第35話 公会堂:正しい言葉が刺さる日
公会堂の壁は白い。
白い壁は汚れが目立つ。汚れが目立つ場所では、人は自分の影を気にする。影を気にすると姿勢が固くなる。固くなると呼吸が浅くなる。
今日は、まさにそんな日だった。
入口から中を覗いた瞬間、人の多さが分かった。椅子が並び、通路が細くなり、立ち見の人の肩がぶつかり合っている。誰も怒っていないのに、空気が少し荒れている。
視線が多い。
視線が多いと、人は喋りにくくなる。喋りにくいと、言葉は短くなる。短い言葉は、思った以上に強く聞こえることがある。
私は深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
背中の包みが、ほんの少しだけ熱を持つ。
『……嫌な場所だな』
剣の声は小さい。けれど、いつもより硬い。
レオンが淡々と歩き、受付の横に立つ。
「呼ばれた以上、避けるわけにはいきません」
ミドリの顔色はよくない。恐怖と責任が混ざった色だ。
「……皆の前で話すの、苦手です」
私は短く返した。
「言うことは少なくていい」
言葉を長くすると、余計な誤解が生まれる。今日は特にそういう空気だった。
私たちが会場に入ると、ざわめきが小さく広がった。
噂が先に座っているからだ。
管理局が仕事を止める。終業札で町が弱る。そんな言葉が、先に並んでいる。
舞台の上には机が置かれ、前に立つ人のための場所が用意されていた。
その中央に――羽組の代表がいる。
トバリ。
薄い色の人物だった。派手ではないのに目に入る。声を張らなくても届きそうな姿勢。上品で、温度が薄い。
笑っているのに、心が見えない。
トバリは会場を見渡し、ゆっくり口を開いた。
「本日は、お忙しい中お集まりいただきありがとうございます」
丁寧な声。柔らかい声。だからこそ、反論しにくい。
「私たちは現場を支えています。働く人を守るため、札という形で助けを届けてきました」
会場のあちこちで、小さく頷く動きが見えた。
頷きは安心の形だ。安心が広がると、反対意見は悪に見えやすい。
トバリは少しだけ間を置いて言う。
「ですが最近、『止める』ことを勧める札が出回っています」
止める。
その言葉は鋭い。
「止めることは、暴力です」
会場が静かになった。
暴力。
強い単語が出ると、人は考える前に反応する。
背中の包みが、少し熱くなる。
『……言い方がうまい』
剣が低く言った。
うまい言い方は、内容より先に空気を作る。空気ができると、理屈は後回しになる。
トバリは悲しそうな顔をした。
「止めたら、家族が困ります。止めたら、明日のご飯が不安になります」
会場の空気が重くなる。
それは正しい不安だ。生活の不安は、理屈に勝つ。
レオンが前に出た。淡々とした表情で、用意していた紙を開く。
「管理局としては、現場の事故率と欠勤率を減らす必要があります。短時間の交代で、総作業量が落ちないことは――」
数字。制度。理屈。
正しい。
けれど、正しい話は生活の恐怖の前では薄くなる。
会場のどこかで、ぼそっと声が落ちた。
「その数字、うちの家計に関係あるのか」
関係はある。けれど、今は届かない。
トバリが柔らかく笑った。
「難しいお話ですね。皆さん、日々の生活で精一杯ですから」
優しい言い方で、レオンの足元を崩す。
レオンの口が、わずかに止まる。
その隙に、私は一歩前へ出た。
今日は言葉を削る。
勝つ説明ではなく、誤解を増やさない説明が必要だ。
「止めるためじゃありません」
声は大きくしない。大きくすると余計に反発が起きる。
「区切るためです」
区切る。
止めるより柔らかい。
視線が私に集まる。集まると呼吸が浅くなる。私は息を整えるより先に、短く続けた。
「働く人を責めません」
責めない。
それは現場に必要な言葉だ。
トバリが穏やかに首を傾ける。
「区切る、ですか。素敵な言い方ですね」
褒めているようで、線引きしている声。
「ですが、その結果。仕事が遅れたら、誰が責任を取るのでしょう」
会場がざわめいた。
責任という言葉は重い。重い言葉は、人を黙らせる。
トバリは続けた。
「私たちの札で救われた人がいます」
前の列で誰かが頷く。
「終業札を貼ったおかげで、今日を乗り切れた。そういう声もあるのです」
終業札。
聞こえはいい。けれど、ここで細かく反論すれば長くなる。長くなると、会場は集中を失う。
集中が切れたとき、残るのは強い言葉だけだ。
私は短く言った。
「救われた人がいるなら、否定しません」
否定しないほうが敵を増やしにくい。
「でも、事故が増える形は変えたいです」
事故の話に戻す。
戻すと、現場の目が少し戻る。現場の目は生活の目だ。
けれど――会場の空気は別の方向へ傾き始めていた。
誰かが小さく拍手をした。
ぱち。
小さい音。
次の人がつられて叩く。
ぱち、ぱち。
それだけで空気が変わる。
拍手は賛同に見える。賛同が増えると、異論は言いにくくなる。
背中の包みが熱くなる。
『……音が混ざってる』
剣が低く言った。
私は会場を見渡した。
拍手しているのは一部なのに、動きが広がっている。理由がなくても、空気は広がる。
トバリが薄く笑った。
「ほら。皆さんは、背中を押してほしいのです」
その言い方は柔らかい。けれど今、起きているのは空気が一方向へ流れていくことだった。
そのとき。
床の下から、乾いた音がした。
ぱち。
今の拍手とは違う。空っぽで硬い音だ。
壁の裏からも鳴る。
ぱち、ぱち。
音が増える。増えて、会場全体で響く。
私は喉が冷えるのを感じた。
仕込まれている。
小型の箱が、どこかにある。
音が合図になっている。
拍手が増える。呼吸が揃う。揃うと、人の動きが似てくる。
会場の何人かが、無意識に立ち上がった。
椅子が鳴り、足音が重なる。
「……何?」
「なんだこれ」
誰かが笑う。笑いが広がる。広がると止めにくい。
人の波が、こちらへ寄ってくる。
悪意じゃない。
けれど結果は危険だ。
レオンが前へ出て、手を広げた。
「下がってください。危険です」
声が少し強くなる。強い声は、相手の反応も強くすることがある。
「危険? お前らが危険だろ!」
誰かが叫んだ。
空気が荒れる。
次の瞬間、レオンの足が椅子に引っかかった。
転倒。
床に手をつき、肘を擦った音がした。紙が散る。
「レオン!」
ミドリが固まる。
目を開いたまま動けない。身体が言うことを聞かない感じだ。
人の波がさらに近づく。
このまま押し合えば、誰かが倒れる。倒れたら踏まれる。
私の胸の奥に、熱が走った。
剣を抜きたい。
一瞬で空気を変えられる気がした。
でも、抜いたら終わる。
守るための行動が、恐れに変わってしまう。
私は剣の柄に触れかけて、止めた。
叫ばない。
叫ぶと刺激になる。
代わりに、短い言葉を置く。
「息をしろ!」
怒鳴らない。届く声で、はっきり。
近くの人が一瞬止まる。止まると呼吸が戻る。
私は続けた。
「一回で終わり!」
拍手する手が止まる人が出る。
けれど完全には止まらない。
床下の音がまだ鳴っている。壁裏の音も続いている。音が続けば、人の身体は引っ張られる。
誰かがまた拍手する。
ぱち。
その一回が次を呼ぶ。
ぱち、ぱち。
会場の端で椅子が倒れた。
悲鳴が上がる。
「やめろ!」
「何してんだ!」
叫び声が増え、混乱が増える。
司会の男が舞台へ飛び出し、鐘を鳴らした。
ガン、と大きい音。
「中断します! 中断! 落ち着いてください!」
鐘は、きっかけにはなる。
人の動きが少しずつ止まる。止まった人から我に返る。
我に返ると、恥ずかしさが来る。恥ずかしさが来ると、逃げたくなる。
会場はざわめきのまま、崩れるように終わった。
トバリは壇上で、乱れない姿勢のまま立っていた。
そして、薄く笑う。
「やはり町は、背中を押してほしいのです」
丁寧な声。丁寧だからこそ、残酷だった。
私の胸の奥に、熱が残っている。
剣を抜く衝動。
抜けば楽になる気がした。抜けば止められる気がした。
でも、抜いたら戻れない。
私は息を吸って、吐いた。
手が震えないように握りしめる。
『……我慢できるか』
剣が小さく言った。
私は短く答えた。
「区切れる」
言い切るのは、自分のためだった。
公会堂の白い壁は、何も言わない。
けれど壁の奥の乾いた音は、まだ遠くで残っている。
今日の混乱は終わっていない。
ただ、始まっただけだ。




