第39話 地下:札箱の心臓と、職人の檻
昼の羽組は、明るかった。
明るすぎるくらい明るい。
笑顔が多い。声が軽い。動きが揃っている。
揃いすぎているのが、逆に怖い。
通りを歩く人が札を受け取っている。
売り子が丁寧に頭を下げている。
誰も怒っていない。誰も困っていないように見える。
だから不気味だった。
眩しいほど、影が濃くなる。
影の濃さは笑顔の裏に隠れる。
私はミドリの少し後ろを歩きながら、視線を落とした。
視線を上げると顔が見られる。
顔を見られると、心まで見られる気がする。
レオンは私の横で淡々と歩いている。
一見、買い物客に見える。
でも足の運びだけは、現場の人間のそれだった。
ミドリが小さく言った。
「……ここです。裏の搬入口。表の売り場からは見えません」
棚の奥に扉があった。
布が掛かっていて、荷物の陰に隠れている。
知らない人は気づかない。
ミドリが布をめくる。迷いがない。
迷うと手が止まる。手が止まると見られる。
扉の向こうは急に暗かった。
「営業中」の明るさが切れて、冷たい空気だけが残る。
温度差がはっきりしていて、肌がぞわっとした。
鍵付きの階段があった。
木の階段。
手すりは古い。
下へ続いている。
ミドリが鍵束を取り出す。鍵は多い。どれも似ている。
指が震えた。
「……ごめんなさい、私、これ……」
「大丈夫」
私は短く言った。
謝らせると、責める形になる。
責めると、動けなくなる。
ミドリは息を吸って鍵を差し込んだ。
カチ、と音がする。
扉が開く。
冷たい空気がさらに強く流れた。
レオンが淡々と呟く。
「……地下ですね」
「うん」
足元の暗さは、怖さより現実味を増やす。
ここに人がいる。ここに何かがある。
階段を降りると、湿った匂いがした。
紙の匂いは薄い。
代わりに“空っぽ”の匂いがする。
木箱の中身がない匂い。
乾いた布が擦れた匂い。
人が息を止めた匂い。
息を止めた匂いは嫌だ。
地下の廊下は狭い。灯りは点々とあるだけ。
壁は湿っていて、触れると冷たい。
遠くから音が聞こえた。
ぱち。
乾いた拍手のような音。
ひとつじゃない。反響して、どこから鳴っているのか分かりにくい。
剣が背中で熱を持つ。
『……近い』
剣が小さく言った。
ミドリが囁く。
「……この先が地下の工房です。ここ、普段は誰も来ません。来るのは……上の人だけ」
上の人。羽組の“上”。
私は頷いて息を吐いた。
ここで必要なのは叫びじゃない。
短い判断と、短い言葉だ。
廊下の突き当たりに扉があった。
鉄の扉。木じゃない。音を閉じ込める扉だ。
レオンが手を伸ばして取っ手を握る。
重い。
その重さの向こうで、拍手が鳴っている。
ぱち、ぱち。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
湿り気と冷たさが増す。
“空っぽ”の匂いが濃くなる。
工房の中は狭く見えた。
でも奥が深い。
棚があり、道具があり、木片があり、紙束が積まれている。
そして檻があった。
木の柵で囲われた作業台。
外側から鍵が掛けられている。
その中に、人がいた。
年配の職人。
手が荒れている。指がひび割れている。
目が疲れている。目が乾いている。
目が乾いている人は、長い時間、瞬きを減らして生きている。
「……誰だ」
職人が掠れた声を出した。
掠れているのに強い。
怒っていない。怒る余力が残っていない声だ。
ミドリが一歩前に出そうとして、止まる。
止まったのは正しい。不用意に近づくと相手を驚かせる。
私はゆっくり手を上げた。武器を抜いていない合図。
「話を聞きに来た」
短く言う。
助けに来た、裁きに来た。そう言うと刺さる。だから言わない。
職人の目が私の背中を見る。
「……それ……剣か」
剣が熱を上げる。
『……』
剣は黙ったまま、熱だけが揺れる。
職人の視線が奥へ動いた。
工房の奥に、それがいた。
巨大な札箱。
大きすぎて、箱というより置物に見える。
木で作られているのに、重い存在感がある。
周りに封印札が貼られている。
でも貼り方が雑だ。隙間がある。半端だ。
半端だから漏れる。
ぱち。
拍手が漏れる。
漏れた音が空気を揺らす。
揺れると、心も揺れる。
剣が、ぐっと引かれるように熱くなった。
『……行け』
剣が小さく言った。
引き寄せられる衝動。
私は包みを押さえた。
ここで抜いたら、音が増幅する。
増幅すれば、上の売り場も町も巻き込まれる。
怒りが燃えている今、町に音を流せば止められない。
レオンも察している。淡々と、でも速い視線で周囲を確認していた。
ミドリの顔が青い。
「……あれ、あれが……」
職人が掠れた声で言った。
「……心臓だ」
箱が拍手で空気を揺らす。
揺らした空気が人を動かす。
剣がさらに熱を上げる。
『……近い。俺の……』
言葉が途切れた。衝動が言葉を押しつぶしている。
私は包み越しに剣を握り、短く言った。
「押すな。線を守れ」
声は小さい。けれど剣には届く。
『……守る』
短い返事。
その瞬間、職人が突然叫んだ。
「刻印を削れ! その印が源だ!」
叫びは刺さる。
刺さるけれど、今は必要だった。
源の印。
箱の増殖の根。
削る。折る。止める。
レオンが即座に動いた。封印札を取り出し、札箱へ向かう。
外側に重ねる。隙間を埋める。貼り方が手順通りで無駄がない。
でも箱が反応した。
ぱち、ぱち、ぱち。
拍手が増える。増える拍手が封印札を押し返す。
札が浮く。端がめくれる。空気が漏れる。
レオンの指が一瞬止まる。
「……押し返してくる」
職人が檻の中で歯を食いしばった。
「まだ止まってねえ……。半端に封印したせいだ……!」
誰かが封印した。
でも完全には止めなかった。
止めると困る人がいる。
止めないと危ないことがある。
その中間で、職人が閉じ込められている。
ミドリが柵の鍵を探し、震える手で鍵穴に触れる。
「……開けます。開けたい……!」
開けたい。
その言葉が痛いほど真っ直ぐだった。
私はミドリの手に自分の手を重ね、短く言った。
「落ち着いて。順番」
順番があると手が動く。
ミドリが息を吸い、鍵を差し込む。
カチャ。
開いた。
職人が柵の内側から、よろけるように出てくる。
足が細い。立ち続けていた人の足じゃない。
「……外の空気だ……」
掠れた声。
外の空気は地下でも外だ。檻の外だからだ。
でも今は、逃げるだけでは終わらない。
箱が鳴っている。
ぱち、ぱち。
鳴るほど剣が熱くなる。
熱いほど抜きたくなる。
抜きたい衝動は、守りたい衝動でもある。
守りたいから抜く。
でも抜いたら巻き込む。
『……抜け』
剣が小さく言った。
命令じゃない。願いに近い震えだった。
私は息を吸って、吐いた。
ここで必要なのは抜くことじゃない。
境界を作ることだ。
止めるじゃなく、区切る。
私は職人の目を見て短く聞く。
「印はどこだ」
職人が指を震わせながら箱の側面を指す。
「……底。底の木目。削れ。印が残ってる」
底。手が届きにくい場所。
レオンが判断する。
「箱を動かすのは危険です。共鳴が増えます」
「じゃあ、区切る」
私は言った。
区切る。
線を引く。
私は包みを握り直し、短く置いた。
「ここで区切る」
終業宣言。
長く言わない。強く言わない。
ただ置く。
その瞬間、剣が一回だけ鳴った。
ぱち。
たった一回。
続かない音。終わりの音。
空気が変わった。
箱の拍手が一瞬止まる。
止まった場所に薄い境界が生まれる。
境界は目に見えない。
でも感じる。
箱の側の空気と、こちらの側の空気が分かれる。
『……線だ』
剣が震えながら言った。
線が守れた。
レオンがすかさず封印札を重ねる。
今なら押し返しが弱い。
隙間が埋まる。端が浮かない。
職人が息を吸って、掠れた声で叫ぶ。
「今だ! 削れ! 印を削れ!」
削る。
私は視線を走らせた。作業台の上に小さな彫刻刀がある。
職人の道具だ。使い込まれていて柄が黒い。
それを掴み、箱の底に手を伸ばす。
木が冷たい。嫌な冷たさだ。
彫刻刀の刃を当てる。
カリ、と削れる。
木屑が落ちる。
もう一度。
カリ。
削るたび、剣の熱が少し落ちる気がした。
落ちるというより、まとまる。
ばらばらだった衝動が、線の中に戻る。
職人が息を吐いた。
「……それだ。そこだ。……消せ……!」
私は削り続ける。短く、確実に。
木目の中に薄い印が見えた。
点のような印。針先で押したみたいな印。
源の印。
私はその印を狙って削った。
カリ。
印が薄くなる。
カリ。
消える。
その瞬間、箱の中から漏れていた音が止まった。
ぱち、が消える。
耳が静かになる。
胸が少し軽くなる。
でも安心する前に、別の音が鳴った。
カン、カン、カン。
警報。
上で鳴っている。地下にも響く。
ミドリが顔色を変える。
「……気づかれた」
レオンが立ち上がる。
「撤退します。今すぐ」
職人がよろけながら、こちらを見た。
「……まだ終わってねえ」
掠れているのに強い声。
「源の印は、まだ上にある……!」
上。
地下だけじゃない。
職人が最後に言った。
「……合流点へ運ばれる。止めろ……!」
合流点。
次の場所が見えた。
次の目的が見えた。
レオンが私たちを見て短く言った。
「走れますか」
私は頷く。
「走る」
ミドリも頷いた。顔は青い。
青いのに足は動く。
職人の肩を支え、出口へ向かう。
剣は熱い。
でもさっきの熱とは違う。
衝動じゃない。
線を守る熱だ。
地下の空気は冷たい。
冷たいまま、追手の足音が近づいてくる。
時間がない。
でも今なら逃げられる。
境界が生まれたからだ。
私は短く息を吸って、吐いた。
「行く」
それだけで、足が前へ出た。




