ。
路地の先に、白い水路が見えた。
白い水路。
白いのは水に紙が混じっているからだ。
紙の繊維が溶けて、川が薄く濁る。
濁りが白い。白い濁りが光を拾う。
水路の縁は石で固められている。
その石が濡れていて滑る。
落ちたら上がれない。
上がれても追手に捕まる。
私は足を置く場所を選んだ。
濡れた石の間。
木の板。
乾きかけの縄。
足の裏に感触が来る。
感触が来ると安心する。
レオンが前に出て、淡々と声を落とした。
「ここは足を速くしない。転ぶほうが危険です」
「うん」
私は短く返した。
速く走ると視界が狭くなる。
狭くなると足元が消える。
足元が消えると滑る。
ミドリが職人の腕をさらに強く抱えた。
「……大丈夫ですか」
職人は苦しそうに息を吐く。
「……動ける。まだ……動ける」
その「まだ」が怖い。
まだ、という言葉は便利だ。
便利だから体に刺さる。
私は職人の顔を見て、短く言った。
「一度、息」
職人が少しだけ息を吸い直す。
息を吸えると体が持ち直す。
背中の包みが熱い。
剣は沈黙している。
沈黙は、今の剣の意思だ。
余計な音を出さない。
終わりの音を守る。
追手が路地に出てくる気配がした。
足音が増える。声が増える。
「そいつを渡せ!」
「町のためだ!」
町のため。
その言葉も強い。
善意は強い。
強い善意は、刃になる。
ミドリが唇を噛んだ。
目は揺れている。でも足は止まらない。
ミドリはここで、羽組での居場所を捨てた。
捨てたから戻れない。
戻れないから前に進むしかない。
水路は細く曲がっていた。
曲がり角の先が見えない。
見えないときほど、足元を見る。
水面の白が揺れる。
揺れは目に刺さる。
刺さると焦る。
焦りは足を乱す。
私は一度だけ、深く息を吐いた。
吐くと体の中の余計な熱が落ちる。
その瞬間、どこかで鐘が鳴った。
カン。
一回だけ。
短い音。
長く鳴らない。引きずらない。
レオンが淡々と呟く。
「支部員が配置を始めています」
出口ごとに手順を置く。
湯を回す場所。交代の場所。鐘を一回鳴らす場所。
群衆事故を防ぐために。
追手は追う。
でも追うだけでは足りない。
追う側の声が大きくなれば町全体が動く。
だから事故を防がないといけない。
水路の向こうに、人影が見えた。
合流点。
水路が集まる場所。
ここで捕まれば終わる。
そして――そこに立っている人物は、背筋がきれいだった。
上品な服。
汚れない靴。
昼の光に似合う人。
トバリ。
羽組の代表。
温度の薄い笑顔の人。
トバリはそこにいるだけで空気を変える。
声を出さなくても、人が集まる。
その横には数人の使者がいる。
札束を抱えている。
薄い笑顔。
トバリがこちらを見て口を開いた。
「……おや。管理局の方々ですね」
声が優しい。
優しいのに逃げ道がない声。
「町を止めるおつもりですか。働く人の善意を壊すのですか」
止める。壊す。
どちらも刺さる言葉だ。
刺さる言葉は反論を呼ぶ。
反論はさらに刺さる言葉を生む。
言葉がぶつかると群衆が生まれる。
私は反論しない。
反論は刺さる。
私は足を止めず、短く言った。
「止めない。区切る。帰れる形にする」
トバリの笑顔が少しだけ薄くなる。
薄くなるのは、思ったより刺さらなかったからだ。
トバリが一歩だけ前へ出る。
「区切ると言いながら、結局は止めるのでしょう」
刺さる言葉。
刺さるけれど、私は受け取らない。
受け取ると、こちらの言葉が固くなる。
固い言葉は、相手の狙い通りだ。
追手が後ろから迫ってくる。
距離が詰まる。足音が増える。
使者のひとりが札束を掲げた。
「貼るだけで背中が軽くなる札、ありますよ!」
声が明るい。
明るい声ほど手が伸びる。
周囲の町人が足を止める。
水路沿いにいた人が振り向く。
拍手が起きそうになる。
ぱち。
ひとりが手を叩く。
ぱち、ぱち。
つられて増える。
ここで増えたら終わる。
音が増えれば心が揃う。
揃えば人が押し合う。
押し合えば水路は危ない。
濡れた石は簡単に人を落とす。
私は剣の包みを押さえた。
抜かない。鳴らさない。
ここで鳴らすと音が大きくなる。
そのときだった。
水路の脇に貼られた札が目に入った。
「今日は十分」
薄い紙に短い言葉。
誰かが貼った。支部員の手順だ。
町人のひとりがそこを見て呟いた。
「……今日は十分、か」
声は小さい。
小さいのに刺さらない。
刺さらないから怖くない。
怖くないから受け取れる。
別の人が続けた。
「……今日は十分。……じゃあ、湯飲むか」
声が広がる。
拍手じゃない形で広がる。
音じゃなく言葉で広がる。
さらに別の人が言った。
「今日だけって言われると、つい頑張っちゃうけどさ。今日は十分、でもいいな」
誰かが笑った。
小さな笑い。刺さらない笑い。
笑いがあると呼吸が揃いすぎない。
揃いすぎないと押し合いが起きない。
拍手の増幅が止まった。
ぱち、ぱち、が消えていく。
代わりに湯を回す声が出る。
「湯あるよ!」
「交代しよ!」
「一回だけ鐘鳴らすぞ!」
レオンが淡々と息を吐いた。
「……回りましたね」
「うん」
私は頷いた。
ここで、事故が防げた。
防げたのは、誰かが守ってくれたからだ。
私はトバリの前を通る。
トバリは止めに来ない。
止めれば自分の立場が悪くなるからだ。
悪くなるのを嫌う人は、手を出さない。
代わりに言う。
「あなたは町を弱くする」
刺さる言葉。
刺さるから、私は返さない。
返さないことで空気が固まらない。
私たちは合流点を抜けた。
狭い場所を抜けると、少し広い通りに出る。
そこで支部員が待っていた。
湯の桶。
交代札。
一回だけ鳴る鐘。
全部が置かれている。
支部員が職人を見ると、すぐに駆け寄った。
「こちらへ! 安全な場所に!」
職人はほっとしたように肩を落とす。
落とした瞬間、体の力が抜けて崩れそうになる。
ミドリが支えた。
「大丈夫です。……大丈夫」
自分に言い聞かせる声だった。
職人が震える手で懐を探り、小さな紙片を取り出す。
濡れないように包んであったもの。
「……これを……持っていけ」
紙片には簡単な図が描いてある。
川の合流点方面。荷が動く道。
そして刻印板の保管場所らしい印。
「源の刻印板は……川の合流点のほうへ搬出される……」
掠れた声。
掠れているのに言葉ははっきりしている。
「そこを折らないと……箱は形を変えて戻る……」
私は紙片を受け取り、短く頷いた。
「分かった」
レオンが淡々と指示する。
「職人はここで保護します。水と湯を。休ませてください」
支部員が頷く。
「はい!」
ミドリが職人の肩をそっと離した。
その瞬間、彼女の手が少し震える。
震えは、やっと出てきたものだ。
今まで止めていた震え。
私はミドリを見て短く言った。
「守れた」
ミドリの目が揺れる。
揺れて、でも頷いた。
「……はい」
追手の声は少し遠くなっていた。
完全に消えたわけじゃない。
でもここは、今すぐ押し込まれる場所じゃない。
私は背中の剣を背負い直した。
包みが肩に食い込む。
重い。
でもこの重さは必要な重さだ。
私は短く言った。
「線を運ぶ」
剣が熱を少しだけ返した。
『終わりを褒める』
短い返事。
その返事には温度があった。
終わりを褒める。
帰れを許す。
その線を次へ運ぶ。
川の向こうに、合流点へ向かう道がある。
白い水路の先に、まだ終わっていない場所がある。
私は息を吸って、吐いた。
「行こう」
レオンが頷く。
ミドリも一歩を出す。
白い水路の光が揺れる。
揺れる光を足元に落として、私は前へ進んだ。




