第38話 記憶:誉剣と、線引き師の約束
町外れの倉は、静かだった。
静かすぎるくらい静かで、耳が勝手に音を探してしまう。
遠くの犬の鳴き声。川の流れ。板が軋む小さな音。
それくらいしかない。
倉の中は薄暗く、灯りは一つだけ。
火を強くすると目立つ。弱くすると作業がしづらい。
その真ん中の落ち着かない明るさが、今の気分に合っていた。
床に敷いた布の上に、奪ってきたものを並べる。
版木の欠片。
刻印板。
そして、小型の空箱の一つ。
どれも軽い。
軽いのに、重い。
軽いのに、町を揺らす。
レオンは淡々と手袋をはめ、欠片の端を指で押さえた。
「木の削り方が同じです」
同じ。
予想していた言葉なのに、聞くと胃の奥が少し冷える。
ミドリは倉の隅で、背中を壁に預けて座っていた。
足がまだ震えているみたいだった。
「……これ、本当に全部つながってるんですね」
声は小さい。
でも、ここでは小さい声がよく通る。
私は欠片を一つ手に取った。
木目の間に紛れている線。
羽のような線。波のような線。
その線の流れが――背中の包みの中の刃の模様と、同じ形をしている。
私は包みを膝に乗せ、布の上からそっと触れた。
剣は熱い。
熱いのに、声がない。
『……』
沈黙。
それが一番、怖い。
いつもは褒める。余計なことも言う。
それが今日は黙っている。
黙っているのに、熱だけが揺れていた。
「……話せる?」
私は小さく聞いた。
無理に言わせたくない。
無理に言わせると、言葉が固くなる。
固い言葉は刺さる。
刺さると戻れない。
剣はしばらく沈黙したまま、熱を上げたり下げたりした。
その間にレオンは欠片をもう一つ取り上げ、淡々と確認する。
「刻印の線が刃の模様と一致しています。偶然ではありません」
ミドリが唇を噛んだ。
「じゃあ……剣と、あの箱は、同じ人が……?」
「同じ系統だ」
レオンははっきり言った。
曖昧にすると迷子になる。今はそれが一番危ない。
私は包みに手を置いたまま、息を吸った。
ここで必要なのは恐怖じゃない。
根を掴むことだ。
根を掴めば、枝が折れる。
『……言う』
剣がようやく声を出した。
いつもの軽さがない。
からかいもない。
まっすぐな声だった。
『俺は、誉の音を鳴らすために作られた』
誉。
耳に馴染む言葉なのに、意味が分からない。
「誉って……褒めること?」
思わず聞いた。
剣の熱が少し落ちる。
『違う。褒めるのは俺の癖だ。仕事じゃない』
癖。
命令で褒めていたわけじゃない。その事実が少しだけ救いになった。
『誉は、“帰れ”の許可だ』
帰れ。
その言葉が胸の奥にすっと入る。
帰っていい。
戻っていい。
働く人に一番必要な言葉だ。
働いていると、帰ることに罪悪感が混ざる。
帰るのに理由が必要になる。
だから「帰れ」と言ってくれるものがいる。
『俺は、終わりを作る道具だった』
剣が続けた。
『終わりを選んだ人を責めないで帰らせるための音。……そのために鳴る』
私は息を吐いた。
胸が少しだけ軽くなる。
軽くなるのに、涙は出ない。
これは泣く話じゃない。
線の話だ。
「誰が作ったの」
私は聞いた。
剣は少しだけ間を置いて答えた。
『線引き師だ』
「線引き師?」
ミドリが小さく繰り返す。
レオンは淡々と頷いた。
「言葉と手順を組む職能です。古い仕事ですが、説明はつきます」
線引き師。
言葉だけじゃなく、手順も一緒に作る人。
札を貼るだけで終わらせない。
湯を回す。鐘を鳴らす。交代札を置く。
そういう“形”を作る人。
剣が低い声で言う。
『言葉だけで人は止まれない。手順がいる。場がいる。線がいる』
短い言葉。
でも重い。
『線引き師は、終わりの場所を作る。終わりを悪にしないために』
終わりを悪にしない。
それは今、私たちがやろうとしていることだ。
剣の熱が少し強くなる。
『……でも、その刻印が盗まれた』
盗まれた。
『線の刻み方。音の鳴らし方。人の呼吸を揃える仕組み』
胸が冷える。
呼吸を揃える仕組み。
便利なものは転用されやすい。
『空っぽの箱は、俺の影だ』
影。
珍しく剣が言い切った。
『俺は帰らせるために鳴る。箱は動かすために鳴る』
私は欠片を見つめた。
木目に紛れた線。
あれが、人の呼吸を変える。
「線引き師は……今もいるの?」
私は聞いた。
剣は沈黙した。
沈黙は肯定にも否定にも聞こえる。
代わりにレオンが淡々と口を開いた。
「線引き師という呼び方は今は使われないでしょう。ただ、近い家系は残っている可能性があります」
思い当たる人がいた。
ナギ。
言葉屋。
札の言葉を削り、刺さらない形へ整えられる人。
言葉だけではなく、場と手順まで考える。
あの人の仕事は、線引き師に近い。
私は倉の隅の机へ行き、紙と筆を取った。
ナギへ文を送るためだ。
短く書く。要点だけ。
線引き師。刻印。誉=帰れの許可。
欠片の線が剣と一致。源の印がある可能性。
羽組地下に工房があるらしい。
書き終え、蝋印の代わりに紐で括った。
急ぎの便だ。
誰かに託して町へ飛ばす。
ミドリが布の上の空箱を見て、震える声で言った。
「……でも、箱を押収すれば終わるんじゃないんですか」
レオンが淡々と首を振る。
「押収だけでは終わらない可能性が高い」
「なんで……?」
ミドリの目が大きくなる。
剣が答えた。
『欠片には“源の印”がある』
『源の印がある限り、箱は増える』
「増える……?」
ミドリが息を吸う。恐怖が喉に詰まっている。
『押収しても作り直される。同じ印があれば、同じ形が生まれる』
根が残る。
根が残る限り、芽は出る。
私は言った。
「印の元を折らないといけない」
レオンが頷く。
「つまり、源型を止める必要があります」
ミドリが小さく首を振る。
「……それ、どこに」
その問いに答えたのは、ミドリ自身だった。
彼女は震える手で懐から小さな紙片を出した。
破れかけているのに、字だけは残っている。
「……羽組の内部帳簿の断片です。倉庫の整理で見つけて……怖くて隠してました」
声が震える。
言いながら自分の手を握りしめている。
「ここに……書いてあります。『源の印は地下の工房で管理』って」
地下の工房。
倉の空気が冷える。
地下は、閉じ込めるのに向いた場所だ。
レオンが紙片を受け取り、淡々と読んだ。
そして迷わず言う。
「救出と押収を同時に行います」
ミドリが顔を上げた。
「救出……?」
レオンの目は揺れていない。
「源型の製作者が拘束されている可能性があります。放置すれば、いくらでも作られる」
拘束。
工場の奥で感じた違和感が、形になっていく。
誰かが“作らされている”。
私は息を吐いて、短く言った。
「行こう」
迷うと刺さる。
だから言葉は短く。
レオンが頷く。
「目標は羽組本拠の地下にある工房です。押さえます」
ミドリが小さく頷いた。
怖いのに頷ける。それは前に進む合図だ。
私は包みを膝に乗せ、剣に触れた。
剣は熱い。
でも今の熱は衝動だけじゃない。
帰れ、と言うための熱。
終わりを守るための熱。
私は剣に向けて短く言った。
「約束する」
剣が沈黙する。
沈黙は聞いている合図だ。
「終わりを選んだ時だけ、褒める」
私ははっきり言う。
褒めることが増えると、人はまた動きたくなる。
だから褒めるのは区切りのときだけ。
剣が静かな声で返した。
『……線を守る』
重いのに優しい言葉だった。
線を守る。
終わりを守る。
私は布包みを抱え直し、欠片と刻印板もまとめた。
証拠。
鍵。
道しるべ。
外へ出ると、夜の空気が冷たかった。
冷たい空気は頭を冷やす。
でも町のほうから、ざわめきが聞こえる。
怒りのざわめきだ。
誰かが声を上げている。
それに人がついていく。
公会堂での仕込みが、町の怒りに変換されている。
怒りは簡単に燃える。燃えると止まらない。
レオンが淡々と言った。
「抗議が始まっています。管理局へ向かう人も出るでしょう」
「時間がないね」
私は答える。
ミドリが唇を噛んだ。
「……潜入、間に合いますか」
私は息を吸って、短く返した。
「間に合わせる」
線を守るために。
終わりを守るために。
白い夜は、まだ終わっていない。




