第36話 収束:抜かない刃、鳴らす線
公会堂の中は、まだ落ち着いていなかった。
鐘が鳴って会は中断された。
けれど鐘ひとつで、人の気持ちが元に戻るわけじゃない。
椅子の間には人が詰まり、通路は細いまま。立ち見の人が動けば、座っていた人も立ち上がる。立ち上がれば、後ろの人も押される。
誰も悪くないのに、危ない形だけが残る。
「……出口が足りないな」
レオンが淡々と言った。けれど声の奥に、ほんの少し緊張が混じっている。
緊張は伝わる。伝わると、余計に人は早く動こうとする。
早く動こうとするほど、転びやすくなる。
私は視線を低くして、床の近くを見た。
靴。
裾。
椅子の脚。
危ないのは、転倒の連鎖だ。ひとり転ぶと、次が踏みかける。踏みかけた人もバランスを崩す。そこでまた倒れる。
背中の包みが熱くなる。
熱は怒りではない。危険を消したい衝動の熱だった。
『……抜け』
剣が小さく言った。
声がいつもより近い。胸の内側で響いているように感じる。
『抜けば止められる。止めれば守れる』
分かる。
抜けば空気を変えられる気がした。
乾いた音を、こちらの音で上書きする。拍手の流れを別の流れで切る。
――でも、それは一番やってはいけない。
抜いた瞬間、町は私たちを“危険な側”に入れる。
怖いものには従わせたくなる。従わせたい気持ちは、もっと強い言葉を求める。
そうなったら終わりだ。
私は包み越しに剣を握り、短く命令した。
「抜かない」
剣の熱が跳ねた。
『……っ』
苦しそうな音。怒っているのではなく、衝動と理性がぶつかっている音だ。
私は息を吸って、もう一度言った。
「終わりを守れ。続けるな」
短く、はっきり。
剣が震えた。
熱が一瞬だけ強くなり、それから少し落ち着く。
『……わかった』
剣は従った。
その代わり、低い声が続く。
『一回だけ。……一回だけなら』
「それでいい」
私は頷いた。
一回だけ。
終わりの合図としての一回。
続けないための一回。
レオンが前へ出て、声を通した。
「皆さん、落ち着いてください。出口を分けます」
怒鳴らない。けれどはっきりした声。
この場にいる人の多くは、怒っているわけじゃない。不安なのだ。何が起きているか分からないのに、人の熱だけが上がっている。
不安な人は、具体的な指示があると少し落ち着く。
「右側は奥の扉へ。中央は正面へ。押さないで。歩幅を小さく」
歩幅を小さく。
現場の言葉だ。頭で想像しやすい。
ミドリが舞台袖の方を見て、言った。
「裏口があります。羽組が来賓用に使う扉……開けられます」
レオンの目が動く。
「場所は」
「こっちです」
ミドリが走る。走ると危ない。けれど今のミドリは足元を見ている。慎重な走り方だ。
彼女は扉の前に立ち、鍵を探すように手を動かした。
「……ここ、のはず」
カチャ、と音がして扉が開く。
外の冷たい空気が流れ込む。
その瞬間、会場の熱が一段落ちた。
空気が変わると、人の肩が少し下がる。
レオンがすぐに声を通す。
「裏口へ出られます。こちらは急がず、ひとりずつ」
ひとりずつ。
言い方が具体的だと、人は動き方を思い浮かべられる。
私は通路の端で、倒れそうな人がいないか見続けた。
靴紐を踏まれた。
腕を引かれた。
椅子に膝をぶつけた。
小さな危険があちこちで起きている。
全部を声で止めることはできない。
だから手順で流す。流れを作って、危険が溜まらないようにする。
そのとき、また乾いた音が鳴った。
ぱち。
床の下。
壁の裏。
さっきより小さいが、確かに鳴っている。
音が鳴ると、何人かが無意識に立ち止まった。立ち止まると後ろが詰まる。詰まれば押される。
最悪の連鎖が始まりかける。
『……鳴ってる』
剣が言う。
私は歯を食いしばった。
鳴らしているのは人じゃない。
仕込みだ。
ここに小型の箱がある。
それが共鳴して、会場の空気を揺らしている。
レオンが私の視線に気づき、短く言った。
「探しますか」
「うん。証拠がいる」
証拠がないと、町は信じない。信じなければ、次は別の場所で同じことが起きる。
ミドリが裏口の誘導を続けながら、こちらに向かって首を振った。
「床下……舞台の近くに、点検用の板があった気がします」
点検用の板。
それは隠し扉になりやすい。
私は舞台袖へ回った。
幕の影。木の床の継ぎ目。そこだけ色が違う板がある。
踏むと、わずかに沈んだ。
私は膝をつき、板の端を探る。爪が入る隙間がある。
「ここだ」
レオンがすぐ近づく。
「開けられますか」
「開ける」
私は板を持ち上げた。
ぎ、と木が鳴る。
中から湿った空気が上がってきた。埃と木の匂いが混ざった匂い。人が普段入らない場所の匂いだ。
暗い穴がある。
段差が下へ続いている。
乾いた音が、すぐ下で鳴った。
ぱち、ぱち。
私は小さく息を吸い、言った。
「行く」
「私も」
レオンが一緒に降りる。
剣は熱いままだ。
けれど「抜け」とは言わない。
『一回だけ……』
剣が呟く。
「一回だけでいい」
私は包みを押さえた。
床下は狭い。
低い天井。木の梁。古い箱。紙の束。使われなくなった椅子の脚。
その奥に、小型の箱が並んでいた。
手のひらより少し大きい。蓋が薄い。中身は空っぽ。
けれど箱の内側に、細い線がある。
木目に紛れる線。
羽のような線。波のような線。
刻印師の試作品と同じ系統。
背中が冷える。
ここに仕込んだのは工房の人じゃない。
ここへ運んだ人がいる。
箱の横に、小さな紙片が挟まっていた。
搬入メモ。
誰が、いつ、どこへ。
簡単な文字で、急いで書いた字だった。
レオンが読み、眉をわずかに寄せる。
「……『札箱の源型』『川上の工場』『夜間搬出』」
源型。
箱の元になる型。
それが移動する。
私は短く言った。
「回収する」
その瞬間、上でまた音が増えた。
ぱち、ぱち。
床下の箱が共鳴している。
上の壁裏の箱ともつながっている。
音が続けば、会場の人はまた足を止める。止まれば詰まり、転びやすくなる。
今止めないと間に合わない。
剣の熱が強くなる。
『……一回だけ』
私は包み越しに剣を握り、短く言った。
「終わりの合図だけ。続けない」
『……わかった』
剣が震える。
そして。
ぱち。
拍手に似た音だった。
けれど、さっきまでの乾いた音とは違う。
同じ硬さでも、意味が違う。
終わりの音。
続けない音。
たった一回の音が響いた瞬間、床下の箱の共鳴が止まった。
ぱち、ぱちと続いていた音が途切れる。
空気が変わる。
上から聞こえていたざわめきが、少し落ち着く。
人の波がゆっくりになる。
レオンが息を吐いた。
「……切れました」
「うん。今だ」
私は小型箱を布に包み、二つ、三つとまとめた。
軽い。
軽いのに、厄介だ。
レオンは搬入メモを折り、内ポケットにしまう。
「これで言い逃れはしにくい」
「でも、向こうは逃げる」
私は短く言った。
証拠があっても逃げる。
逃げるために、言葉を整える人がいる。
上へ戻ると、公会堂の中はまだざわついていたが、転倒は減っていた。
ミドリが裏口で、震える手で人を誘導している。
「ゆっくりでいいです。大丈夫です……」
声は小さい。けれど今は、その小ささがいい。小さい声は相手の肩を下げる。
レオンは腕の擦り傷を押さえながら、淡々と指示を出した。
「湯場へ。水を飲める場所へ誘導してください。外気で冷えた人は倒れやすい」
「はい……!」
ミドリが頷く。
この町で必要なのは、勝つことじゃない。
倒れる人を出さないことだ。
会場が少しずつ空になる。
椅子が片付けられ、鐘の音が遠くなる。
トバリは舞台袖で、上品な顔のまま誰かと話していた。
笑顔は崩れない。
それでも目だけが一瞬、こちらを見た。
冷たい目だった。
その目は言っている。
責任は取らない。
町のせいにする。
君たちのせいにする。
レオンが小さく言った。
「声明を出すでしょうね」
「出す。丁寧な言葉で」
丁寧な言葉は強い。
強いのに、責めているように見えない。
ミドリが唇を噛む。
「……私たちが悪者にされますか」
「される可能性は高い」
私は正直に答えた。
「でも、証拠はある」
私は布包みを抱え直した。中には小型の空箱。軽くて、危険なもの。
レオンが搬入メモの折り目を確認するように触れた。
「源型が動くなら、時間がありません」
「うん。急ぐ」
急ぐ。でも焦らない。
焦ると判断が乱れる。
公会堂の外に出ると、夜の風が冷たかった。
冷たい風は、頭を少し冷やす。
背中の包みの熱は、まだ残っている。
『……抜かなかったな』
剣が小さく言った。
褒める声だった。
今日は、その褒めが少し痛い。
「抜いたら守れなくなる」
『……それでも、抜きたくなる日がある』
「ある」
私は短く答えた。
今日が、その日だった。
でも抜かなかった。
抜かないまま、線を鳴らした。
一回だけ。
終わりの合図だけ。
それができたなら、まだ戻れる。
私は空箱の入った布包みを強く抱えた。
源型は移動する。
川上の工場。
夜間搬出。
時間がない。
けれど今夜は少しだけ、息ができた。
倒れる人を出さなかったからだ。
公会堂の白い壁はもう見えない。
代わりに暗い路地の先で、次の場所が待っている気配がした。




