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第4話 依頼:迷子とパンの匂い

 管理局を出ると、霧は少しだけ薄くなっていた。


 白い膜みたいな霧が、建物の影に触れてほどけていく。石畳はまだ湿っているのに、人の声が増えると空気が温かく感じるのが不思議だった。朝の町は、眠気を脱ぎかけで、あちこちがまだ柔らかい。


 広場のほうから香ばしい匂いが流れてくる。


 焼きたてのパン。


 朝の匂いの中で、いちばん分かりやすい匂いだ。目を閉じても道が見えるくらい、まっすぐで、強い。


 私は無意識にそちらへ目を向け――足を止めた。


 広場の端、噴水の影。人の流れから少し外れた場所に、小さな背中があった。しゃがみこんだ肩。袖で何度も目をこする動き。


 泣いている子ども。


 泣き声は大きくない。大声で泣く前の、喉に引っかかったすすり泣き。声を出すと恥ずかしいことを知っている年頃の泣き方で、だから余計に胸に刺さる。


 私は一瞬だけ迷う。


 ――関わったら、時間がかかる。


 ――でも、放っておいたら、もっと困る。


 迷いの隙間で、背中の剣がふっと温かくなった。


『困っている者を見つける目! 立派!』


(今は静かに……)


 心の中で言いながら、足はもう動いていた。


 噴水の水音が近づく。子どもの肩が小さく震えるのが見える。


 私は膝をついて、子どもと同じ目線になるようにしゃがんだ。急に近づくと驚かせる。驚かせると泣きが大きくなる。大きくなると周りの視線が集まり、余計に怖くなる。


 だから、ゆっくり。


「……どうしたの?」


 声も、できるだけ丸く。


 子どもは袖から顔を少し出した。赤くなった目。濡れた鼻先。頬に涙が線を引いて、そこだけ冷えて見える。


 言葉は出てこない。代わりに首を横に振る。


 私は頷いた。


「うん。言いたくないなら、言わなくていいよ」


 無理に聞くと、子どもは守りに入る。守りに入ると心が固くなる。固くなると、言葉が出ないまま時間だけ過ぎる。


 だから、まず“今ここにいていい”を作る。


「ここ、寒い?」


 子どもは少し考えてから、こくりと頷いた。


 私は外套の端を広げて、子どもの肩にかける。全部は無理でも、風だけは遮れる。


『配慮! 判断! 良い!』


(褒めなくていい……)


 でも褒められると、“間違ってない”気がしてしまうのが悔しい。


 子どもは外套の端を握りしめた。小さな指。胸の奥がきゅっとなる。


「お名前、言える?」


 口を開きかけて、また閉じる。それから、ぽつり。


「……ノア」


「ノアくん、ね」


 私は名前を丁寧に繰り返す。名前は、ここにあるものになる。ここにあるなら、少しだけ逃げにくい。


「ノアくん。おうちの人と、はぐれちゃった?」


 今度はすぐ頷いた。泣きながらでも“それは確か”という頷き。


 私は一度息を吸う。


「分かった。探そう。……どこにいたか覚えてる?」


 ノアは首を横に振る。


 代わりに、指をくんくんと動かして、鼻をひくひくさせた。


 犬みたいな仕草に見えて、少し驚く。


「……匂い?」


 ノアは小さく頷いて、唇をもごもご動かした。


「パン……」


 なるほど。パンの匂いに引っ張られたんだ。


 私は広場のほうを見る。露店が並び、パン屋の屋台が焼きたてを並べている。匂いの出どころは、あそこだ。


 背後で足音が止まった。


「……何してるんですか」


 低い声。理屈の声。空気を締める声。


 振り返ると、レオンが立っていた。制服コートの裾が風で揺れている。目は鋭いけれど、叱るための目じゃない。状況を把握する目だ。


「迷子です。泣いてて……」


「勝手に関わるな、と言うべきなんですが」


 レオンはそう言って、口を閉じた。その閉じ方が、諦めじゃなく現場判断に切り替わる閉じ方だった。


「……名前は?」


「ノアくん。パンの匂いに来たみたい」


「パン」


 レオンも屋台の方向を見る。情報を並べていく視線。


 私はノアに戻る。


「ノアくん。ママ? パパ?」


 ノアは指を二本立ててから、迷って、片方を落とした。


「……ママ」


 出た。小さいけど、出たことが大事だ。


「ママ、どんな人? 髪、長い? 短い?」


 ノアは手で肩のあたりを示した。肩くらい。


「持ってたもの、覚えてる? 袋とか」


 ノアはうん、と頷いて、手をぶらぶらさせる。袋を持って揺らしている仕草。


 そして鼻がまたひくひくした。


「……あったかい」


「あったかい?」


「スープ……」


 スープの匂い。朝の屋台で売ってる野菜スープ。匂いが強い。子どもが覚えていてもおかしくない。


 レオンが頷く。


「十分です。……捜索手順を取ります」


 “手順”。その言葉だけで安心する。ちゃんとやり方がある。


 レオンは近くの見回り係に声をかけ、簡単に事情を説明した。係は頷き、広場の掲示板に“迷子”の札を掛ける準備を始める。


 私はノアの手を握った。


 冷たい。泣いて体が冷えている。握ると、指が少しだけ力を返してきた。離れたくない、という力。


『安心を渡す手! 良い!』


(はいはい……)


 でも声があると、自分の行動を“確認”できる。確認できると怖さが減る。怖さが減ると、次の一歩が出る。


「一緒に探そう。怖くないよ。……レオンさんもいるし」


 レオンがこちらを見る。呼ばれ慣れていない硬さが、ほんの少し目に出る。


「……私は仕事です」


 仕事でもいい。いるだけで違う。


 私たちは広場へ向かった。


 人混みの中は匂いが渦を巻く。パン。焼いた肉。甘い果実。濡れた布。朝の石畳。全部が混ざって、ノアの鼻には難しいかもしれない。


 それでもノアは時々ふっと顔を上げて鼻を動かす。動かして、目を少し大きくする。探している匂いが混じったときの顔。


「こっち……」


 ノアが指をさした。


 私はその方向へ、一歩踏み出す。


 その瞬間、前を横切った荷車が急に止まった。車輪がきしみ、荷が揺れる。


 危ない、と体が反射で動く。ノアを抱えて引く。


 ――転ぶ。


 そう思ったのに、足が滑らなかった。


 湿った石畳で、靴底が取られない。踏ん張れる。ノアを守ったまま体勢が崩れない。


 背中の熱が、ほんの少しだけ背中を押した気がした。


『危機回避! 見事!』


 心臓がどくどくする。


 レオンが荷車の御者に短く注意し、通路を空ける。人の流れが戻る。危険が去る。


 こういう“ちょっとした”ところに、事故は隠れている。


 私たちは露店通りを抜け、噴水を回り、スープ屋台の前を通り過ぎた。ノアの鼻が動く。


「……ちがう」


 違うと言えるのも大事だ。違うものを違うと言えると、探す範囲が狭まる。


 私はしゃがんで、ノアに目線を合わせた。


「ノアくん。パンの匂い、好き?」


 ノアはこくりと頷く。


「じゃあママも、パンの匂いのところに来るかもしれないね」


 言いながら周囲を見る。屋台だけじゃない。固定の店もある。朝から開いている店もある。


 ふと、風向きが変わった。


 パンの匂いが濃くなる。焼き立ての匂いの中に、甘い香りが混じる。蜂蜜か、果実のジャム。


 ノアの顔がぱっと明るくなった。


「あっち!」


 勢いよく指をさす。


 露店通りの端、細い路地。路地の奥に、小さな看板――パンの形の看板が見えた。


 私はノアの手を引いて路地へ入った。


 路地は人が少なく、音が小さい。壁に匂いが跳ね返って濃くなる。パンの匂いが、ここではっきり鼻に刺さった。


 路地の奥にパン屋があった。


 店先のパンにはまだ湯気が残っている。焼きたての皮が光っている。甘い匂いが霧を押し返す。


 そして――店の裏手に回ったところで、ノアが急に立ち止まった。


 小さな手が、私の指を強く握る。


「……ママ」


 声が震えた。嬉しさと不安が混ざった声。


 私は裏手を覗く。


 木箱の影に、女性が座り込んでいた。肩くらいの髪。手には布袋。足元にはスープの容器が入った籠が転がっている。顔色が青い。息が荒い。


 探してたんだ。


 探して、探して、見つからなくて、足が止まったんだ。


「ノア!」


 女性が顔を上げた。目が赤い。泣いた跡。声が裏返りそうになりながら、それでもちゃんとノアの名前を呼ぶ。


 ノアが駆け出そうとして、私は手を離した。


 離したくない力が指に残った。でも今は離すべきだ。離さないと、抱きしめられない。


 ノアは母親に飛びついた。母親がぎゅっと抱きしめる。腕が震えているのに、離さない。


「ごめんね……ごめんね……!」


 母親の声は泣き声に近い。責める声じゃない。自分を責める声。


 私は一歩下がった。ここは親子の場所。私は橋の役目を終えた。


 レオンも一歩下がって静かに見守る。現場が収束するのを待つ目。


 母親がようやく顔を上げ、私とレオンに気づいた。


「……ありがとうございます。ほんとうに……私、少し目を離しただけで……」


 言葉が途切れる。喉が詰まる。泣きそうなのを堪えている。迷惑をかけた、という気持ちが先に立っている。


 私は首を横に振った。


「見つかってよかったです。ノアくん、寒そうだったので……」


 外套の端を指さす。ノアの肩にかかっている布。母親が気づき、深く頭を下げた。


「すみません……」


「大丈夫です。……ここ、風が冷たいので、店の中で少し落ち着いたほうが」


 口が回りすぎてる自覚がある。こういうとき私は言葉を並べてしまう。責めないでほしいから。自分を責めないでほしいから。


 背中の剣が、珍しく短く言った。


『……良い』


 短い褒めは、余計に残る。


 レオンが前に出て、母親に言った。


「管理局への連絡は不要です。こちらで確認しました。……次からは、迷子札の場所を覚えておくといい」


 言い方は硬い。でも責めてはいない。次の事故を防ぐための言葉。


 母親が涙をこぼしながら頷く。


「はい……はい……」


 パン屋の店主が裏手を覗き、「どうした」と声をかけた。事情を聞くと、店主は無言で頷き、焼きたての小さなパンを二つ袋に入れた。


「……持ってけ。あったかいうちに食え」


 母親が「そんな」と言いかけて、店主が手を振る。


「子どもは腹が減る。母親も腹が減る。腹が減ってると、余計に泣く」


 その言い方が妙に正しくて、私は笑いそうになった。泣きそうな場面で笑うのは不謹慎かもしれない。でもこういう“生活の正しさ”は、人を救う。


 母親がパンを受け取り、また頭を下げる。ノアは袋を覗き込み、鼻をくんくんさせた。


「パン……!」


 声が明るい。さっきまで泣いていたのが嘘みたいに。


 胸の奥がふっと温かくなる。


 人助けは世界を変えるようなものじゃない。多くの場合、ただ元に戻るだけだ。迷子が戻る。母親が息をする。子どもが笑う。朝が朝に戻る。


 でも、その“戻る”は、すごく大事だ。


 レオンが私の横で、小さく言った。


「……良い対応でした」


 周囲に届かない声。言った本人も少し恥ずかしそうに視線を逸らす。


 私は驚いて、嬉しくて、頷いた。


「……ありがとうございます」


 背中の剣が、ここぞとばかりに騒ぎ出す。


『聞いたか持ち主よ! 認められた! その――』


(静かにして)


 心の中で言う。剣は勢いを落とせないまま、声量だけ少し下げた。


 私たちは路地を戻り、広場へ出た。


 人の声がまた耳に入ってくる。パンの匂いがまた流れる。噴水の音が、いつもの音に戻っている。


 いつもの朝。


 その端っこに、私の“面倒”がくっついてきたことだけが、いつもと違う。


 広場の外れで、視線が刺さった。


 振り向くと、露店の陰に立つ二人組がこちらを見ていた。目が合うと、すっと視線を外す。逃げ方が上手い。噂話の視線じゃない。確認の視線だ。


 レオンも気づいたらしく、声を落とした。


「……今の、見ました?」


「見ました」


 背中の剣が、嬉しそうに言う。


『見よ! 世界が君を見ている!』


 違う。きっと違う。


 でも――さっきの視線は、偶然の匂いがしなかった。


 私はパンの匂いの中で、背中の札と剣の重みを思い出す。


 面倒は、もう形になっている。


 そして形になった面倒は、こちらの善意を足場にして、次の段へ進む。


 そんな予感が、胸の奥で静かに尖った。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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