第37話 潜入:川上の工場、白い夜
夜の川は黒い。
黒い川の上に、白い匂いが乗ってくる。
紙の匂いだ。
湿った繊維の匂い。湯の匂い。漂白の匂い。乾ききらない白の匂い。
町の中でも感じる匂いだけれど、川上では濃さが違う。胸の奥に残る。
川沿いに並ぶ工場地帯は、灯りが少なかった。
夜の工場は明るいのが普通だ。人が働けば明るい。機械が動けば明るい。
でもここは違う。
明るくしたくない理由があるみたいに、必要な場所だけが薄く照らされている。
光が薄いと、静けさが目立つ。
私たちは少人数だった。
ユイ。
レオン。
ミドリ。
ナギは町に残った。札の配布と噂の対処に回るためだ。
表で起きていることを抑えないと、こちらで何を掴んでも意味が薄れる。
ミドリが暗い道の先を指す。
「……この先です。川沿いの倉庫みたいな建物が並んでて、一番奥。灯りが一つだけ残ってるところ」
声が小さい。夜は声が自然に小さくなる。
レオンが淡々と確認する。
「巡回は?」
「多分います。羽組の人、ここにも入ってます」
羽組。
現場に寄り添う顔で、現場の呼吸を揃える役。
背中の包みが、少し熱を持つ。
『……嫌な匂いがする』
剣が低く言った。
嫌な匂い。
紙の匂いじゃない。空気の匂いだ。何かを隠す匂い。
私たちは裏手へ回った。
工場の裏は暗い。水路があり、板の道があり、荷車が通るための狭い道がある。
木の板は湿っていて、踏むと小さく鳴る。
私は足を置く場所を選ぶ。
音を出さないためというより、音を目立たせないために。
レオンも同じ歩き方だった。淡々としているのに、動きが丁寧だ。
ミドリだけが少し震えている。
怖いのに来ている。それだけで十分、強い。
工場の壁は白かった。
昼の白ではなく、夜に沈む白。
白い壁は影を大きく見せる。
私たちの影も必要以上に大きい。
裏口の扉に近づく。
鍵は掛かっていない。
それが一番怖い。
鍵がないのは安心じゃない。
「誰も入らない」と決めている場所だからだ。
ミドリが唇を噛み、小さく言った。
「……ここ、いつも人がいるはずなのに」
いつもいるはず。
なのに静か。
中に入った瞬間、静けさが耳に張り付いた。
機械音がない。
正確には、あるはずの音が抑えられている。
回る音。叩く音。湯が流れる音。そういう音が薄い。
音を聞かれたくない。
そんな静けさだった。
紙の匂いが濃い。濃いのに冷たい。
作業場が見えた。
白い紙が並び、板の上で広げられ、刷毛で何かが塗られている。
ぱっと見は普通の工程だ。紙に下地を塗って、乾かして、印刷する。
でも、刷毛の動きが違った。
手が慎重すぎる。
慎重すぎるのは、触れたくないからだ。
作業員の顔は疲れていた。眠い疲れじゃない。気持ちが削れた疲れ。
目が乾いている。瞬きが少ない。
集中を切らすと戻れない仕事をしている目だ。
ミドリが息を飲む。
「……紙に、何を塗ってるんですか」
レオンが淡々と答えようとして、言葉を止めた。
分からない。分からないものは怖い。
私は近くの棚を見る。
瓶があった。薄い液体。ラベルはない。
透明に近いのに、光を当てるとわずかに色が変わる。油みたいに薄く揺れる。
『……滑る』
剣が小さく言った。
嫌な言い方だった。
紙の上で、何かが滑る。
言葉が滑る。
心に入りやすくなる。
作業台の向こうに、印刷された札が積まれている。
印刷の文字は、見慣れた言葉だった。
「今日だけ」
「今だけ」
「ここだけ」
「まだいける」
責める形じゃない。優しい顔をしている。
でも優しい言葉ほど断りにくい。断れないから、体が動いてしまう。
作業員の中のひとりが、無意識に手を叩いた。
ぱち。
小さな音。
それを合図にしたみたいに、周囲の手も叩く。
ぱち、ぱち。
拍手が増えると動きが揃う。揃うと作業速度が上がる。
速度が上がると判断が雑になる。雑になると事故が起きる。
危ない瞬間が来た。
紙束を運ぶ荷車が、角を曲がりかけて傾いた。
重い。湿っている。
一度倒れたら支えきれない。
若い作業員が「うわっ」と声を上げ、手を伸ばす。
だめだ。
手を出したら巻き込まれる。
私は迷わず、短く声を置いた。
「一度、湯を飲め!」
怒鳴らない。けれど届く声。
若い作業員が一瞬止まった。止まったことで足が踏み直せる。
荷車の取っ手を支えていた別の作業員が、肩で受ける形に変える。
荷がギリギリで戻った。
倒れない。
若い作業員が息を吸って、吐いた。
「……あ、ぶな」
そこですぐに事故が止まった。
作業場の空気が一瞬だけ静かになる。
拍手が止まる。
その瞬間が必要だった。
レオンが私の横で淡々と囁く。
「今の言葉、効きました」
「危ないときは、短いほうがいい」
私は答えた。
長い説明は間に合わない。
短い指示は体が動く。
そのとき、背後から足音がした。
コツ、コツ。
乾いた靴音。湿った床でも迷わない歩き方。
警備役だ。
羽組の札束を抱え、笑顔のまま歩いてくる。
「お疲れさまです。皆さん、いい調子ですよ」
声が優しい。優しいけれど壁がある声。
「はい、これ。貼ってください。疲れが軽くなりますから」
警備役は作業員に札を渡していく。
作業員の手が反射的に伸びる。
誰も悪気はない。疲れていると、楽になるものに手が伸びる。
胸が冷える。
レオンが淡々と目で合図した。
――保管室を探す。
源型がどこにあるか。搬出ルートを止めるには、そこを押さえるしかない。
ミドリが小さく指を差す。
「……奥に扉があります。あそこ、普段は関係者しか入れません」
関係者しか入れない。
そこにある。
私たちは壁沿いに動いた。作業員に紛れない。紛れると別の目立ち方をする。
目立たない動きは、ゆっくりだ。
扉の前に来ると、木札が掛かっていた。
保管。
短い文字。
私は取っ手に触れた。冷たい。
鍵が掛かっている。
レオンが袋から札を取り出す。封印札だ。
触れる場所に貼り、開閉を止める。短い手順でできる。
レオンが扉の隙間に札を当て、指で押さえた。
紙が吸い付く。
それだけで扉が重くなる。
「確保」
レオンの声が小さい。
確保した。
でも中に入っていない。
私は周囲を見た。
警備役が近づいていないか。作業員が不自然にこちらを見ていないか。
大丈夫。今はまだ、空気は作業のほうへ向いている。
ミドリが息を吐いた。
「……怖い」
「怖いのは正しい」
私は短く答えた。
「だから、足元を見る」
足元を見ると転びにくい。転びにくいと動ける。
扉の横に薄い隙間があった。鍵穴の周り。木が削れた跡。
頻繁に開け閉めしている。つまり、ここが動いている。
レオンが淡々と工具を出す。
「壊さずに入ります」
音を立てない。時間もかけない。
簡単な作業で鍵が外れる。
扉が開いた。
中は暗い。けれど紙の白だけが浮いて見える。
棚。木箱。板。
そして――版木の欠片。
刻印板。
木目に紛れる線が確かにある。
羽の線。
波の線。
剣の刃の模様に似た流れ。
背中の包みが急に熱くなる。
『……これ』
剣が小さく震えた。
ただの熱じゃない。触れたくて、触れられない熱。
私は欠片を手に取った。
軽い。
軽いのに、指先が少し痺れるような感触が混ざる。
レオンが棚の奥を覗き、淡々と言った。
「源型の一部です。全部ではない」
全部じゃない。
ここは前の場所。
入口に近い場所。
ミドリが小さく呟く。
「……町で見た札の裏と同じです」
同じ線。
同じ仕組み。
私たちは欠片と刻印板を布に包んだ。証拠になる。剣の反応にもなる。
そのとき。
工場の奥で、一度だけ大きい音が鳴った。
ドン。
拍手じゃない。鐘でもない。
木と金属がぶつかったような重い音。
作業場の空気が止まる。
作業員の手が止まる。
警備役の笑顔が一瞬だけ固まる。
それは合図だった。
――ここじゃない。
――もっと奥がある。
レオンが息を吐いた。
「……ここは前の拠点ですね」
「うん。中心じゃない」
私は答えた。
背中の剣が熱い。熱いだけじゃない。
剣が、怖がっているようにも感じた。
『……近い』
剣が小さく言う。
「何が」
『俺の……始まり』
始まり。
剣の出自の核心。
その言葉が喉の奥を冷やした。
ミドリが震える声で言った。
「……誰が、こんなものを作ったんですか」
私は即答できない。
刻印師は言っていた。昔、鍛冶と版木師が組んだ。
でも“昔”だけでは足りない。今も誰かが動かしている。
レオンが周囲を確認する。
「長居はできません。巡回が戻ります」
「うん。戻ろう」
私は布包みを抱え、扉をそっと閉めた。開けた痕跡が残らないように。
戻り道のほうが難しい。人は帰りの油断で見つかる。
作業場を横切るとき、私は視線を低くした。
作業員たちはまた動いている。貼られた札が増え、拍手が小さく戻り始める。
警備役は優しい声で言っている。
「大丈夫ですよ。今日だけですから」
今日だけ。
軽い言葉なのに、断りにくい。
私たちは裏口から外へ出た。夜の外気が冷たい。
冷たいのに、肺が楽になる。
川の音が聞こえる。黒い水が流れている。
ミドリが小さく言った。
「……源型、全部じゃないんですよね」
「うん。ここは入口に近い」
私は答えた。
「でも欠片は取れた。線も取れた」
レオンが頷く。
「次は中心を探す必要があります。搬出の本命は別にある」
背中の包みが熱を増した。
『……作った奴がいる』
剣が低く言う。
作った奴。
私はその言葉を心の中で繰り返した。
作ったのは誰だ。
なぜ剣の線を箱に混ぜた。
なぜ町の呼吸を揃える。
ミドリがふと呟く。
「……工場の奥。人の気配、変でした。誰か閉じ込められてるみたいな」
閉じ込められてる。
背中が冷える。
刻印の元。源型の製作者。
もしその人が自由じゃないなら、これは町のためじゃない。
誰かが、使っている。
レオンが淡々と歩き出した。
「戻りましょう。今夜掴んだものを、確実に持ち帰る」
「うん」
私は頷き、布包みを抱え直した。
欠片が揺れ、剣に触れる。
剣が小さく震えた。
『……近い。逃げるな』
私は短く返す。
「逃げない」
夜の川は黒い。
でも紙の匂いは白いまま残る。
白い夜が終わらないうちに、中心へ辿り着かなければならない。
時間がない。
その感覚だけが、足を前へ進めた。




